『かわいい』を、わたしは愛してる 6


「葵?」

 オレの意識を引き戻す声。

 いぶかしげなソプラノに誘われて、恍惚感を手放して現実に戻るオレ。

「どうかした?」

 きょとんと首をかしげる麻衣が、ようすを伺うように訊ねてくる。藍色を湛えた二つのガラス玉。目の奥に戸惑いの色が見えたような気がした。

 ふるふると首を横に振るオレ。否定を示す仕草。

「うぅん。ごめんね、ボーッとして」

「んーん、大丈夫だよぉ」と返す麻衣。「なんか、幸せそうな顔してたね。なにかあった?」

 む、めざとい。

 めざといね、麻衣。メンタリスト麻衣ちゃんだね。

 今朝も似たようなこと思ったけど、ホントよく他人のこと見てるよね。観察上手っていうか、機微に聡いっていうか。心の動きを敏感にキャッチしてるんだね。もう、いっそ仕事にしなはれ。

 んー、とオレは小さく唸った。

「……ナイショ」

 オレの返事が予想外だったのか、麻衣はキョトンとした顔をした。

 ぽかーん。

 あっけに取られた顔。

 鳩が豆鉄砲を食ったような表情。

 おどろきに目を丸くする麻衣がカワイイ。つぶらな目をパチパチと瞬かせるハトもしくはチワワみたいで可愛い。So、Cute。

 ふにゃりと破顔したのちに、麻衣はゆるりと口元を緩めた。

「えー、なにそれぇ?」

 くすくすと微笑む麻衣。鈴を転がすような笑い声。

「いいじゃん、教えてよぉ」

 麻衣のせがむような要求に、首を横に振って答えるオレ。

「だめ。ぜったい、麻衣は笑うから」

「笑わないからぁ〜」

 きゃっきゃと戯れ合いながら、人をかき分けて校舎を後にする。

 辺りには下校中の生徒の姿。戯れついてくる麻衣を甘えたがりな子猫のように思いながら、帰路につく学生たちで賑わう校内を平然とした顔で歩くオレ。

 正門を抜けて学校を後にする。

 トンネルを抜けるように門をくぐった後、道を左に折れて見慣れた通学路を歩いた。てくてく。

「あ」

 麻衣の口から小さなもれた。

 とたん、麻衣がススッと滑るように距離を取った。肩が触れそうなほど近かった二人の間に、不自然な隙間がポッカリと穴のように空く。

 あ、あれ。

 麻衣、急にどうしたんだろ?

 オレと麻衣の間にできた不自然な隙間。さきほどまでは肩先が触れるような距離だったのが、いまでは人ひとり入れそうなほどの空間が空いている。

 幼なじみとの距離が離れたことに、わずかばかりの寂しさを覚えるオレ。とつぜん遠くなった物理的な距離が、心の距離まで離れたように感じさせた。

 突然の行動を不思議に思ったオレは、麻衣に「どうしたの?」と訊ねてみた。

「え、なにが?」

 こちらに顔を向けた麻衣がキョトンとした。

「や、急に離れるから。どしたのかなーって」

 すなおに思ったことを口にするオレ。ところてん式に何の抵抗もなく言葉が滑り出ていった。にゅるり。

「あ、あぁ〜……」

 あいまいに返事をする麻衣。

 オレの心の葛藤を意にも介さないようすで、ほんのりと顔を赤らめた麻衣が目を逸らす。ふいっと。

「今日の三限、体育だったでしょ?」

 こちらと目を合わせずに麻衣が言う。

「あ、うん。あったね」

「や、けっこう暑かったしさ?」と返す麻衣。「少し汗かいちゃったから、ちょっとアレかもなーって……」

 そわそわとして落ち着かないようすで、麻衣は自分の腕をスリスリとさすった。

 どうやら、体育でかいた汗のニオイを気にしているもよう。もじもじする仕草が小動物めいていて可愛らしい。

 乙女かっ。

 まぁ、気持ちは分かるけど。ニオイって自分じゃ分かりづらいしさ。

 それに、汗って時間が経ってからのほうが臭うもんね。しばらく時間を置いてからのほうが、運動した後よりも菌が繁殖するんだって。

 汗の成分は99%が水分なんだけど、時間が経つにつれて菌が繁殖し始める。生まれつきアポクリン腺の数が多い人ほど、汗をかいたときに分泌される臭い物質も多量。身体を動かしたあとのケアが大切なのは、時間の経過が汗くささを悪化させるから。

 って、前にインターネット先生が言ってた。文明の利器ばんざい。

「だいじょぶだよ。制汗剤の香りしかしないよ?」

 汗の匂いを気にする麻衣に対して、オレは自分の正直な感想を伝えた。

 ふわっと香るシャボンの香り。

 制汗スプレーの爽快な香りが、そよ風とともに運ばれてくる。

 鼻先を抜けるフレッシュな香りが鼻腔をふがふがして、恍惚感を届けるとともに思わずクシャミが出そうになる。ふがふが、はっくしゅん。

「そ、そう?」

 おずおずとコチラに目を向ける麻衣。オレよりも少し身長が低いせいか、しぜんと見上げるような格好になった。

「そこまで気にしなくても」

「ん、そうかもだけどぉ〜……」

 気恥ずかしそうに、指を遊ばせる麻衣。もじもじ。

 照れくさそうに前髪をイジる麻衣が、午後の柔らかな日差しに照らされた。ツヤめく黒い髪に光の輪が浮かんでいる。えんじぇるりんぐ。

 汗の匂いを気にする麻衣に釣られて、オレも自分の体臭が匂わないか気になった。

 オレ、臭くない?

 クサくないよね。大丈夫だよね。あとで確かめとこーっと。

 しばらく道なりに歩いていると、やがて今朝の交差点の前に着いた。赤信号で立ち止まる。

 オレの目の前を走る何台もの車。

 シャーっと軽やかな走行音を残して、車道を行き交う車が遠くへと走り去る。

 無機質なものを眺めるときの感覚。氷のうえを滑るように走り抜けていく車が、オレの心に今朝と同じような感慨を落とす。走り去る鉄の塊をジッと眺めていると、フシギと心が落ち着くような気がした。

 ふと何か思い出したかのように、麻衣が「あ、そうだ」と言った。

「ねね、葵っ」

「うん?」と返すオレ。

「今日、この後ヒマ?」

 麻衣がコチラの予定を訊ねてきた。

 ヒマ。

 暇……だった、かな。なにか予定あった気がするけど。

 懸命に記憶を掘り返すも、今朝のことを思い出せない。色んなことが起きすぎたせいか、うまく過去の記憶をたどれない。

 うーん、うーん……。

 なにかあったような気がするけど……。

 いちど考えるのをやめて、オレは麻衣に返事をした。

「ヒマですねぇ、帰宅部ですから」

 ま、いっか。

 なんとかなるでしょ。

「よかったぁ」

 ふにゃりと破顔する麻衣。目尻に寄ったシワが放射状の線を描く。

 しぜんと溢れる笑顔。ふわりとマシュマロのように柔らかく笑う姿に、こちらも釣られるように笑みをこぼしてしまう。

「じゃあさ、少し寄り道しない?」と麻衣が言った。「今日あたしも予定あいてるし、もうちょっと一緒に居たいかもーって」


 お、おぉ……。


 そ、そんなハッキリ言うんだね。

 ちょっとカップルっぽい言い方だけど。「もうちょっと一緒に居たぁい♡」なんて、甘えたがりな彼女が言いそうな感じですけどね。

「ど、どうかな……?」

 とたん、不安げに訊ねてくる麻衣。

 ゆらゆらと揺れる瞳。わずかに赤らんだほっぺ。ほんのりと頬を赤く染めているあたり、恥ずかしさがゼロなわけではないようす。

 あ、一応テレるんだ。

 照れくささがないではないけど、言わずにはいられなかったのかな。なにそれカワイイ。

 こくり、とオレは一つ頷いて答えた。

「うん、いいよ。どこ行く?」

 オレの返事を受けて、にぱーっと笑う麻衣。ひまわりのような明るい笑顔が咲く。

「んーっとねぇ、駅前の本屋さん!」

「へぇ、書店?」と返すオレ。「なにか買いたい本あるの?」

 こくこく、と何度も首を縦に振る麻衣。肯定を示すジェスチャー。赤べこ。

「そうそう〜」と麻衣が言った。「最近あたしが気になってる本、こないだ新刊が発売されてね——」

 やがて交差点の信号が青に変わり、静止していた世界が再び動き出す。周りの景色が急速に移ろいでいく。

 移ろう景色。変わる世界。

 駅前の本屋へと向かう道すがら、楽しそうに話す麻衣の横顔を見た。

 オレの視界に映り込む幼なじみの表情は、曇りを忘れた快晴の空のように晴れやか。夏の日差しを受けて輝くヒマワリのように晴れ晴れとしている。

 ってか、言い方よ。

 麻衣、本屋のこと『本屋さん』って言うんだね。『さん』付けして呼ぶの可愛いな。So、Cute。

 麻衣って、かわいい。

 すごく可愛い。すっごく『女の子』してる。

 麻衣の言葉遣いとか、独特の言い回し(※褒め言葉)とか。ルックスがカワイイってだけじゃなくて、ふにゃっとした話し方とかも含めて可愛い。

 一挙手一投足に『女の子っぽさ』を感じられて、おもわず頭をナデナデしてあげたくなっちゃう。愛でてあげたくなる感じだよね。ハムスターを愛でるときの感覚と似てる。ひまわりのタネあげたくなる。

「あたし、本屋さんの匂い好きだなぁ〜」と麻衣が言った。「こころ落ち着くっていうか、なんか『ほわぁ〜』ってしちゃうよねぇ」

「あ、わかる。ちょっとだけ甘い香りするよね」

「それそれ〜」

 人差し指をブンブン振って賛同を示す麻衣。『ほわぁ〜』って擬音に関しては分かんないけど、本屋に立ちこめるアーモンドっぽい香りはオレも好き。バニラっぽくもあって、心安らぐニオイだよね。

 てくてくと道を歩きながら、麻衣は楽しそうに話を続けた。

「こないだね、ママに教えてもらったんだけど——」

 きゃっきゃと戯れ合いながら、オレたちは目的地へと向かった。

 たのしい。

 麻衣と居るの、すごく楽しい。それこそ、終わりを惜しむくらいに。

 この時間が終わってほしくない。ずっと続いてほしいとすら思う。「時間が止まってくれたらいいのに」とすら思ってしまう。

 恋しい。

 時間を恋しく思う。


 いつか終わる時が、こんなにも恋しい。


 やがて本屋に着いてしまうことを、どこか心惜しいと思う自分がいた。

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