第2話「はじまりの剣音(けんおん)」
入学式が終わると、ざわつく校舎の中に新しい匂いが満ちていた。
教室へ向かう廊下はまだピカピカで、足音が響くたびに空気が少し跳ね返ってくるような感覚があった。
高瀬湊「剣哉、こっち!」
後ろから聞き慣れた声がして振り向くと、制服の襟を少し崩して歩く男――高瀬湊が手を振っていた。
前園剣哉「お前も1組か?」
湊「ああ。しかも席、前の列だ。ラッキーだな」
剣哉「何がラッキーなんだよ」
湊「黒板近いと寝れねえだろ?」
剣哉「ははっ、それはお前だけだ」
湊とは幼いころから一緒だった。
剣道の道場も同じで、試合のときは何度も隣に立ってきた。
落ち着いた物言いのくせに、誰より努力家。
そんな湊がいるだけで、不思議と気が緩む。
南條日向「おーい、男子ふたりでなに話してんのー?」
ひょこっと顔をのぞかせたのは、もう一人の幼なじみ――南條日向だった。
チアリーディング部に入ると決めていた彼女は、すでに髪をきれいにまとめ、明るいピンクのヘアゴムで留めている。
春の陽だまりみたいに柔らかい笑顔を浮かべていた。
剣哉「ひなたも同じクラスか」
日向「うん! 三人一緒だね!」
湊「うわ、それは騒がしくなりそうだ」
日向「なにそれ湊くん、今から静かな高校生活なんて諦めといてよ」
湊「……はぁ、もう諦めてる」
三人の笑い声が、まだ慣れない教室に少しだけ温かさを与えた。
その日の午後、体育館で部活動紹介が行われた。
照明が落とされ、壇上に次々と各部の代表が登場していく。
歓声、笑い声、拍手。
剣哉は椅子に腰を下ろしたまま、少し落ち着かない気持ちで前を見つめていた。
剣哉「剣道部って、いつ出るんだろ」
湊「トリらしいぞ。去年、全国ベスト4だったからな」
日向「え、そんなに強いの?」
湊「強い。けど……去年の主将が引退して、次の代がどうなるかはわからない」
湊の言葉に、剣哉は静かに拳を握った。
(その“次の代”に、俺は入る。絶対に)
やがて、ステージに剣道部が登場した。
道着姿の上級生たちが整列し、中央に立った女子生徒が一礼する。
――その瞬間、空気が変わった。
黒髪をきっちりと後ろで束ねた彼女は、午前の入学式で見かけたあの人――山口桜だった。
山口桜「桜原高校剣道部です」
澄んだ声が体育館に響く。
それだけで空気が締まるような、凛とした響きだった。
桜は竹刀を構えた。
袴の裾がわずかに揺れ、竹刀が天井の光を反射する。
一瞬の静寂のあと――
「めぇぇぇん!!!」
鋭い掛け声とともに、床を強く踏みしめる音が体育館全体に響いた。
竹刀が相手の面をとらえる、乾いた衝撃音――バシィッ!。
その瞬間、空気が一気に張り詰めた。
桜の動きには一切の無駄がなく、
一撃の中に、全身の気迫と集中が込められていた。
湊「……あの人が、山口桜先輩か」
日向「すごい……あんなにかっこいい人いるんだね」
剣哉は、息を呑んだ。
その目の強さ、姿勢の美しさ、すべてが“剣道”そのものを体現していた。
ただ、心の奥で何かが静かに鳴り始めた気がした。
部活紹介が終わると、廊下は勧誘の上級生たちで賑わった。
チラシや声かけが飛び交う中、剣哉は剣道部のブースに足を向けた。
視界の先に、あの姿があった。
桜「剣道部、興味ある?」
桜が軽く笑いながら声をかけてきた。
間近で見ると、その瞳は意外なほど柔らかい。
剣哉「はい。中学からやってました」
桜「そうなんだ。……構え、少し見せてもらっていい?」
言われるままに竹刀を握り、構える。
桜の視線が、剣哉の動きを静かに追う。
ほんの数秒だったのに、心臓が早鐘を打つ。
桜「うん。きれいな構えだね。軸がぶれない」
剣哉「……ありがとうございます」
桜「待ってるね、新入生」
その言葉とともに、彼女は軽く頭を下げて別の生徒に向かった。
その後ろ姿を見つめながら、剣哉は深く息を吸い込んだ。
胸の奥に、火がともるような感覚。
それは勝負への情熱とも違う――
もっと静かで、あたたかくて、確かなものだった。
湊「剣哉、お前……完全にやられた顔してるぞ」
剣哉「うるせぇ」
日向「ふふ、でも剣哉くんらしいね」
春の夕陽が校舎の窓を赤く染めていた。
風の中に、竹刀の音がまだ微かに響いている気がした。
――剣哉の高校生活は、静かに、そして確かに動き出していた。
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