柵の向こう
@kwankichi
1話完結
あれは、梅雨が明けたばかりの午後だった。
庭の奥で、何かが土を蹴る音がした。
「ココッ……コココッ……」
まるで咳払いのような鳴き声。俺は最初、それをカエルかと思った。
しかし音は次第に近づき、最後には木の根元から一羽のニワトリが姿を現した。
白い羽根に、赤く立派なトサカ。
だがその赤はどこか乾いており、血の気の引いたような鈍い色をしていた。
目は小さく、つぶらというよりも、ただ真っ黒に光っていた。
それでもその眼差しには、確かな意志のようなものが宿っていた。
どこから来たのか分からない。
周囲を見渡しても、近所に鶏小屋などない。
まるで地面の裂け目から生まれ出たかのようだった。
俺は少し距離を取りながら、無言でその動きを見つめた。
ニワトリは何かを探すように地面をついばみ、首をかしげ、時折小さく羽を震わせる。
羽の一部には泥がこびりつき、ところどころ抜けていた。
だが、妙に堂々としていた。
その不釣り合いな威厳に、俺は不覚にも少し笑ってしまった。
——仕方ない。しばらく様子を見よう。
俺は庭の隅に、古いコンテナを裏返して簡単な囲いを作った。
台所から古米を一掴み持ってきて、皿に盛る。
ニワトリは警戒しながらも近づき、数粒をついばむと、喉を上下させて飲み込んだ。
喉仏が上下するたび、陽光が白い羽に反射してきらめいた。
その夜、久しぶりに風が通り抜けるような気がした。
家の古い木戸がかすかに鳴り、夏の匂いを運んでくる。
軒先でカナブンがぶつかる音がし、庭の奥ではあのニワトリが眠っていた。
時折「クゥ……クゥ」と寝息のような鳴き声が聞こえた。
——生き物が一ついるだけで、家が変わる。
そんな気がした。
⸻
次の日の朝、俺はまた庭に出た。
すると、囲いの中のニワトリがすでに立ち上がっていた。
朝日を浴び、羽を大きく広げて伸ばす。
その仕草が、妙に人間くさい。
俺は紅茶を飲みながら、その様子をしばらく眺めた。
三日も経つ頃には、もう庭の一部のようになっていた。
通りすがりの子どもたちが指をさして笑う。
「おじさん、ニワトリ飼ってるの?」
俺は曖昧に笑って答える。
「いや、勝手に住みついたんだよ」
名をつける気にはなれなかった。
名をつけた瞬間、別れが来るような気がしていた。
⸻
夏の盛りには、庭に羽が増えた。
羽ばたくたびに細い羽毛が宙に舞い、日差しに照らされてきらめく。
白い光の粉が、空中に散っては消える。
その中で、ニワトリは地面を掘り、虫を探しては飲み込む。
脚の筋肉は太く、指の一本一本が泥に沈み込むたび、かすかな湿気を立てた。
俺は思った。
——この生き物は、美しい。
だが、その美しさは「不安定な生」そのものだった。
一度、スズメが近くに降り立ったことがあった。
ニワトリはその瞬間、全身を逆立てて羽を広げ、スズメを追い払った。
空気が裂けるような鳴き声だった。
一瞬の静寂のあと、羽毛がひらひらと落ちた。
それを見て、俺はなぜか胸の奥に冷たいものを感じた。
まるで、家の中で小さな嵐が起きたような気分だった。
⸻
八月の半ば、台風が来た。
夜中に風が吹き荒れ、雨が軒を叩いた。
柵が倒れそうになり、俺は傘もささずに外へ出た。
懐中電灯の光の中で、羽毛が乱れ、ニワトリが必死に身を丸めていた。
俺は無我夢中でコンテナを立て直し、ブルーシートで覆った。
その間、ニワトリは鳴かず、ただじっと俺の手元を見つめていた。
その瞳には、恐怖ではなく、静かな理解があった。
——この夜を越えたら、きっともう一度朝が来る。
そんな確信のようなものを感じた。
台風が去った翌朝、庭は水びたしだった。
柵の中の地面には、無数の小さな足跡が刻まれていた。
その形を見た瞬間、俺は妙に感動した。
確かにここに生きていた証が、湿った泥に残っていたからだ。
⸻
そして、八月の終わり。
朝になっても、ニワトリはいなかった。
柵の中には羽が数枚と、乾いた糞だけが残っていた。
近所を歩いても、姿は見えない。
犬を飼っている家にも、鳥小屋のある家にも、手がかりはなかった。
まるで夏と一緒に消えてしまったようだった。
俺は囲いの扉を開けたままにした。
いつでも戻ってこられるように。
だが、それから二週間、何の変化もなかった。
風が通り抜けるたびに、柵がかすかに揺れた。
その度に、胸の奥がざわめいた。
羽の一枚を拾い、指先でそっと撫でた。
軽い。
あまりにも軽すぎる。
生きていた頃の体温の残り香が、もうどこにもない。
⸻
秋風が吹くようになり、庭の雑草が伸びた。
柵の板は少しずつ腐り、釘の頭が錆びた。
いつしかそこは、ただの空き地のようになっていった。
それでも俺は、毎朝紅茶を持って庭に出た。
あの頃の習慣が、まだ身体に残っていたのだ。
ある日、足元で何かが動いた。
見れば、小さなカエルが一匹、泥の中を跳ねていた。
その瞬間、思い出した。
——最初、あの鳴き声をカエルだと思ったことを。
俺は笑い、しゃがみこんでカエルを見送った。
夏の終わりの光が、庭全体を包んでいた。
光の粒が舞い上がり、柵の残骸の上に降り注ぐ。
木の隙間から、風が通り抜ける音がした。
俺はその音を、まるで羽ばたきの残響のように感じた。
——ああ、帰ったんだな。
そう呟くと、なぜか胸の奥がすっと軽くなった。
その日、初めて柵を片付けようと思った。
もう誰も住まない小さな囲い。
けれど、確かに一度、命が宿った場所。
草むらの中に釘を抜く音が響き、
そのたびに、遠くで蝉の声が途切れ、
やがて静寂が戻ってきた。
俺の夏も、ようやく終わったのだ。
完
柵の向こう @kwankichi
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