第11話「夜のあとで」
剣哉──静かな夜の音
試合の熱気がまだ指先に残っていた。
自室に戻った剣哉は、畳の上に竹刀袋をそっと置く。
壁にもたれて座ると、息が自然と深くなる。
剣哉(心の声)
「……終わったんだな、今日。」
勝ちたかった。
それよりも、試合中にふと視線を感じた瞬間の方が鮮明に残っている。
観客席にいた、あの人のまなざし。
桜先輩の静かでまっすぐな瞳。
そのとき、スマホが小さく震えた。
画面にはメッセージの通知。
桜:『おつかれさま。いい試合だったね。』
剣哉は思わず息を呑む。
指が勝手に返信を打ち始める。
> 「ありがとうございます、先輩が見てくれてて──」
そこまで書いて、手が止まった。
一度消して、もう一度書く。
けれど、またやめた。
結局、残ったのはたった一行。
> 「ありがとうございます。」
送信を押す音が、やけに大きく聞こえた。
スマホを伏せて、剣哉は窓の外を見上げる。
夜の風がカーテンを揺らし、遠くで虫の声がした。
剣哉(心の声)
「……今ごろ何してるんだろ。」
窓の向こうの月が、まるで誰かの返事みたいに、やさしく光っていた。
---
桜──ノートのページの向こう
机の上には、一冊のノートが開かれていた。
“前園”と書かれた文字が、少しだけ薄くにじんでいる。
桜はペンを握ったまま、じっとその文字を見つめた。
書き足そうとして、やめる。
桜(心の声)
「……もう、書かなくても分かってる。」
ページを閉じると、スマホの光が揺れた。
剣哉からのメッセージ。
剣哉:『ありがとうございます。』
たった一行。
でも、その一行にこめられた彼の誠実さと距離感が、桜の胸に温かく残る。
桜(心の声)
「不器用な子……でも、まっすぐで。」
ペンを置いて、窓の外に目をやる。
月明かりが静かに部屋を照らしていた。
その光の中で、桜はスマホを手に取った。
少し迷ってから、通話アイコンを押す。
──プルルルル。
一度、二度。
呼び出し音が鳴ったあと、少し息を切らせた声が聞こえた。
剣哉「……桜先輩?」
桜「ごめん、寝てた? ちょっとだけ、声が聞きたくなって。」
剣哉「い、いえ……起きてました。」
桜「今日、本当に頑張ったね。あの一戦、ちゃんと見てた。」
剣哉「……ありがとうございます。俺、まだ全然ですけど。」
桜「“まだ”って言葉が出るのが、もう成長してる証拠だよ。」
桜の声はやさしくて、少し震えていた。
言葉の奥に、伝えたいことが滲んでいる。
剣哉「先輩……俺、もっと強くなりたいです。
誰かに守られるだけじゃなくて、自分で立てるように。」
桜「うん、きっとなれる。あなたはそういう人だから。」
少しの沈黙。
互いに何か言いたいのに、言えない時間。
剣哉「……その、先輩もちゃんと休んでください。明日も部活ありますし。」
桜「ふふっ、そうだね。ありがと。じゃあ、おやすみ。」
剣哉「おやすみなさい。」
通話が切れたあと、
桜はしばらくスマホを胸に抱いたまま、目を閉じた。
桜(心の声)
「好き……なんだ、やっぱり。」
言葉にした瞬間、頬をなでる風が少し冷たかった。
それでも、心はどこかあたたかかった。
---
日向──見えない距離のなかで
その夜、日向もまた机に向かっていた。
チアのノートを開きながら、手が止まる。
日向「試合終わってから剣哉くんにこえかけれなかっなぁ。。」
ノートを閉じ、静かに息を吐く。
机の端には、中学の頃に撮った写真。
剣哉と、無邪気に笑う自分。
日向(心の声)
「今はまだ、応援するだけでいい。
それでも……この気持ちは、消えないと思う。」
窓の外に目をやると、雲の切れ間から月がのぞいた。
その光は、桜の部屋にも、剣哉の部屋にも届いている。
同じ月の下で、それぞれの想いが静かに揺れていた。
---
剣哉「もっと強くなりたい。」
桜 「もう少し、見ていたい。」
日向「まだ、笑っていたい。」
三人の心が、ひとつの夜空の下で、
ゆっくりと交わっていく。
──それは、次の季節の始まりを告げる小さな灯だった。
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まだ名前のない季節 奥村夏希 @tarlu-com
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