空色の予感 2
二
いつもより早めの登校。
校舎内に学生の姿は少なく、ふわりと柔らかな風が昇降口に吹き込む。ローファーから上履きに履き替え、階段をのぼって教室へと向かう。
途中、楽器を抱える何人かの学生とすれ違った。おそらく、吹奏楽部だろう。ウチの学校の吹奏楽は全国レベルだと聞くので、朝練が忙しいのかもしれない。
頭上から降ってくる管楽器の高音が、わたしの耳に幸せを届けてくれる。ゆったりとした弦楽器の調べが、わたしの鼓膜を震わせて報酬系を刺激する。
クラリネットの音もいいけど、フルートもいいな。もちろん、楽器の王様とも言えるピアノも好き。
でもやっぱり、イチバン好きなのはヴァイオリン。ヴァイオリンが紡ぎ出す上品な音は、わたしの好みのド真ん中を行く気がする。
ヴァイオリンの音が聞こえる。
上品で、繊細で、柔らかくて……そして優しい音が聞こえる。
カシミアのように上品で、クリスタルガラスのように繊細で、赤ちゃんの産毛のように柔らかく、汗ばんだ首筋を撫でていく薫風のように優しい、そんな音。わたしの好きな、ヴァイオリンの音色。
高音から低音。
中音から低音。
そして低音から高音へと切り替わったとき、わたしの背筋にゾクゾクっと快感が走った。
ヴァイオリン、いいなぁ。
楽器を弾けないのが悔しくなるくらい、ヴァイオリンの音は美しい。
とくに好きなのは高音域。
ヴァイオリンの弦から奏でられる高い音は、良い絵画を見たときと似たような快感を覚えさせてくれる。恍惚と感動を呼び起こして、めまいがするほどの快感を覚えさせてくれる。
わたしも、ヴァイオリンが弾けたらなぁ。
小さい頃は、こんなにステキな音なんだって知らなかったからなぁ。知ってたらきっと、お母さんとお父さんに「わたしもヴァイオリンやりたい!」ってねだっただろうなぁ。
校舎内に鳴りひびく音に耳を傾けながら歩いていると、やがて教室に着いた。ドアを開けて、真っ直ぐに自分の席へと向かうわたし。机のうえにカバンを置いて、左端の窓から順に開けていく。室内に吹き込んでくる風にあおられて、日差しをさえぎるカーテンがフワリと揺れる。
窓枠に手をつき、外の景色を眺めるわたし。グラウンドのほうでは、サッカー部らしき人たちがボールを追いかけている。その奥にある陸上トラックの近くでは、ストレッチをする人たちの姿もあった。
みんな、朝練がんばってるなぁ。
汗をかくのは好きじゃないけど、人が頑張ってる姿を見るのは好き。しぜんと応援したくなるっていうか、何かしてあげたいなって気持ちにさせてくれる。だから、好き。
ひたむきに何かに打ち込んでいる姿って、すっごく美しい。命が輝いている感じがする。それは、部活でも勉強でも一緒。もちろん、恋だってそう。
なにかを追い求めているとき、命は輝きを増すような気がする。
なにかに夢中になっているとき、命は輝きを増すような気がする。
夢中になれるものがある人は、それだけで幸せだと思う。そんな気がする。
空を見上げる。頭上には、晴れわたる青空。さんさんと輝く太陽が、地上を照らしている。思わず目を細めるわたし。
雲の一群が風とともに流れて、やがて太陽と重なった。校舎に墨色の影が落ちる。しばらくすると、ふたたび太陽が顔を出した。陽の光を浴びながら、わたしは大きく息を吸った。
気持ちいい。
すごく、気持ちいいな。
初夏の陽気って、すごく気持ちいい。身体じゅうが喜んでる感じがする。呼吸のたびに肺に新鮮な空気が入ってきて、血流とともに全身に心地よさが運ばれていくかのよう。脳が喜びの声をあげて、わたしの身体を幸せが包み込んでくれるみたい。
あぁ、気持ちいいなぁ。
何度か深呼吸をくり返していると、背後でドアが開く音がした。後ろを振り返るわたし。教室の入り口には、唯香が立っていた。
「おはよ、唯香」
「おは、よう……」
いつもと違い、元気なさげなようすの唯香。彼女が机のうえにカバンを置くのを目で追う。
わたしのほうに近づいてきた彼女が「となり、いい?」と訊ねてくる。
「うん、もちろん」
「ありがと……」
わたしと隣り合う唯香。
いっしょに窓の外の景色を眺める、わたしと唯香。
しばらく、沈黙が続いた。
とくに何を話すでもなく、ボーッと外の景色を眺める私たち。わたしはイヤな沈黙じゃないけど、唯香はどうだろう。表情、少しカタい気がする。手、モジモジさせてるし。指先、遊ばせちゃってるし。
やがて、わたしは視線に気づく。ちらちらとコチラを見る唯香の視線に気付いたわたしは、彼女に向かって「どうかしたの?」と言った。
「いや、その……」
歯切れわるく話す唯香。こんなふうに話す彼女は珍しい。
中途半端に言葉を切ったきり、口を閉ざしてしまう唯香。彼女の言葉を待っていると、やがて唯香が「あの、さ……葵」と言った。
「昨日は、ごめん……葵の気持ちも考えずに、押しつけるような言い方しちゃって……」
気まずそうに目を泳がせる唯香。
わたしは何も言わずに、視線を落とす彼女の横顔をジッと見ていた。懸命に話そうとする彼女の横顔を、ただただ見つめていた。
おずおずと唯香が続ける。
「アタシ、鈴木が葵のこと気になってるって話、前から聞いてて……その、ふたり、勉強もできるし、気が合うみたいだし……」
「うん」
とぎれ途切れになった言葉で、たどたどしく続ける唯香。
「葵、すっごい可愛いし、モテるし……鈴木も顔いいし、部活も勉強もできて、女子からも割と人気で……ふたり、お似合いだよねって、アタシ前から思ってて……」
「うん」
うつむく唯香。
気まずそうに俯く彼女の姿は、親に叱られる小さい子さながら。おイタをした子どもが、お母さんに言い訳するときのように。わたしに向けられる彼女の言葉たちが、一抹の気まずさを漂わせながら宙を泳いでいく。
唯香が続ける。
「ふたりが一緒になって、もっと楽しくっていうか……今よりもっと幸せになってくれたら、アタシも、アタシたちも嬉しいなって思って……」
分かる。
分かるよ。
唯香が、世話焼きさんだってこと。
ほかの人の世話を焼いてあげるのが好きで、他人が喜んでるところ見るのが好きなんだって。おばあちゃんっ子で、お世話してあげるのが好きで。他人の喜ぶ顔を見るのが好きなの、わたし知ってる。わたし、ちゃんと知ってるよ。
ちゃんと、分かってるから。
「アタシ、葵のことも麻衣のことも、ほんとに好きで、ほんとに友だちだと思ってて……」と唯香が言った。「でも、昨日は、その……ちょっと暴走しちゃってっていうか、じぶん見失っちゃってたっていうか……こんなこと言いたいわけじゃないのにって、アタシ……」
「うん」
わたしも、好きだよ。
唯香のこと、友だちだって思ってるよ。唯香が思ってくれてるのと同じように。唯香がわたしを好きでいてくれるように、わたしも唯香のこと好きだよ。ほんとだよ。
世話、焼いてくれたんだよね。
唯香なりに、応援してくれたんだよね。
たどたどしく続ける唯香。
「葵の気持ち、ぜんぜん、見えなくなっちゃってたなって……」
唯香。
分かってるよ、唯香。
わたしに彼氏ができたら、もっと幸せになれるはずだって。そう思ってくれたんだよね。
わたしに恋人ができたら、もっと幸せになれるはずだって。そう思ってくれたんだよね。
「ホント、ごめんね、葵……」
にこりと微笑むわたし。
目の前にいる大切な友だちに、わたしは精いっぱいの笑みを向ける。
「ううん、大丈夫」
わたしが続ける。
「でも、ああいうのはコレっきりにしてくれると嬉しいな」
「うん、ごめん……」
くす。
唯香、ちっちゃい子みたい。
小さい頃のこと、思い出しちゃう。お母さんに怒られてるときの朋花、いまの唯香みたいな感じだったな。気まずそうに俯いて、きまりが悪いそうに口を引き結んで。怒られたあと、わたしに泣きついてきて。
ふふ。
嗜虐心、刺激されちゃうかも。わたし、意外とSかも?
くすりと鼻を鳴らすわたし。
「そんなに謝らなくて大丈夫だよ。わたし、怒ったりしてないから」
「うん……」
「わたしこそ、ゴメンね。ヤな感じで帰っちゃって」と、わたしは言った。「雰囲気、悪くしちゃったよね。みんな盛り上がってるところだったのに」
「葵は、悪くないよ……」
唯香が続ける。
「アタシたちが、一方的に盛り上がっちゃっただけで……」
ふぅ、と小さく息を吐くわたし。
ひとりごとのように、わたしは「みんな、恋バナ好きだよねぇ」と言った。
「とたんキラキラし出すんだもん。びっくりしちゃった」
わたしの言葉に、唯香が返す。
「まぁ……恋バナ好きの女子、わりと多いよね。アタシも含めて」
「よく『恋は麻薬』って言うもんね」
「あー、洋楽の歌詞に多いよね。ラブ・イズ・ドラッグ的な」
そういえば、前に読んだ本に書いてあったなぁ。
データによると、中毒症状を示す人の脳と恋愛中の男女の脳を比較してみたところ、両者には著しい類似性が確認されたのだそう。かんたんに言うと、恋をしているときとドラッグをやっているときの脳は、おなじような反応を示すということ。ラブ・ソングの歌詞にあるように、科学もまた『恋は麻薬』だと結論づけている。
脳内で生じる麻薬類似作用が、人を恋に夢中にさせる。人を恋に駆り立てる。
人を、人に夢中にさせる。
外の景色を見ながら、わたしが言う。
「でも、夢中になれることがあるっていいよね」
なにかを追い求める姿って、すごく輝いてる。
なにかに夢中になる姿って、すごく応援してあげたくなる。「きっと大丈夫だよ」って、そう言ってあげたくなる。「いっしょに頑張ろう?」って、そう言ってあげたくなる。
背中を、押してあげたくなる。
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