第9話 少女
初めはルカスが優勢だった。やはりルカスは強いと、ノアは誇らしい気持ちで虚影と戦う姿を見ていた。
けれども大地が鳴動した時、ノアははっきりとした声を聞いた。
「助けて!」
声がした方を向く。海の方だ。
「助けて!」
女の子の声。
ノアは屋根から飛び降りると、助けを求める声に向かって走り出した。
「誰か! お願い、助けて!」
懇願する声が強くなる。誰かが虚影に襲われているにちがいない。
「今、行く!」
ノアは海に一番近い朽ち果てた小屋の中に飛び込んだ。
「助けて!」
月明かりが影って、じっとりとした闇が訪れる。
呼吸を整えて、ノアは剣を抜いた。微かに刀身に光が灯る。
「誰かいるのか?」
声をあげると、空気がふわっと動いた。
「……殺さないで」
女の子のか細い声が、すぐ近くから聞こえた。
雲が動いて、月の光が戻ってくる。
ノアは物影に隠れている少女を見つけた。
「もう、大丈夫。おれは残響師です」
物影から身体を半分だけ出して、少女はノアの様子をうかがっている。大きな瞳は恐怖で揺れている。
「本当に残響師なの? あの化け物じゃないの?」
「おれは残響師です。あなたを助けにきました」
「本当? 本当にあたしを助けにきてくれたの?」
「そうです。安全なところへ移動しましょう」
ノアが手を差し伸べると、少女は物影に隠れたまま、片手を伸ばした。その手をノアがやさしくつかんだ。
「あたしの声がきこえるんだね」
ゆらりとと物影から出てきた少女の体半分が、虚影にのまれていた。片方の赤い瞳がギョロリ動いてノアをとらえる。
後ろに跳び退こうとしたノアの腕を、少女がつかんで引き寄せた。
「助けてよ。残響師なんでしょ? ねえ」
ノアは剣を少女にむける。
――斬る? この子を? 半分はまだ人間なのに?
「そうやってみんな、あたしたちをゴミみたいに捨てていくんだ。誰も助けてなんかくれないんだ」
少女が笑う。不気味な獣のような声で。
ノアの目の前で少女は、虚影にのまれていく。
「おしいなぁ。あたしたちの声がきける人が、やっと現れたと思ったのに……。キミは
虚影になった少女の体が、ゆらりと揺れる。赤い瞳からは、涙が流れていた。
「何の話をしている?」
切先をむけたまま、ノアはたずねた。
「虚影は、人語を話せないはずだ。あなたは、何者なんだ?」
「何者って、ひどいなぁ。何者でもないよ。見えない存在だよ」
「亡霊なのか?」
「亡霊? あはは。そうかもね。ずっと前に死んじゃった。ここに住んでいたみんなも。いい人たちだったのになあ。虚影になったあたしが、飲み込んじゃったの。だって、仕方がなかった。あたし、真っ黒だったの。恨んでいたの」
「……誰を?」
「この世界を」
少女の体が伸びて、ノアに襲いかかる。すんでのところでかわし、ノアは剣をふった。
短い悲鳴があがって、少女が首元を押さえてよろめいた。
――斬れなかった。
「残響師なんて、大っ嫌い」
赤い瞳がにぶく光った。地獄の底に咲く花のように。
「消えて」
ノアの体が宙を舞った。小屋の屋根を突き破り、外へ飛び出す。足首に何かが巻き付いていた。
――おれを叩きつけるつもりだ。
受け身を取ろうとノアが構えた瞬間、すぐ目の前に少女が現れた。口を大きく開いて、ノアの肩に噛みついた。
ノアは絶叫した。
焼けるような痛みが肩から足先にはしった。
(助けて欲しかっただけなのに)
地面に体を打ちつけて、ノアの視界が弾ける。
(さみしいのは、もういやなの)
声が頭の中で響いている。少女の心の声だとノアは、直感的に思った。
――少女が噛みついている今なら、剣で刺せる。
(だれか)
痛む体を動かして、腕をあげた。
(あたしの声を)
剣を振りおろす。
(きいて)
虚しい音が響いた。
「……どうして……」
ノアの頬に涙がはらはらと落ちた。
「おれは、残響師だから」
剣はノアの手になかった。地面に落ちている。
ノアは少女を抱きしめていた。
「最期の声をきくのが役目です」
少女の体が、ゆっくりノアから離れる。赤い瞳がノアを見つめている。
「楽にして。あたしを、もう解放して欲しいの」
ノアは目を固くつむる。剣を拾い、柄に手をかける。指先がふるえていた。
――首を。首を斬ってあげないと。
少女は目を閉じ、涙を流す。
――おれが、斬らないと。
切先が揺れる。呼吸が荒くなる。
「貸して。ぼくが送ってあげる」
目を開けるとグレンが隣に立っていた。横顔に月光が当たって、悲しげな表情をみせている。
硬直したままのノアの手から、グレンは剣をそっと受け取る。目を伏せ、唇がわずかに動いた。祈りのようなつぶやき。
白い光が静かに走った。光のつぶが舞う。
夜が戻ってきて、風がふいた。
その先にいた少女は、もういなくなっていた。
「祈ってやって、くれないか」
立ち尽くしたままのグレンが言った。
ノアは噛まれた肩を押さえながら、立ち上がった。少女がいた場所には、なにもない。
「月は耳をすませている」
心をこめて、ノアは祈った。
「光と影を分たずに、汝の声の行く末を、月光で照らさん」
虚影になった少女がどうか月神の元へいけるように、と。
グレンが振り返った。血の気のない顔で、ふっと微笑むと、突然膝をついて崩れ落ちた。
「グレン!」
痛みを耐えるようにグレンがうめく。背中を押さえて、のたうちまわる。
「怪我をしているのか?」
グレンの危機迫る様子に、ノアは駆け寄って触れようとした。
「触るな!」
叫んだグレンは、再び苦悶の表情に戻る。冷や汗が彼の首筋を流れていく。
「怪我をしているなら、見せてくれないか?」
グレンは頑なに首を横に振る。
「呪文で治せるかもしれない」
「黙れよ、ガキんちょ」
「グレン……」
真っ青な顔で、グレンは立ち上がる。
「ぼくは帰る。このことは、ルカスには絶対に言うな」
「待って――」
引き止めようとしたノアの手は、虚空をつかんだ。グレンは術で姿をくらましてしまったようだった。
「ノア! 無事ですか?」
入れ替わるようにルカスが、ノアの元にかけてくる。肩の傷を見つけて、ルカスは手を添える。呪文をとなえると、ノアの傷口は癒やされた。
「ありがとうございます。あの虚影の塊はどうなりましたか?」
「それが、突然霧散して消えたのです。ここにも虚影が?」
「はい。少女の虚影で。グレンが送ってくれました」
「そのグレンはどこへ?」
本当のことを言うか迷った挙句「お腹が痛くなったみたいで、先に帰りました」とだけ言った。
ルカスはもう一度、ノアの肩に触れる。
「申し訳ありませんでした。初めての虚影任務が、まさかこんなことになるだなんて。私の落ち度です」
「そんな、ルカスさんのせいでは」
「虚影の数が増えているとは聞いてはいましたが。一体なにが起きているのか……」
流石のルカスにも疲労と困惑の色がうかがえた。
「戻りましょう。頭の中を整理してから、ノアに虚影の発生源について、お話させてください」
ノアはうなずいた。最後にもう一度、あの少女が立っていた場所に視線をやって、黙礼した。
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