第7話「小さな事件」

 放課後の道場は、竹刀の音と掛け声で満ちていた。

 前園剣哉は面を外し、息を整える。稽古が終わるたび、全身から力が抜けていく。

 けれど、久我圭人の打ち込みを思い出すたび、胸の奥がざわついた。

 ——まだ、届かない。

 それでも、打ち続けるしかなかった。


 その日の練習後。片付けの最中に「パキッ」と乾いた音が響いた。

 全員の視線が、防具棚に集まる。木の扉が外れて床に落ちていた。明らかにぶつかった跡がある。


網切「おい、誰だ? ここに荷物をぶつけたのは」


 沈黙。

 棚の前に、久我の竹刀袋が転がっていた。


部員A「また久我か?さっき強めに振ってたし」

久我「違う。俺はちゃんと片付けた」


 久我の声は静かだが、どこか冷たい。

 剣哉の心臓が跳ねた。

 ……あれは、俺だ。

 練習後、急いで竹刀袋を棚に置こうとして、角にぶつけた。そのまま何も言わずに戻してしまったのだ。


 言わなきゃ。でも、声が出ない。

 久我が見つめる無表情の奥にある自信と誇り——それを壊すような気がして。


 その時、桜が一歩前に出た。


桜「部長、すみません。私、掃除のときに棚を拭いてて、バランスを崩してぶつかってしまって、その直後に人に呼ばれたのでそのまま忘れてしまってました。。。」


 さらりとそう言った。

 部員たちが一斉に顔を上げる。


網切「そうか。なら、今日はここまでにしよう。みんな気をつけろよ」


 騒ぎはすぐに収まった。

 けれど、剣哉の胸には、ずっと重たいものが残ったままだった。



---


 夕方の道場。

 陽が沈みかけ、畳の上に橙色の光が伸びる。

 桜が雑巾で床を拭いていた。静かな時間の中で、剣哉は意を決して声をかけた。


剣哉「桜先輩……さっきの、俺なんです」

桜「……そうだと思ってた」


 彼女は顔を上げずに、ほうきを動かし続けた。

 その声には怒りも責めもなく、むしろどこかあたたかい。


剣哉「どうして、庇ったんですか」

桜「庇ったつもりはないよ。ただ、あの場で責め合っても何も残らないから」


 剣哉は拳を握りしめた。

 優しさが痛い。

 自分が情けなかった。


剣哉「……俺、もっと強くなりたいです。

 剣道も、人としても」

桜「うん。その気持ち、すごく大事だよ」


 ふと、桜は窓の外に目を向けた。

 夕焼けの空の下、グラウンドから笑い声が聞こえてくる。

 その中に、見覚えのある声が混じっていた。


桜「あれ……チアの声かな。夏希たち、まだ練習してるんだ」

剣哉「……日向も、あそこで練習してるかもしれません」


 桜の手が止まる。

 少し驚いたように、剣哉を見た。


桜「日向って……あのチアの一年生? 知り合いなの?」

剣哉「はい。幼なじみで、小さい頃からずっと一緒でした」

桜「へえ……そうだったんだ」


 桜の瞳が一瞬だけ揺れた。

 けれどすぐに、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。


桜「あの子、よく頑張ってるって夏希から聞いたよ。きっと似てるんだね、あなたと」

剣哉「似てる、ですか?」

桜「真っ直ぐで、ちょっと不器用。でも一度決めたら、止まらない」


 剣哉は照れくさそうに笑った。

 けれどその笑みの奥には、桜に気づかれまいとする動揺が隠れていた。

 桜もそれを感じ取ったようで、ふっと目を細める。


桜「前園くん、もう帰りなさい。ちゃんとごはん食べて、明日も頑張るのよ」

剣哉「はい。……本当に、ありがとうございました」


 道場を出たあと、剣哉は校庭を見上げた。

 日向たちチアリーダーの練習が終わるところだった。

 汗を拭きながらも、笑顔を見せる日向の姿。

 ——あの日の小さな約束を思い出す。

 「お互いに、頑張ろうね」


 同じ空の下で、今もそれぞれの場所で戦っている。

 剣哉は竹刀袋を握り直した。

 守られるだけじゃない。

 次は、誰かを守る番だ。



---

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る