黄昏の調律師

八つ足ケンタウロス

第一章「白き石の庭」

第一章「白き石の庭」

聖法書記官エリアンの朝は、祈りと共に始まる。

彼が住まう秩序国家「サンクタム」は、世界の夜が明けるよりも早く目覚める。都市の地下を流れる魔力回路が純白の光を放ち、磨き上げられた大理石の街路を照らし出すのだ。その光は朝日よりも理知的で、寸分の狂いもなく街の隅々までを平等に満たしていく。

サンクタムの街並みは、まるで神の設計図をそのまま具現化したかのように完璧だった。建物は全て白大理石で造られ、一つとして装飾の過剰なものはない。街路樹でさえも、魔法によって常に同じ高さ、同じ枝ぶりに保たれている。噴水の水は決められた高さまで吹き上がり、一滴も周囲を濡らすことなく元の水盤に戻っていく。人々の衣服は清潔で、誰もが穏やかな微笑みを浮かべて挨拶を交わし、大声で笑う者も、泣き叫ぶ者もいない。

しかし、その完璧さの中に、奇妙な違和感があった。街路には土の匂いがなく、どこにも草の不揃いな生え方がなく、風に舞う木の葉さえも、まるで計算されたように美しい軌跡を描いて落ちていく。市場では新鮮な果物や野菜が並んでいるが、それらは全て魔法で保存され、傷一つない完璧な形をしている。子供たちは広場で遊んでいるが、その遊びでさえも、決められた時間と場所で、決められたルールに従って行われる。

エリアンは時折、この街が美しい絵画の中にあるような錯覚を覚えた。全てが静止画のように整いすぎていて、生命の持つ本来の混沌――予測不可能性や、偶然の美しさや、不完全であるが故の温もり――が欠けているのだ。

彼はその違和感を、心の奥底に押し込めていた。これが正しい世界の在り方なのだと、自分に言い聞かせながら。

エリアンは、サンクタムの中枢である大書庫の一室で、純白の祭服に身を包み、巨大な聖法典(コーデックス)の前に静かに跪いていた。空気はひんやりと澄み渡り、古びた羊皮紙の匂いと、魔力を帯びたインクのかすかな金属臭だけが漂っている。彼の背後では、天井まで続く書架が巨大な肋骨のように並び、人類の叡智と秩序の歴史を沈黙のうちに守っていた。

「万物の理(ことわり)に秩序の光を。揺らぐことなき調和を、この一筆に」

詠唱はささやきに近かったが、その声は空間そのものを震わせた。彼は白鳥の羽から作られたペンを手に取り、黄金のインクに浸す。そして、聖法典の空白のページに、新しい一日を定義する最初の文字を記し始めた。

それは都市のエネルギー供給率を昨日のデータに基づき0.01パーセント引き上げるという、ごく些細な記述。しかし、彼の一筆が現実となるこの世界において、それは神の御業にも等しい行為だった。文字が記された瞬間、ページは淡い光を放ち、都市の地下深くを走る魔力回路が呼応するようにその輝きをわずかに増した。サンクタムの民の誰もが気づかぬほどの微細な変化だが、この積み重ねが、完璧な秩序を維持しているのだ。

これが彼の仕事であり、彼の世界の全てだった。美しく、完璧で、揺らぐことのない秩序。サンクタムの民が飢えも争いも知らず、清らかな日々を送れるのは、この聖法典に記された理が世界を正しく導いているからだと、彼は信じて疑わなかった。

だが、心のどこかで感じていた。この完璧すぎる世界には、何かが決定的に欠けている、と。清潔すぎる街路には土の匂いがなく、定められた時間に奏でられる音楽には魂の揺らぎがなく、人々は微笑み合ってはいるが、その瞳の奥には燃えるような情熱の光が宿っていない。それはまるで、生命の息吹そのものが希薄な、美しすぎる石の庭のようだった。


儀式を終えたエリアンが自室に戻ると、テーブルには既に朝食の支度が整えられていた。妹のリーナが、彼のためにハーブティーを淹れて待っていてくれたのだ。

「おはよう、兄さん。今朝も世界は完璧ね」

リーナは少し皮肉めいた口調で言ったが、その青灰色の瞳は優しさに満ちていた。彼女の銀色の髪は窓から差し込む理知的な光を浴びて、まるで光の糸のように輝いている。二十三歳になった彼女は、兄と同じ繊細な骨格を持ちながらも、どこか生き生きとした雰囲気を纏っていた。それは、聖法典の重責を背負わされていない者だけが持つ、自由さの現れだった。

「君が淹れてくれたお茶があるからな。それだけで私の世界は完璧だよ」

エリアンは微笑み返し、席に着いた。テーブルの上には栄養バランスが完璧に計算された粥と、数種類の果物が並んでいる。味気ないが、正しい食事。それがサンクタムの日常だった。

「またそんなことを言って。兄さんはいつもそうやって私を甘やかすんだから」

リーナはそう言うと、エリアンの隣に座り、彼の銀髪を優しく指で梳いた。その仕草は、彼が幼い頃からリーナにしてやっていることの、ささやかな仕返しだった。

エリアンは目を細め、妹の手の温もりを感じた。この時間だけが、彼にとって聖法典から解放される、唯一の安らぎの時間だった。

「そういえば、昨日の市場で面白いものを見つけたのよ」

リーナは明るい声で言った。

「スコージから密輸されたという、野生の花の種。もちろん、すぐに衛兵に没収されたけれど。でもね、その花の色、見たことのないような鮮やかな赤だったの。まるで燃える炎みたいで」

「危険だぞ、リーナ。スコージのものは、混沌の力に侵されている。触れただけで害を受けることもある」

エリアンは眉をひそめた。

「わかってるわよ。でもね、少しだけ、羨ましかったの。あの花は、きっと誰にも管理されず、好きなように咲いて、好きなように枯れていくのよね」

リーナの声には、どこか憧れのような響きがあった。

「リーナ……」

「ごめんなさい、変なこと言って。兄さんを困らせるつもりじゃなかったの」

彼女は笑ってごまかしたが、その瞳の奥には、何か言いたいことがまだあるように見えた。

しばらく沈黙が続いた後、リーナは意を決したように口を開いた。

「ねえ、兄さん」

リーナは真面目な顔でエリアンを見つめた。

「兄さんはいつも聖法典ばかり読んで、自分の人生を生きていないわ。私のために生きるのではなく、兄さん自身のために生きて」

その言葉は、穏やかな朝の空気に小さな波紋を広げた。

「何を言うんだ。君を守ることが、私の人生そのものだ」

エリアンは笑ってごまかした。

両親を早くに亡くしてから、リーナを守ることだけが彼の存在理由だった。あの日のことを、彼は今でも鮮明に覚えている。

十二歳のエリアンと九歳のリーナ。二人の両親は、サンクタム外縁部での魔力回路の修復作業中、予期せぬ事故で命を落とした。魔力の暴走による即死。遺体さえも、ほとんど原形を留めていなかった。

葬儀の後、泣き崩れるリーナを抱きしめながら、エリアンは誓ったのだ。「僕が必ず君を守る。二度と、君を一人にはしない」と。

それから十四年。彼はその誓いを守り続けてきた。リーナが食べるもの、着るもの、学ぶこと、全てに気を配り、彼女が悲しむことのないよう、常に気を張ってきた。そして、聖法書記官という地位を得たのも、妹により良い生活を保障するためだった。

しかし、リーナは成長した。もう、守られるだけの子供ではない。彼女には彼女の意志があり、夢があり、そして兄の人生を案じる優しさがあった。

「兄さん、私はもう子供じゃないわ。自分で自分を守れる。だから、兄さんも、自分のために生きて。聖法典のため、私のため、じゃなくて。兄さん自身が本当に望むことをして」

リーナの言葉は、彼の心の奥深くに、小さな棘のように引っかかり続けた。自分の人生。聖法典とリーナ以外に、自分には何があるというのだろう。

「ありがとう、リーナ。でも、私は今の人生に満足している」

エリアンはそう答えたが、その言葉が完全な真実でないことを、彼自身が一番よく知っていた。


その平穏な日常に、最初の影が落ちたのは、その数日後のことだった。

「静寂病(サイレントフェイド)」

その奇妙な病の名が、人々の間で囁かれ始めた。罹患者はまず感情の起伏を失い、次に活力を失い、そして最後には、まるで魂だけが抜け落ちたかのように、生きたまま美しい石像へと変わってしまうのだという。

エリアンは最初、それをただの噂だと信じようとしなかった。聖法典の管理下にあるこのサンクタムで、未知の病など発生するはずがない、と。

だが、彼は見てしまったのだ。

その日、エリアンは市場の視察に訪れていた。聖法書記官として、民の生活を把握することも彼の務めだった。市場は、サンクタムの中では比較的活気のある場所だ。商人たちが整然と並べられた商品を前に、穏やかな声で価格を告げ、客たちは礼儀正しく品定めをしている。

その時だった。

果物売りの女性が、突然、林檎を手にしたまま動かなくなった。最初は、ただ考え事をしているのかと思われた。しかし、彼女はそのまま、一分、二分と、まるで時間が止まったかのように微動だにしなかった。

「おい、どうした?」

隣の商人が声をかけた。返事はない。

商人が彼女の肩に触れた瞬間、悲鳴が上がった。

「冷たい……! まるで石みたいだ!」

人々が集まってくる。エリアンも駆け寄った。

女性の肌は、見る見るうちに陶器のように白く滑らかになっていった。その瞳からは光が消え、ただ虚空を見つめるだけのガラス玉へと変わっていく。彼女の髪は生気を失い、まるで石膏の彫刻のようになり、呼吸さえも、もはや感じられなかった。

「下がりなさい!」

エリアンは人々を制し、女性の前に跪いた。彼は聖法典から学んだ治癒の詠唱を唱え始めた。

「生命の息吹よ、この者に宿れ。闇を払い、光を灯せ」

彼の手から純白の光が放たれ、女性を包み込む。しかし、光は彼女の身体に触れた瞬間、まるで水が砂に吸い込まれるように、跡形もなく消えてしまった。

エリアンは別の詠唱を試した。魂を呼び覚ます古の言霊を。血の巡りを促す活性の魔法を。あらゆる治癒の術を。

しかし、何一つとして、彼女に変化をもたらすことはなかった。

やがて、女性は完全に石像と化した。その美しさは、まるで名工が魂を込めて彫り上げた芸術作品のようだった。しかし、それは芸術ではなく、恐怖そのものだった。

周囲の人々は、恐怖に顔を引きつらせ、遠巻きに見ているだけだった。誰もが、次は自分かもしれないという恐怖に怯えていた。

エリアンは無力感に打ちひしがれながら、その場を後にした。聖法典の力が、初めて無力だった。

恐怖は、秩序という薄い氷を溶かす熱のように、サンクタムに静かに、しかし確実に広がっていった。


それから数日の間に、静寂病の患者は増え続けた。最初は一日に一人だったのが、二人、三人と増えていき、やがて毎日のように、街のどこかで誰かが石像と化していった。

大書庫では、書記官たちが総動員で古文書を調べ、治療法を模索した。しかし、どの文献にも、この病について記述はなかった。まるで、歴史上初めて現れた災厄のように。

エリアンも、眠る時間を削って調査を続けた。聖法典の全ページを読み返し、禁忌とされる古代の魔法陣の記録まで目を通した。しかし、答えは見つからなかった。

そして、最悪の日は、突然訪れた。


その朝、エリアンはいつものようにリーナの部屋を訪れた。彼女を起こし、共に朝食をとるのが二人の日課だった。

「リーナ、おはよう。朝だよ」

扉を開けた瞬間、異変に気づいた。

部屋の空気が、冷たい。まるで冬の墓場のような冷気が漂っていた。

リーナはベッドの上で身を起こしたまま、動かなくなっていた。その手は力なくシーツの上に置かれ、その瞳は、あの市場で見た女性と同じ、光のないガラス玉の色をしていた。

「リーナ……?」

エリアンは震える声で呼びかけた。返事はない。

彼は妹の肩に触れた。冷たい。まるで大理石の彫像に触れているかのようだった。

「リーナッ!」

絶叫が、静かな部屋に響き渡った。彼は妹を抱きしめた。温もりは、もうほとんど残っていなかった。

「嘘だ……嘘だ……! なぜリーナが……!」

エリアンの理性が、音を立てて崩れていく。彼は妹の名を何度も何度も呼び続けたが、リーナは、もう二度と答えることはなかった。


エリアンは全てを試した。聖法典に記された、ありとあらゆる治癒の奇跡を。

彼はリーナの部屋に魔法陣を描き、古代の言語で詠唱を続けた。生命力を与える光の魔法。魂を呼び覚ます音の魔法。時を巻き戻す禁断の魔法さえも試みた。

しかし、何一つとして効果はなかった。

リーナの身体は日に日に石のように硬くなっていき、その美しい銀髪さえも輝きを失い、灰色の石膏のようになっていった。彼女の青灰色の瞳は、もはや何も映さず、ただ虚空を見つめるだけのガラス玉となった。

エリアンは、妹の手を握りしめたまま、三日三晩、眠らずに詠唱を続けた。しかし、奇跡は起きなかった。

四日目の朝、彼は気づいた。自分の頬を涙が伝っていることに。聖法書記官は、感情を表に出してはならないとされている。しかし、もはやそんなことは、どうでもよかった。

絶望が、エリアンの心を黒く塗りつぶしていく。


「師よ、静寂病を治す方法はないのですか」

エリアンは、師である大書記官ゼノンの私室で、床に膝をついて懇願していた。

ゼノンの部屋は、彼の人柄を表すように、華美な装飾が一切ない、書物と星図だけに囲まれた静謐な空間だった。窓からは、サンクタムの完璧な街並みが一望できる。しかし、その完璧な風景も、今のエリアンの目には、ただの空虚な石の集積にしか見えなかった。

ゼノンは窓の外に広がる都市を眺めながら、長い沈黙の後、静かに答えた。

「これは神の試練だ、エリアン。我々にできることは、ただ受け入れることしかない」

その声は、六十年の歳月を生きた老人の、諦観に満ちた響きを持っていた。

「しかし、リーナが……私の妹が、石になってしまうのです! このままでは!」

エリアンの声は悲痛な叫びとなった。彼は床に額をこすりつけ、涙を流した。聖法書記官としての矜持も、もはやどこにもなかった。

ゼノンはゆっくりと振り返り、その深い皺の刻まれた顔でエリアンを見つめた。その瞳には、憐れみと、そして深い諦観の色が浮かんでいた。まるで、全てを既に知っている者の目だった。

「エリアン。立ちなさい」

ゼノンは静かに、しかし命令するように言った。エリアンは震える足で立ち上がった。

ゼノンは彼に近づき、その肩に手を置いた。その手は、驚くほど冷たかった。

「私も昔、大切な人を失った」

ゼノンは遠い目をして語り始めた。

「四十年前のことだ。私の妻、エルヴィラ。そして娘、セレネ。二人とも、混沌の力に侵されて死んだ」

エリアンは息を呑んだ。師がそのような壮絶な過去を背負っていたとは、初めて聞く話だった。

「当時、サンクタムでは、千年前の大戦についての研究が盛んだった。調律師と呼ばれる者たちが、どのようにしてオーダーとカオスを操ったのか。その力を再現できれば、サンクタムはより強固な秩序を築けると考えられていた」

ゼノンの声は、記憶を辿るように緩やかだったが、その奥には消えない痛みが滲んでいた。

「私は若く、愚かだった。妻と娘を儀式に同席させた。古代の調律儀式を再現する実験に。そして……失敗した」

ゼノンの手が、わずかに震えた。

「儀式は暴走した。混沌の力が制御不能となり、妻と娘を飲み込んだ。彼女たちは私の目の前で、叫び声を上げながら、その身体が黒く焼け焦げ、崩れ落ちていった。私は、ただ見ているしかできなかった」

エリアンは言葉を失った。師の過去に、そのような地獄があったとは。

「だからこそ、私は秩序を重んじる。秩序だけが、人を守れるのだ。混沌は、ただ全てを奪う。予測不可能で、制御不可能で、そして容赦がない」

ゼノンの声には、四十年という時を経てもなお消えぬ、深い憎しみが込められていた。その痛みを前に、エリアンは何も言えなかった。

「師の苦しみは、お察しします。ですが、それでも……リーナを救う方法が、本当に、本当にないのですか?」

エリアンは必死に訴えた。

ゼノンは再び窓の外を見つめた。長い、長い沈黙が流れた。エリアンには、それが永遠のように感じられた。

やがて、ゼノンはまるで独り言のように呟いた。

「……禁書の間(アーカイヴム)に、古い記録がある」

エリアンの心臓が激しく打った。

「だが、それは禁断の方法だ。お前のような純粋な魂を持つ者が、決して手を出すべきではない。それは、お前自身を滅ぼすことになるかもしれん」

「どんな方法でも構いません! 教えてください!」

エリアンは再び床に膝をつき、懇願した。

「いや、忘れなさい。私が言い過ぎた」

ゼノンはそう言って、冷たく話題を打ち切った。彼は再び窓の方を向き、エリアンに背を向けた。

しかし、その瞬間、エリアンは見逃さなかった。窓ガラスに映るゼノンの顔に、一瞬だけ浮かんだ奇妙な表情を。それは憐れみでも諦観でもない、もっと別の、何か冷たい計算と期待が入り混じったような、得体の知れない光だった。

まるで、全てが計画通りに進んでいるとでも言うような、そんな表情。

(師は、何かを隠している……?)

その疑念は、嵐の前の暗雲のように、彼の心に広がった。しかし、今はそれを追及している余裕はなかった。リーナを救うことが、何よりも優先されるべきことだった。

「……ありがとうございました、師よ」

エリアンは立ち上がり、深く一礼して、部屋を後にした。


私室を出たエリアンは、無力感に打ちひしがれながら、大書庫の廊下をさまよっていた。師の言葉が頭の中で反響する。「禁断の方法」。そして、あの奇妙な光。

彼はリーナの病室に戻った。妹はもう、ほとんど言葉を発することもなかった。ただ、そのガラス玉のような瞳で、兄の姿を映しているだけだった。

エリアンは彼女の冷たい手を握りしめた。

「リーナ……必ず、必ず君を救う。どんな手段を使っても」

もう、迷っている時間はない。


その夜、エリアンは決意した。

彼は誰にも気づかれぬよう、大書庫の最深部――禁書の間へと続く、固く閉ざされた扉の前に立っていた。ここは、世界の秩序を乱しかねない危険な知識が封印された場所。たとえ大書記官であっても、特別な許可なく立ち入ることは許されない。

扉は黒檀で作られ、表面には複雑な魔法陣が刻まれている。千年の時を経てもなお、その封印は完璧に機能していた。

エリアンは震える手で、自らの血を一滴、扉の中央にある紋章に垂らした。聖法書記官の血だけが、この封印を解く鍵だった。

血が紋章に触れた瞬間、魔法陣が赤く発光した。そして、重い音を立てて、千年の沈黙を守ってきた扉がゆっくりと開いていく。

内部からは、濃い闇と、紙魚と、そして忘れられた時間の匂いが流れ出てきた。エリアンは一瞬、躊躇した。この先に待っているものが、本当に希望なのか、それとも絶望なのか。

しかし、リーナの顔が脳裏に浮かんだ。もう、引き返すことはできない。

彼は魔力光を灯し、埃をかぶった書架の間を進んでいく。禁書の間は想像以上に広く、まるで地下迷宮のようだった。書架は三層に重なり、天井は闇の中に消えている。そこに収められた書物の多くは、既に判読不能なほど劣化しているか、あるいは触れることさえ危険な呪いをかけられていた。

エリアンは師が示唆したであろう、最も古い区画を目指した。そこは、千年前の大戦に関する記録が眠る場所。調律師たちが残した、失われた知識の墓場。

彼は、ついにそれを見つけた。

書架の最奥、まるで意図的に隠されたかのように、一冊の古びた羊皮紙の巻物が横たえられていた。他の書物とは異なり、この巻物には封印の魔法がかけられていなかった。まるで、誰かに見つけられることを待っていたかのように。

エリアンは息を呑みながら、その巻物を手に取った。羊皮紙は驚くほど軽く、しかし触れた瞬間、彼の指先に微かな電流のような感覚が走った。これは、ただの古文書ではない。何か、強い魔力が込められている。

彼は震える手で、巻物をゆっくりと開いた。

そこには、現代の言語とは異なる、震えるような古代文字で、一つの絶望的な文章が記されていた。

『治療法はただ一つ。秩序の書記官が、混沌の覇者と魂を重ね、新しい調和の理(ことわり)を紡ぐこと。だが、この儀式を行えば、二人は永遠に魂を共有し、互いの孤独と苦痛を分かち合うことになる――』

その下には、さらに小さな文字で注釈が記されていた。

『静寂病は、世界のバランスが崩れた時に生じる。オーダーとカオス、そのどちらか一方が極端に優位となった時、世界は均衡を失い、生命は石へと還る。これを止めるには、両極を統べる調律師の力が必要だ。しかし、調律師の血統は途絶えた。残された唯一の方法は、秩序の末裔と混沌の末裔が、意志の力で魂を調律すること。だが、代償は重い。一度結ばれた魂は、二度と離れることができない――』

エリアンは愕然とした。

混沌の覇者。それは、世界の対極、魔法が枯渇し、暴力と弱肉強食だけが支配する無法地帯「スコージ」の王。聖法典において、その存在は「根絶すべき悪」と記されている。野蛮で、残虐で、秩序の敵。サンクタムの子供たちが、悪夢に見るような存在。

その悪魔のような存在と、魂を重ねる?

それは、聖法書記官として、そしてサンクタムの民として、最も忌むべき禁忌。自らの魂を汚し、裏切り者となることに等しい行為だった。師や仲間たちから、そして何より、自分自身が守ってきた秩序そのものから、永遠に追放されることを意味していた。

エリアンの手が震えた。羊皮紙が、かすかな音を立てる。

(これは、できない……)

理性が、そう叫んでいた。これは間違っている。禁忌だ。自分を、そして世界を破滅に導く選択だ、と。

しかし、彼の脳裏に、石になっていく妹の姿が浮かんだ。あの、光を失っていく瞳。冷たくなっていく手。そして、最後に彼女が言った言葉。

『兄さん自身のために生きて』

そうだ。これは、誰かに与えられた道じゃない。師に指示された道でも、聖法典に書かれた道でもない。俺が、俺自身の意志で選ぶ道だ。

エリアンは羊皮紙を強く握りしめた。その瞳には、もはや迷いはなかった。恐怖と、そしてそれを上回る、燃えるような決意の光が宿っていた。

彼は巻物を懐に仕舞い、禁書の間を後にした。扉を閉じる時、彼は一度だけ振り返った。闇の中に沈む無数の書物。それらは、全て過去の人々の選択と後悔の記録だった。

そして今、自分もまた、歴史に刻まれる選択をしようとしている。

エリアンは大書庫を出て、夜のサンクタムを歩いた。街は静まり返り、魔力回路だけが淡い光を放っている。完璧で、美しく、そして冷たい街。

彼は空を見上げた。星々が、冷たく瞬いている。

「妹を救うためなら、私は――悪魔とでも手を組む」

その言葉は、誰に聞かせるでもなく、夜の闇に溶けていった。

しかし、彼はまだ知らなかった。

この選択が、世界の運命を変え、そして彼自身の魂を、永遠に変えてしまうことを。

秩序の書記官と混沌の覇者。対極にある二つの存在が出会う時、世界は新たな物語を紡ぎ始める。

それは、救済の物語なのか。

それとも、破滅の物語なのか。

答えは、まだ誰も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る