ひまわりは夜に咲く 6


 藍色が溶けた空。

 夜風になびくレースカーテン。

 部屋の窓から入り込む風が、お風呂上がりの身体を冷やしてくれる。涼を帯びた柔らかな風が、わたしの表面体温を下げてくれる。

 気持ちいいな。

 夜風、すごく気持ちいい。

 麻衣にもらったぬいぐるみを抱えながら、風になびくレースカーテンを見つめるわたし。寄せては返す波のように、ふよふよと揺れ動くカーテン。まるで、しずかな夜の海に自然の囁きをもたらすさざ波のよう。

 思えば小さい頃から、わたしのそばには麻衣の存在があった。どこに行くにも一緒で、なにをするにも一緒。あんまり一緒にいるものだから、周りから揶揄われることも少なくなかった。「お前ら付き合ってんのかよー!」みたいな感じで。とくに男子から。小学生くらいの男子って、ちょっかい出すのが好きだよね。

 麻衣がどうかは分からないけど、わたしは全く気にならなかった。だって、麻衣と一緒にいるのが好きだったから。それが当たり前だと思っていたから。性別が違っていたときでさえ、わたしにとって麻衣は「一緒にいて当たり前の存在」だったんだ。

 思えば、わたしは麻衣と離れたことがない。学校もずっと一緒だし、親同士も仲がいい。家族ぐるみの付き合いっていうのかな。家族どうし、一緒にキャンプに行くこともあった。いまでも、たまーにある。

 ウチのお母さんと麻衣のおばさんは、ママ友よろしく気が合うみたい。よく一緒にお茶することもあるのだそう。すごく仲良し。親同士が仲良いって、なんだか微笑ましいよね。見てるコッチまでほっこりしちゃう。

 柔らかく吹く夜風を浴びながら、過去を回想するわたし。大脳皮質や海馬に埋め込まれたエピソード記憶を辿りながら、懐かしさを喚起させるノスタルジーに浸るわたし。

 麻衣って、すごくカワイイ。

 だから、ついつい甘やかしたくなっちゃう。

 今日だってそう。あんな急に「ウチに泊まって欲しい」なんて言われたことない。でもわたしは、麻衣の言葉を自然と受け入れた。麻衣の願いを受け止めるのは、わたしにとって自然なこと。とっても自然なこと。

 わたしは、麻衣のことを甘やかしたい。

 わたしが朋花のことを甘やかすように、麻衣のことも甘やかしたい。どうしてかは分からないけど、どうしてもそうしたいんだ。麻衣を甘やかすのは、わたしにとって自然なこと。すごく当たり前のこと。

 わたしが彼女を甘やかすと、麻衣はヒマワリのように笑ってくれる。夏の太陽のように明るく笑ってくれる。

 わたしは、その笑顔が見たい。

 わたしは、麻衣の笑った顔が見たい。

 わたしは、好きなんだ。麻衣の微笑みが。彼女の笑った顔が。まるで、太陽の下で咲き誇るヒマワリのような笑顔が。

 麻衣が悲しい顔をしていたら、わたしも悲しい。

 麻衣が暗い表情をしていたら、なんとかしてあげたくなる。

 だから麻衣には、いつも笑っていてほしい。明るいままでいてほしい。彼女には、水の底に沈むような暗い顔をしてほしくない。深海のような暗がりを見せてほしくない。

 わたしが草木なら、麻衣は太陽。彼女が振りまく笑顔を光合成することで、わたしの心は健やかでいられる。緑が育つには、日光が必要だもんね。太陽がかげってばかりいたら、そだつものも育たないもんね。

 なんて。

 ちょっとポエムが過ぎたかも。

 少しだけ、おセンチになり過ぎちゃった。本心ではあるんだけどね。まごうことなき、わたしの本心。

 ボーッと考えごとをしていると、やがて部屋のドアがガチャリと開いた。見ると、そこにはパジャマ姿の麻衣が立っていた。

「おまたせ〜」と麻衣が言った。「ひとりで退屈じゃなかった? だいじょうぶ?」

 言いながら、わたしのとなりに腰かける麻衣。薄らぼんやりとした電球色の光が、ふにふにと頬を緩ませた彼女の横顔を照らす。

「ん、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてたから」

「葵、難しいこと考えてそう〜」

「えぇ? そんなことないよぉ」

「だって、読む本も難しそうなものばっかりだし、博識だし……頭いい人って、ふつうの人よりも難解そうなこと考えてそうなイメージない?」

「そのイメージは……まぁ、あるけど」

「あたしの中の葵は、なんとなくそんなイメージ。合ってるかどうか分かんないけど」

 わたしに対する印象は……まぁ、ともかくとして。

 麻衣の言う「頭いい人=難しいこと考えてそう」っていうイメージは、なんとなく分かる。じっさいに大学教授とか研究者とかって、土台になる知識とか語彙が多いだけに難しいこと話してたりするもんね。彼ら/彼女らが出版した本とか読んでも、やっぱり難解なフレーズが多用されてるし。

 思考の幅って、頭のなかにある知識とか経験に依存する。だから少ない言葉しか知らなければ、おのずと思考の幅も狭くなってしまいがち。日常的に本を読む人が「頭よさそう」とか「難しいこと考えてそう」とか言われたりするのは、読書という経験から得られる知識や言葉が他の人よりも多いからなのかも。よく『言葉は思考のツール』って言うもんね。

「まぁでも、考えごとするのは好きかな。頭の中を整理するっていうか、意外と面白いことに気づけたりするから」

「へぇ、そうなんだぁ」と返す麻衣。「今日は、なにか面白い気づきはあった?」

「んー……わたしと麻衣って、ずっと一緒にいるよなーとか」

「あはは。わりとシンプルな答えが返ってきた」

「あとは、麻衣の笑顔って癒されるなーとか」

「そ、そう……」

「すごく可愛くて、見てるコッチまで釣られて笑顔になるよなーとか」

「……」

「麻衣の笑った顔が見たいから、わたしは麻衣のこと甘やかすのかなーとか」

「あ、葵……」

「うん?」

「あたしがおフロ入ってるとき、ずっとそんなこと考えてたの?」

「そうだよ?」

 ためらうことなく、秒で言葉を返すわたし。

「そ、そっか……」

 間接照明の色に同化してハッキリとは識別できないけれど、彼女の頬が赤く染まっているように見えた。

 ふふ、と鼻を鳴らすわたし。

「麻衣は、かわいいね」

「……」

「すごく可愛くて、すごく女の子だね」

「あ、ありがと……」

「どういたしまして」

 褒められるのが恥ずかしいのか、もじもじと指先を遊ばせる麻衣。手元に視線を落としながら、彼女が「ね、ねぇ、葵……」と控えめに口をひらく。

「なぁに?」

「葵は、どうして……その……あたしのこと、そんなに褒めてくれるの?」

「え、かわいいと思ってるからだよ?」

「で、でも……前までは、そこまで褒めてくれることなかったかなーって……」

「そうだったかな?」

「う、うん……」

 知りませんけど。

 前のこととか、知りませんけど。

 だってワタクシ、この容姿になってからまだ二週間しか経ってませんもの。それ以前のこととか、まったく知りませんもの。

「んー、そうだなぁー……」

 アゴに手を当てて、考えるような姿勢を取るわたし。

 でも、考えるまでもない。答えは分かってる。すごくハッキリしてる。

 わたしは、私の『かわいい』を口にできる今が好きだから。わたしは、ずっとずっと『かわいい』を言葉にしたかった。誰かと一緒に『かわいい』を共有して、わたしの『かわいい』を理解してもらいたかった。


 わたしは、いまの私が好き。


 わたしは、いまの私が大好き。


 だから、かわいいと思ったものは『かわいい』って言いたいんだ。それは、以前のわたしにはできなかったことだから。スポンジに水を浸透させていくように、わたしは私自身に『かわいい』を染み込ませたい。

 だから、口にするの。

 わたしは、私の『かわいい』を言葉にしたいの。

「じゃあ、例えばね」と、わたしは言った。「自分が思ったこととか感じたことを口にできない世界で生きなきゃいけないとしたら、麻衣はどんな気持ちになる?」

「え、と……息苦しくなっちゃう、かな……」

「そうだよね、息苦しいよね」

 じゃあ、と続けるわたし。

「その息苦しさが、ある日とつぜん解消されることになったら……麻衣は、どんな気持ちになる?」

「それは……嬉しい、かな。今まで苦しかったぶん、あたしだったら超はしゃいじゃうかも」

「あはは。麻衣っぽいね」

「えぇ? なにそれぇ」

「わたしの場合もね、多分そういうことなの」と続けるわたし。「わたしはずっと、息苦しい世界で生きてた。ずっとずっと、自分の思いを言葉にできない世界で生きてた。息が詰まるような思いで、毎日を過ごしてた」

 夜風にあおられるレースカーテンを眺めながら、わたしは続ける。

「でも、ある日そうじゃなくなった。いきなりのことだったから戸惑いもあったけど……わたしは、すごく嬉しかった。もうガマンしなくていいんだって思うと、心の底から元気が湧いてくるような気がしたの」

 風に揺れるカーテンから視線を外し、麻衣のほうに顔を向ける。彼女は、真剣そうな表情でわたしのことを見ていた。

「わたしが麻衣のことを褒めるのは、ほんとうにそう思ってるから。麻衣のこと本当に『かわいい』って思ってるから、そう言うの」

 それは、以前はできなかったことだから。

 どれだけ強く望んでいても、以前のわたしにはできなかったことだから。

「わたしは、今のわたしが好き。想いを言葉にできる今の自分が大好き。これまではそうじゃなかったから、余計にそう感じるのかもしれないね」

「そう、なんだ……」

 ごめんね、麻衣。

 さすがに、ほんとのことは話せない。わたしの性別が違っていたことなんて、とてもじゃないけど話せない。

 だけど、すなおな気持ちを話した。いま麻衣に話したのは、わたしの素直な気持ち。わたしの、ありのままを話した。

 麻衣のことを『かわいい』って思ってることもそう。わたしが今の私を好きだと思っていることもそう。ぜんぶ全部、ありのままの気持ち。わたしの本心。わたしの、心からの気持ち。

 麻衣は、どう受け取ったかな。

 ささやくように小さな声で、麻衣が「葵、は……」と言った。

「ずっとずっと、苦しい思いしてきたんだね。ツラい思い、してきたんだね……」

 うん、とノドを鳴らすわたし。

「でも、もう大丈夫だよ」

 だいじょうぶ。

 わたしは、もう大丈夫。

「わたしは、もう苦しくない。息苦しくなんてない」

 もう、苦しくない。

 わたしは、もう苦しくない。息苦しくない。ちゃんと呼吸、できてる。自分の肺で呼吸できてる。『かわいい』を口にできる。麻衣に「かわいい」って言ってあげられる。

 自分の言葉が、耳のなかで反響する。

 自分の声が、耳のなかでこだまする。

 自分に言い聞かせるように、わたしは心からの言葉を口にする。自分の気持ちを口にする。

 嬉しさが逃げてしまわないように。幸せが逃げてしまわないように。いまの幸せが、この場に留まるように。

 わたしは、この世界が好き。

「わたしは、いまの世界が大好き。麻衣に『かわいい』って伝えられる今の世界が、わたしは大好きなの」

 わたしは、いまの世界が大好き。

 かわいいものを『かわいい』と言える、いまの世界が。



 わたしは、この世界を愛してる。



「……さいきんの葵を見て、あたし思ったの」と麻衣が言った。「前よりずっと、いい顔で笑うようになったなって。ほんとうに、心の底から笑ってるような感じがするなって」

「前までは、そうじゃなかった?」

 わたしの問いかけに、たどたどしく麻衣が答える。

「そんなこと、ない……と、思うけど……」

 とぎれ途切れの言葉。

 麻衣が紡ぐ弱々しい言葉が、だんだんと尻すぼみになっていく。自信なさげに小さくなっていく彼女の声が、確証を得られないという心情を映し出しているかのよう。

「でも……もしかしたら、そうなのかもしれない」

 麻衣が続ける。

「あたしは、葵の心の中までは覗けないから。葵が抱えてる悩みとか苦しみが何なのか、気づけなかったから……」

 室内を薄らぼんやりと照らす間接照明が、麻衣の横顔に墨色の影を作っている。憂いを帯びたかのような彼女の瞳が、淡い光に照らされて揺れている。

「だから……ごめんね、葵」

 いつもの明るい調子とは裏腹に、重々しげなトーンで話す麻衣。悲痛な色を乗せた彼女の謝罪が、わたしの耳のなかで痛々しく反響する。

「葵を苦しめてるものに、気付いてあげられなくて……」と麻衣が言った。「あたし、ワガママ聞いてもらってばっかりなのに……なにも、お返しできてない。それなのに、葵が苦しんでるものに気付けなくて……」


 違う。


 違うよ、麻衣。


 わたしは、麻衣に助けられてるよ。

 麻衣が笑ってくれるから、わたしも笑顔でいられるの。麻衣がいてくれるから、わたしは私の『かわいい』を大切にできるの。わたしの『かわいい』を大切にしていいんだって、そう思えるの。

 ぜんぶ全部、麻衣のおかげなんだよ。

「違うよ、麻衣」

 夜の海のように不安げに揺れる彼女の瞳を見つめながら、わたしは自分の想いをハッキリと言葉にする。

「わたしが笑っていられるのは、麻衣のおかげだよ。麻衣がいてくれなかったら、わたしは今もずっと苦しいままだったかもしれない。麻衣が笑ってくれるから、わたしは私の想いを大切にできるの」

 わたしは両手で包み込むようにして、麻衣の手をキュッと握った。

「麻衣がそばにいてくれて、わたし本当に嬉しい」

 わたしが続ける。

「わたしが幸せでいられるのは、麻衣のおかげ。麻衣がいてくれるからなんだよ」

 わたしの顔を見据える麻衣。彼女の小豆色の瞳が、不安に揺れているのが分かる。百の言葉よりも雄弁に、彼女の瞳が憂いに濡れた心情を吐露している。

「そんな……あたし、葵に何も……」

 麻衣が続ける。

「なにも、してあげられなかった……」

 眉尻を下げて悲しげな表情をした麻衣が、消え入りそうなほど小さな声で独り言のように呟く。

「ううん、そんなことないよ」と返すわたし。「麻衣が笑ってくれるから、わたしも笑っていられるの。麻衣が楽しそうにしてると、わたしも楽しい気持ちになれるの」

 だから、麻衣のおかげ。

 わたしが幸せでいられるのは、麻衣がいてくれるからなんだよ。

「葵……」

 手のひらから伝わる彼女の体温が、春の日差しのように温かい。春先の日向ぼっこを思わせる彼女の温もりを感じると、自然とわたしの頬も緩んだ。

「ありがとう、麻衣。わたしと一緒にいてくれて」

 わたしの言葉を素直に受け止めてくれたのか、だんだんと彼女の顔にいつもの明るさが戻ってくる。雲の切れ目から差し込む太陽が徐々に光を強くするように、不安げに揺れていた彼女の瞳に本来の明るさが戻ってくる。

「うん、うん……っ」

 嬉しそうに目を細めた彼女が、満面の笑みでわたしに微笑みかける。わたしの大好きなヒマワリのような笑顔が、瞳のなかに飛び込んでくる。

「これからも、わたしと一緒にいてくれる?」

「もちろんっ!」

「ふふ、嬉しいな」

 くすくすと笑う麻衣。

「『一緒にいてくれる?』なんて、プロポーズみたいだね」

「わたしは、そのつもりだったよ?」

「え……」

 くす、と鼻を鳴らすわたし。

「ウソだよ」

「ウソなの?」

「ホントだよ」

「え、どっち?」

 困惑したようすの彼女に構わず、わたしは「あはは」と笑った。

「一緒にいて欲しいって思ってるのは、ほんとう。麻衣も同じ気持ちだったら嬉しいな」

「そんなの、当たり前だよー!」と彼女は言った。「ずっとずっと、一緒にいようね!」

「死が二人を別つまで?」

「あは。それ結婚式で言うヤツじゃあん」

 からからと笑う麻衣。

 さきほどまでの暗い顔はなりをひそめ、ヒマワリのような明るい笑顔が咲いている。


 あぁ、やっぱりいいな。


 麻衣の笑った顔、すごくいい。


 夜風になびくレースカーテン。

 窓の外から入り込む浅き夏の風が、火照ったわたしの身体を冷やしてくれる。ふわりと柔らかく吹く風が、熱を帯びたわたしの身体を冷やしてくれる。

 室内に広がる二人分の笑い声が、風にあおられて宵の空へと溶けていった。

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