第8話 変異

 ノアは屋根の上から、ルカスを見ていた。無駄のない動き。ためらいのない剣先。普段のおっとりとしたルカスからは想像の出来ない気迫に、息をのんで見守った。


「あれが、虚影」


 本の絵でも、講義の話でもなく、初めて目の当たりにした。真っ黒な亡霊。見えない糸で操られているかのように、うめき声をあげて徘徊している。動くものを見つければ、見境もなく襲いかかる。


「あの塊……。まずいかも」


 グレンがつぶやいて、ノアは立ち上がる。まだ頭の先がビリビリしびれた。


「まずいって、ルカスさんが危ないってこと?」

「どうかな。あんな虚影は見たことない。未知数だ。そういう意味で、まずいってこと」


 ノアはルカスに視線を走らせる。ちょうど虚影の塊に向かって、一撃をおろしたところだった。


「おれも――」

 月奏剣を構えて、屋根から降りようとしたノアの襟首をグレンが掴まえる。


「お前が行ったって、邪魔にしかならない」

「でも、ただ見ているだけなんてできない!」

「あ~。黙れよ、ガキんちょが」


 グレンが腕をふるうと、ノアは後ろへとふっとんで尻もちをついた。


「何すんだよ」

「ぼくがいく。お前はそこで大人しくしてろ」

「でも」

「でもじゃない。ぼくのマカロンのために、じっと見てろって言ってんの」


 ガキがよ、というぼやきを残して、グレンの姿が消えた。屋根の上からのぞきこむと、グレンはすでに虚影の上に立っていた。



「やあ、ルカス。ノアがうるさいから、助けにきてあげたよ。早く終わらせてよ」


 言葉のわりには手助けする気配のないグレンに、ルカスは鼻で笑う。


「それは、ありがたいですね。でも、そんなところに立っていられると、あなたまで斬ってしまいますよ」


 手ごたえはあった。この虚影は見かけだけで、動きがにぶい。このまま斬りこんでいけば、問題ないとルカスは確信していた。グレンでさえ、用心の必要はないと判断していた。


 だが。


 一瞬、大地が悲鳴をあげたような気がした。鋭い絶叫のような。

 思わずルカスが足を止める。

 虚影の塊が膨らんで、形を変え始めた。グレンは虚影から飛び降りて、間合いをとる。


「へえ。変異するんだ。おもしろい」


 グレンは天を仰ぐ。月がちょうど黒い雲に覆われていくところだった。

 虚影が膨らんでいく。頭部に角が生えた。それは、蕾が開くように割れると、中から一人の少女が現れた。


 黒い肌に、赤い目。虚影の塊から上半身を出し、揺れながら、笑っている。少女は、声にならない笑い声をあげていた。


「仕留めやすくなったんじゃない? ルカス」

「そうですね」


 ルカスが跳躍し、少女の首に狙いを定める。剣光が弾けて、少女の体が灰となり消えて行く。


「……おかしいですね」


 斬った手ごたえがなかった。笑い声が再び聞こえてくる。

 今度は別の場所から、少女の上半身が現れた。


「斬られる前に、虚影の塊に戻って回避したようですね」

「まるでモグラ叩きだな」


 グレンは笑って言って、首をめぐらせた。屋根の上に視線をやって、はっとした。

 ノアがいなかった。


「あのバカ」

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