第44話 正季の思い出

 あれは正季が小学校低学年だった頃だ。

 綾視家に養子に来たものの、自分より力の優れた四つ年上の義理の兄がいて、正季はどう接すればいいのかわからなかった。後継者になるために本家に迎えられたということだったのに。


 学校の帰り道。まだ慣れていない通学路。

 家に帰りたくないなあ、と正季は憂鬱な気持ちで思った。

 きっと自分は快く思われていない。当時の正季は、幸人が陰陽師にならない、と宣言していたことを知らなかった。


 だから正季は公園や、あまり知らない道などうろうろと歩いて時間を潰した。

 気が付くと、正季は人気のない道に出ていた。住宅街なのに、車線には車が一台も通らず、人が歩いている姿も見えない。暮れかけた夕日で、影を不気味なほど長く伸びているように感じられた。


 突如、正季は全身の体温が下がったかのように寒くなった。これは良くないものと遭遇する時特有の気配だ。


 正季は呼吸を整えた。幼い頃から怪異が視える者は、視えない者よりもずっと遭遇しやすい。特に力の持たない子供は標的にされやすいのだ。綾視の血筋である正季も、例外ではなかった。


 電信柱の影から、その気配は現れた。

 現れたのは巨大な犬もしくは狼のような形をしていた。だが、正季にはわかる。

 これは人間の攻撃的な意識や感情が形作られたものだ。


 何かのきっかけで生まれ、集まったものが力を持ったのか、詳しい実態は今の正季にはわからない。だが、これが人にとり憑いたら、今まで何でもなかった人が、突然人格が変わったかのように攻撃的になるだろう。もしくは抑圧していた感情に支配され、事件を引き起こしてしまうのか。


 正季は退魔の術の印を組んだ。だが、その行動が敵意と見なされたのだろう。

 怪異が正季の方へと襲い掛かった まだ力の使い方が不十分な正季は、昼間に術を扱うことは得意なのだが、夜になるとあまり上手くいかないことが多かった。


 この時も薄闇になりかけていたからか術は上手く発動せず、爪のようなものが正季を襲った。避けようとしたが、足がもつれて正季は転ぶ。

 思わず目をつぶった正季の耳に、誰かが駆けて来る足音が聞こえた。


「兄ちゃんが助けに来てやったぞ!」


 そんな声と共に一陣の風が吹いて、正季は目を開いた。

 正季の前には、幸人がいた。小学生の男子らしく汚れた運動靴とポロシャツと半ズボンという身軽な服装、使い込んだべこべこのランドセルを背負っており、正季の方を振り向くとにっと得意げに笑った。


 桜の花びらが二人を取り巻くように吹雪いて、正季は驚いた。空間を桜で支配するその術は、大人でも一握りしか出来ない難しい術だと知っていたからだ。


「俺が来たからにはもう安心だ! 迎えに行ってやろうと式を飛ばして、探していたんだ」

 正季は納得した。なるほど、それで自分の居場所がわかったのか。

 けれどよく見ると、幸人の体が震えている。


「ごめん、ちょっと手を握っていてくれないか……。そしたら、兄ちゃん頑張れるからさ」


 この時、幸人はけして怖いとは言わなかった。義理とはいえ弟である正季の前で、怖いとは言えなかったのだろう。

 けれど、正季はすぐに看破した。この義兄は怖いのに、自分を助けるために駆け付けたのだと。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」

 幸人は空中に指先で線を描く。指先から現れた光の線は、糸の綾と成し檻を形成した。取り囲まれた怪異は狂ったように吠え、檻に体当たりをした。

 じろりと怪異に睨まれ、幸人が一瞬息を呑むのを正季は感じた。だが、彼は正季の手をさらに強く握ると、叫んだ。


「悪鬼退散!」

 狼の形をしていたそれは、幸人の詠唱と共に霧散した。花火の跡のような、白いふわふわとした煙のようなものだけが残っている。


「すごい……」

 正季は無意識のうちにそう口に出していた。

 自分より四つ年上というだけなのに。こんなにも実力差があるなんて。


「はー、良かった」

 しばらく幸人はしゃがみ込んだ。疲労からか、それとも隠していた恐怖心からか。

 正季は幸人の背に手を伸ばそうとして、けれどそれが出来なかった。


「何で、助けてくれたんですか」

 ようやく振り絞った言葉がそれだった。

 すると、幸人は心底不思議そうな顔をした。


「何でって決まってるだろ」

 その後こう続けたのだ。


 人を助けるのに、理由なんていらないだろ──?


 ◇ ◇ ◇


 そんな義兄が正季は好きになりきれなくて、嫌いにもなれなかった。彼の優しさも強さも正季には眩しすぎたのだ。

 正季はこの能力的に優れた義兄をさしおいて当主になるのだ。

 彼に負けないよう必死だった。


 今もなお、当主として上手く振る舞えているのか全然自信がない。年は重ねたけれど、自分が思い描いていたより全然大人になりきれないのを自覚しながら、正季はもがいていた。


 どんな組織であれ、中身が伴わない人間なんて周囲の心は離れてしまう。

 だから、正季は当主らしく振る舞おうとした。今回の術の封印も当然の処遇とした。そこに正季自身の意志はなく、当主としての決断を下した。


 血は繋がっていないが、兄弟だからこその愛も情も悔しさも苛立ちも正季の心の内にある。


 医者になりたがっていたことを知って、それに関してどうしても腹が立って喧嘩をしたこともあったし、陰陽心療科というわけのわからないことを始めると聞いた時は心底呆れた。

 何故、苦手なことに自ら飛び込むのかこのバカは。そう思った。


「お前って昔から本当にそういうやつだったよな」

 正季は溜め息混じりで呟いた。そもそも最初の段階で、きっぱり断らなかった時点で自分の負けだったのだ。


 本当に嫌な奴だよなあ、と心の中で思う。正季がいくら努力しても、あっさりと越えていってしまうのだから。

 結界を張っているので聞かれていることはないと思うが、正季は耳元にまで近付いて言う。


「おい、バカ兄貴。お前を普段からバカと呼んでるけど、本っっっ当にバカだな。まだ一週間も経ってねえぞ」

「バカって言った方がバカなんだけどなあ。でも、今回は自覚ある」


「何されるか本当にわからねえから、やむを得ず術者および当主権限を使って一瞬だけ封印を解いてやる。言っとくけど、俺の監視下だからな」


 すると幸人はぱあっと顔を輝かせて、正季の両肩に手を置いた。

「ありがとうな!」

 ゆさゆさと揺らされて、正季は眉間にしわを寄せて怒った。


「喧嘩売ってんのか!」

「いや、本当に感謝してるんだって。お前が当主で良かったと思ってるよ」


「それと、別にクリニックは辞めなくていい。あれは俺も言い過ぎたと思ってる」

 正季は目を逸らしながら伝えた。謝るのは微妙に癪だが、それでもあの診療所が幸人にとってとても大切な場所だとは正季もわかっている。


 そして正季は一点、気になっていたことを尋ねた。

「あと、封印の解き方……そのやり方がすげー厄介なのはお前も知ってるよな」

 すると幸人は胸を張った。


「ああ。それについては俺もちゃんと策を考えている」

「嫌な予感しかしねえなあ……」


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