第13話 ルードセリカ祭と舟に乗った吸血鬼

 リガヌディルは水の都と呼ばれていた。石でできた町の中を、たくさんの水路が走っている。水路は大海へと流れ出ており、そこを眺める広場はルード広場と呼ばれ、人々の出会いの場になっていた。


 けれどそれは日の出ている時間の話だ。夜の帳が降りた広場には、クリムとガロードの二人の姿しかなかった。


「お祭りもまだ一週間も先だと、準備もほとんどされてないみたいね」


「あまり大掛かりな飾りつけをしないのでしょうか。ルードセリカ祭は大きなお祭りだと聞いているので、一週間前から色めき始めていてもおかしくはないと思うのですが」


 ガロードはランタンで足元を照らした。


「柵がないので、こう暗いと間違って海に落ちてしまいそうですね。クリムは泳げないのですから、気を付けてくださいね」


「わたしがそんな間抜けをするわけがないでしょう。あなたと違って、暗い中でもよく見えるんだから」


 吸血鬼は水の加護を持たないため泳げない。だから自ら海辺に近寄ることはなかった。しかしお祭りがあるのなら、クリムにとっては別だ。水の都と呼ばれる場所であろうが、こうして参上する。


「水路だらけの変わった町だけれど、似た景色が多いわね。何か面白い物はないかしら?」


「昼間は水路を走るゴンドラに乗って、町を回れるようです。ですが、クリムは船には乗りませんよね?」


 クリムはじっと水面を見て、考え込んだ。


「そうね……。いえ、せっかくリガヌディルに来たのですもの。少し怖いけれど、乗ってみたいわ」


「わかりました。夜にゴンドラを出してくれるところがないか探してみます。夜の海は危険でしょうから、見つからないかもしれませんが」


「その必要はないかもしれないわよ」


 クリムが海に目を向けた。それを追ったガロードの目には、小さな火が海に浮いているように見えた。それは細長いゴンドラの先端に吊るされたランタンだった。


 クリムたちにまっすぐ向かってきている。ゴンドラは岸に近づくと器用に船体を横に向け、ぶつかることなくぴたりと止まった。


 ゴンドラの後ろ部分に、長い青髪の少女が立っていた。夜になって少し冷え始めたにも関わらず、腕の出る服を着ている。下はショートパンツで、すらりとした生足が見えていた。


「道にお迷いですか?」


 青髪の少女がかすれそうな声でそう尋ねてきたので、クリムは口元に笑みを浮かべた。


「あら、船に乗った占い師さんかしら?」


「ち、違うのです! わたしは観光ゴンドラの漕ぎ手をしているリフュースと申すです。怪しい営業をしに来たわけではないのです」


 女の子は顔を真っ赤にして、開いた右手を横に振って否定した。


「この町は入り組んでいて見通しが悪いので、迷う方が多いんです。宿に帰れずに夜を迎えてしまう方もたまにいらっしゃるので、声をかけさせていただいたのです。慣れない人が夜のリガヌディルを歩くのは危険なので」


「そんなに危ない町なの? 怖いわ」


 クリムは大げさに体を震わせる。するとリフュースは右腕をクリムに向けて伸ばし、大きく横に振った。


「ち、違うんです! 女の子が一人で歩けるくらい治安はいいんです! 安全でいい町なんです! でも、夜になると陸と海の境が見えづらくなるので、足を滑らせて落ちる人が多くて。そういう意味なので、怖がらないでほしいです……」


 リフュースの声がしぼんでいく。クリムは不安そうなリフュースの表情を見て、本気で気遣っているのだと判断した。


「ねぇガロード。わたしたちの宿はどのあたりだったかしら?」


「え? 町に入ってすぐのところなので、セリカ聖橋を渡ったあたりですね」


 ガロードはここでやっと、クリムの意図を理解した。


「リフュースさんでしたよね? 自分たちはこの町に不慣れなので、もし宜しければ宿の近くまで案内していただけますか? もちろんお代はお支払いいたします」


「ええ。ちょうどセリカ聖橋の方向へ帰るつもりだったのでお送りするです。あと営業外なのでお代は要らないです」


「そういうわけにはいきません。時間外なら余計に必要です」


「観光ゴンドラはルーノとムーノ……語り手と漕ぎ手のことをそれぞれそう呼ぶのですが、それらが揃っているものです。ムーノであるわたしだけでは、観光ゴンドラとしては不十分ですので、お代を頂くわけにはまいりませんです。どうしてもというのであれば、明日以降にわたしたちのゴンドラをご利用してほしいのです」


 リフュースはゴンドラを岸にぴったりとつけると、クリムに手を伸ばした。


「遅くなってしまいますので、お乗りくださいです。リガヌディルではお話は船の上でするものです」


 クリムはその手を取らずに、ガロードを見た。ガロードは頷いて前に出る。


「自分が先に乗ります」


 リフュースが手を下げると、ガロードが大股で乗り込んだ。ガロードの大きな体のせいでゴンドラは揺れたが、転覆の不安は感じさせない。


「水に支えられているみたいに安定していますね」


「わたしのゴンドラは静かに揺れるので、水上のゆりかごと呼ばれているんです」


 リフュースは嬉しそうに笑い、クリムに手を伸ばした。


「さぁ、あなたも。怖くないですよ」


「こ、怖がってないわよ……!」


 クリムはリフュースの手を取ったけれど、踏み出すことができなかった。見かねたガロードは両手をクリムの脇に伸ばし、抱き上げてゴンドラへと乗せる。


 クリムはゴンドラに乗っても、リフュースの手を離さなかった。


「えっと……座った方が安全ですよ?」


「あなたは座らないの?」


「ムーノは立って漕ぐのがしきたりなんです。大丈夫。わたしが立っている限り、ゴンドラがひっくり返ることはないです。安心してほしいです」


 リフュースはクリムの手をガロードへと渡した。


「せーのでゆっくり座ってほしいのです」


 クリムは座った後も、ガロードにしがみついたままだった。


「一週間後に行われるルードセリカ祭では、このルード広場からセリカ聖橋へのレースがあるのです。レースでは一番の大水路を通るのですが、今回は別の水路を使うのです」


 リフュースが岸を蹴り、ゴンドラは静かに岸を離れた。リフュースが漕ぎだすと、少しの波音だけで、すべるようにゴンドラは進み始める。


 ゴンドラは細い水路から町に入っていった。ちょうどゴンドラの長さと同じくらいの路幅だ。


 ゴンドラは水路の中央をまっすぐ進んでいく。


「まるでレールの上を進んでいるみたいね。もっとゆらゆらと進んでいくものだと思っていたわ」


「今日は波が静かですから」


 クリムが水面を覗くと、見える波はリフュースの漕ぐゴンドラが作る波だけだった。まるで風のない日の水たまりのようだ。


「海はいつも波があるものだと聞いていたのだけれど、そうではない場所もあるのね」


「リガヌディルの入り組んだ水路は防波の役割もあって、風のない日の朝には水面が鏡のようになる場所もあるのです」


「それは、今から通る場所にあるのかしら?」


「そうです。どうしてわかったのですか?」


「だって、わたしが怖くないように波の少ない水路を選んで通っているでしょう? 暗いなら広い水路を使った方が安全だもの」


「波のない場所が好きなだけですよ。あ、ちょっと失礼しますです」


 ゴンドラが角の手前で止まった。リフュースが漕ぐ方向を変えると、ゴンドラが旋回を始める。時計回りに回転したゴンドラは水路の幅いっぱいの長さがあるにも関わらず、船体を壁に擦ることはなかった。そのまま半回転して、後ろ向きになる。


「見事なものね」


「ありがとうです。後ろ向きになっちゃうですけど、ちょっとこのまま進むです」


 リフュースは進む方向に背中を向けたまま、漕ぎだした。そして後ろをちらりと見ただけで角を曲がりはじめる。


(見えているのかしら? わたしにはわからないけど、人間には暗すぎるんじゃない?)


 ランタンはゴンドラの前に吊るしてあるので、後ろはほとんど照らされていない。けれど後ろ向きに進むゴンドラは壁に触れることなく、角を曲がり切った。


 曲がった先の水路はさらに狭くなっていて、もう転回して向きを変えることはできない。そこから進んですぐのところで、ゴンドラが斜めに浮いて水路をふさいでいた。


 リフュースのゴンドラは静かに斜めになったゴンドラに近づいた。ぶつけることなくゴンドラを止め、リフュースは振り向く。そして二つのゴンドラをまたぐように足を載せて、水面を漕いだ。


 二つのゴンドラはゆっくりと壁へ寄っていき、斜めになっていたゴンドラは壁にぴったりとくっつく。


「留めるロープが取れてしまったみたいですね。少し失礼しますです」


 リフュースは自分の繰るゴンドラも岸に寄せると、陸へと上がった。そして自分のゴンドラの先端に吊るしてあるランタンを手に取り、先ほど道を塞いでいたゴンドラに乗り込んだ。そして水路に垂れ下がっていたロープを岸に打ってある杭にくくりつける。


「慣れているのね。ここの船はいつも、ロープが外れているのかしら?」


「そんなことはないですよ。たまにロープが外れている船はありますけど、いつも同じところというわけではないです。毎日自分のゴンドラを繋いでいるので、それで慣れているだけなのです」


 リフュースはロープを繋ぎ終えると、ランプをゴンドラの前に戻して、後ろに戻った。そしてそのまま岸を離れて後ろ向きのまま、水路を進み始める。


「けれど、角を曲がる前から水路がふさがれているのがわかっていたのではなくて? だから曲がる前に船の方向を変えたのでしょう?」


「あぁそれは、波の様子で岸から離れている船があるってわかったのです」


「あなたは暗い中でも水面が見えるの?」


「見えはしないですけど、船とオールから伝わってくる感覚で波の様子はわかるのです」


「漕ぎ手……ムーノといったかしら? ムーノはみんな、それができるのかしら?」


「人によると思いますが、みんなある程度はそういう感覚を持っていると思うのです。ムーノがゴンドラの後ろ側に立つのは、ゴンドラ全体を見渡せるようにするためなのです。つまり、視覚でゴンドラの状況を確認して、海の状況は伝わってくる感覚で確認するもの……だとわたしは考えているのです」


「だから船が反転しても、あなたは振り向かずにこっちを見たまま漕いでいられるのね」


「どうせ前を見ても暗くて何もわからないですから。かわいいお客さんを見ていた方が楽しいのです」


 リフュースの微笑みかけた先には、ガロードにしがみついたままのクリムの姿があった。


「お金を払ってないのだから、お客じゃないわ。わたしはクリムで、こっちはガロードよ」


「クリムちゃんはルードセリカ祭を見に来たのですか?」


「そうね」


「ルードセリカ祭は満月の日に行われるので、ちょうど一週間後です。一週間もこの町にいれば、船は怖くなくなるのです」


 それはクリムに向けられた言葉だったが、一番反応したのはガロードだった。


「満月の日……」


 このときだけ、ガロードの体はクリム以上に震えていた。

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