たった二文字で済む話。

夏ノ瀬ミツ

友達。

1.

 初めまして、とウブな挨拶が飛び交う教室に私は座っていた。それは、日本ではそう珍しくないどこかの中学校のどこかの教室の入学式後の話だった。先生の意向で私たち、班員四名からなる二班は言い付けられた通りに自己紹介をする運びと相成った。

 確か私はこの時、虫はバッタ程度なら触れることとスイミングを長いことを習っていたことを共有したような気がする。自己紹介としてはかなりアクの強いものとなってしまったが、結果的にはこれで良かったのかもしれない。これに対して、「虫触れるのすごいね、」と絞り出したわけでもなさそうな純粋な感想を溢したのは、これから先長いこと付き合っていくことになる友人だったからだ。

 初めて会話を交わしたあの日、仲良くなれそうだと浮き足だっていた相手とは打って変わって、私は平安時代のお姫様みたいな子だなぁとぼんやり失礼にも取れるようなことを考えていた。前髪も後ろ髪もひっくるめて後ろの低い位置で結んでいるその子の優しげな顔が、いつか見た百人一首のかるたに書かれていたお姫様を連想させたのだ。

 開いていた窓から吹き入って来た風にあおられて、彼女の長い髪が揺れた。突然の強風に前髪を押さえた同班の女子とは異なって、その子だけは窓に、風に向かって身を乗り出した。春の風は気持ちいいね、と目を細めた君を座ったままに眺めて、私もその風を肌で感じた。確かにその子の言うとおりに気持ちの良いものだったことを、私は今でも覚えている。

 しかし、その自由な時間も前髪が崩れるから閉めてというクラスメイトの文句によってすぐさま終わりを迎え、私はまた無表情に近しい顔で組んでいた足を入れ替えた。それ以降、あの子がもう一度話しかけてくることもなければ、私があの子に話しかけることもない。他の誰かに話しかけることさえうまく出来ずに、私はその日を過ごした。

 そして、それから数日も経たないうちに強引な気迫を持ったクラスメイトと半ば絆されるように仲良くなって、その子との縁も半ば途切れかけの糸のようになっていた。そもそも、私はその子ともう一人似たような髪型をしていた人の見分けがつかなかったのだ。話しかけるにも勇気がいった。名前も顔も覚えるのが苦手だった私をいきなり四十人もの人と一緒に教室に押し込めるだなんて全くもって酷い話だ。この進路を選んでしまった自分を恨んだ日もあったように思う。

 そんな馴染めないなんて若々しさに塗れた苦悩は、梅雨もまだ遠い5月の初めに差し掛かるあたりには薄れていくことになった。どちらから話しかけたのかも、何について話したのかも曖昧だと言うのに、私とあの子はすっかり仲良くなった。休み時間に、昼休みに、放課後に、たくさんのことを話して、たくさんの笑いを共有した。彼女には、なんだか全てを話してしまいたくなるような魔力があった。どこまでも優しくて、どうしようもなく自由な彼女には、身近で、それでいて手の届かない何かがあった。



2.

 彼女が私を遊びに誘うことはなかった。私が誘いを持ちかけ、彼女が空いている日を共有する。目的があろうとなかろうと、それがもはや定石であった。一緒に出かけている時、彼女は私の手を握った。私と腕を組んだ。彼女は随分と距離の近い人で、いつ見ても女の子とくっついていたように思う。特別でもなんでもなく、友人に分け隔てなく与えられる好意を、私も数多のうちの一人として享受していた。

 彼女は、常にあっけらかんとしている人だった。誰に対しても態度を変えることなく振る舞う彼女の本心が、私にはわからなかった。その分私ばかりではないのか、と執着じみた感情を抱いてしまうこともたくさんあった。それが友達に抱くには分不相応な気持ちだとよく理解した上で、私は度々その感情に頭を悩まされていたのだ。

 この仄暗い感情をどう処理したらいいか、まだ齢十四つの私には、わからなかった。

 そんなたくさんの葛藤を抱えていた中、私は楽しげに笑う彼女の髪を結う時間が一際飛び抜けて好きだった。サラサラで、指通りのいい彼女の髪の毛はいつだって柔らかな香りを纏っている。綺麗に三つ編みができると大袈裟に喜んでくれる彼女に、私はなんだか満更でもない気持ちになってしまった。特別でないのなら関わりたくない、と駄々っ子みたいな気持ちで彼女を避けることに決めた夜もあったが、それは一日ともたなかった。どうしようもなく、彼女と話がしたかった。彼女の、楽しげではっちゃけた笑顔が見たかった。

 彼女が私のつゆ知らぬところで、バンドを始めたと知ったその時、私は悟った。もう一生、このまま彼女の数多の友人の一人として、彼女のそばから離れられないままに生きていくんだろうと。彼女はあまりに魅力的で、あまりに蠱惑的だった。遥か上空から垂れ下がっている蜘蛛の糸を、地獄の住人が掴まずにいられるだろうか。あともう少し、あともう少しと飛んで跳ねて、そこへ手を伸ばし続ける私の滑稽さが、彼女の目に汚く映っていないことを願う。

 彼女はただ、綺麗で優しく、いたずらが好きなだけだったのだ。彼女に、罪はないのだ。


 今日もまた、朝私の耳にイヤホンを片方押し込んで音楽を聴く彼女に、微笑んでしまう。なんと美しく、なんと残酷なことだろうと私は思う。それは、彼女にとって誰とでもやるようなことだった。私は、君のただ一人の友人にはなれないのだね。

 それでも、君は言う。一緒に映画を見に行った帰り際に別れが名残惜しくて変に会話を広げていた私に向かって、「なんでも話してね、いつでも聞くよ。」なんて。あまりにも縋りたくなってしまうようなまっすぐな笑顔で、君はいとも簡単にそういうことを言ってのける。どう足掻いても、私は君には勝てないのかもしれない。事実、誰かに話してしまいたい、打ち明けてしまいたい悩み事なんて、年頃の私はいくつでも抱えていた。ポツポツ、と柔らかい雨粒が私の頭を濡らした。自転車で帰る君と、傘を持っていない私は、きっと同じくらい体を冷やして、ようやく家にたどり着いたことだろう。

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