赤い糸は階を超えて

鹿島さくら

第1話

 ヴァシリール王国の国王アヴァロが隣国に宣戦布告して始まったその戦争は「羊戦争」と呼ばれた。王国中の奴隷と平民を起用したこの戦争は5年もの長きにわたる全面戦争となり、ヴァシリール王国の敗北という形で終結した。

 終戦から2年が経った現在。戦争の爪痕がなお深く残るヴァシリール王国には、羊戦争を開始したアヴァロがいまだに王として君臨していた。


***


(殺してやる! 王族は必ず殺してやる!)

 胸に憎悪を燃やしながら、一人の青年が森を駆ける。夕日に赤く染められた森がかつての戦場を思い出させ、青年は吐き気と苛立ちをこらえるようにナイフを握る右手に力を込める。青年の名はセルウスといった。

 現国王アヴァロの甥・フィーロ王子が視察のためにこの地に来ていたと聞いたのはつい昨日のことだった。以来セルウスは一睡もせず、王子一行を追いかけ続けている。疲労も空腹も構ってはいられなかった。これを逃せばもう一生こんな機会は得られないかもしれない。

(一人で良い、必ず王族をこの手で殺す! でなきゃ戦場で死んだ仲間が報われない!) 

 木々の根本に茂る茨で足が傷つこうとも、腹の傷が開いて血が流れようとも、セルウスは止まらない。胸の焼き印がズキズキと痛みを訴え始めるが、歯を食いしばってそれをこらえて耳を澄ます。

 向こうに見える街道から馬蹄と車輪の音が聞こえている。セルウスは走る勢いで低木を飛び越え、傍の大樹によじ登って街道を見下ろした。夕日に染められた視界に、地面に長く伸びた影を落として進む小さな一団が映った。立派なつくりの馬車と、上等な馬具をつけた馬に騎乗した一団である。

(間違いない、王子一行だ!)

 確信したセルウスはナイフを構えなおし、疲労で震える足を叱咤して大樹を飛び降り、街道に躍り出た。

 王子の一団が突然の闖入者にざわついた。そのスキにセルウスは素早く馬車の扉にしがみ付き、声のあらん限りに怒鳴った。

「出て来い王族、殺してやる!」

 手にしたナイフで馬車の窓ガラスを割ろうとしたが、彼の身体はグイと後ろに引っ張られた。視界がぐるりと回転して赤い空を仰いだかと思うと背中から勢いよく地面に倒れこんで、後頭部に衝撃が走る。だがそれで怯むセルウスではない。

「邪魔するな、離せッ!」

 鋭く吠えて立ち上がろうとする。だが再びグン、と何かに腕や足を引っ張られてそれは叶わなかった。眉間に深く皺を刻んだセルウスは自分の身体に目をやる。腕や脚に細い糸が絡みついている。

 セルウスは自身の動きを封じる糸を辿って上空に視線を向けて、宙に浮きながら回転する車輪の群れを見つける。非現実的な光景だった。糸を吐き出しているあたり、宙に浮いた車輪はどうやら糸車らしいが、それが分かったからどうということも無い。。

「何だこの糸と車輪……魔法か?」

 忌々しげにつぶやいたセルウスの視界の端で、数人の男女が戸惑ったような声を上げていた。

「フィーロ様、お待ち下さい!」

「殿下、襲撃者に近づいては危険です!」

「どうかお下がりください、王子!」

「そういうわけにはいかないよ。彼は私に用事があると言ったのだから」

 だが「フィーロ様」と呼ばれた若い男は凛とした声で周囲の反対を押し切り、馬から降りると悠然とセルウスの前に歩み出た。彼はそこで己の失策を悟る。王族なら馬車に乗っていると思っていたのに、そうではなかった。

(偉ぶった王侯貴族なら大人しく馬車にいろよ!)

 顔をしかめたセルウスの前に立ったフィーロ王子は美しい青年だった。年の頃はセルウスと同じくらいの二十代。繊細そうな艶めく銀髪。優しげな若草色の瞳に、凛々しい眉。傷痕のある左手の小指には指輪が光っている。

(王族は見目まで良いのかよ……)

 内心でうんざりしたように毒づいたセルウスの前に立った貴人はその場に膝をついて屈みこみ、彼に視線を合わせて言った。

「手荒にしてすまない、その糸は私の魔法だ。部下に怪我をさせるわけにはいかないから」

 セルウスが馬車を見上げた。その中で驚いたように警戒している女たちは姿恰好からして明らかに使用人の類だった。

 一方で、素人目にも分かるほど上等の服を着た銀髪の美男は堂々とした態度で襲撃者に対して名乗りを上げた。

「私はヴァシリール王族の一員、現国王アヴァロ陛下の甥、先代国王陛下の息子、フィーロ・ヴァシリールだ。君は私に用事があるようだが?」

 その態度にセルウスは舌打ちして、絡まっていた魔法の糸が皮膚に食い込むのも構わず、傍に落ちていた自前のナイフを拾って振りかざす。

「襲撃者を前に呑気じゃねぇか王族、そんなに殺されたいか!」 

「殿下、伏せて!」

 だが間髪入れず馬車から女の一人が転がり出て、セルウスと王子の間に割って入る。背の高い女メイドはそのまま大柄なセルウスに組みついた。だが掴みどころが悪く、セルウスの着ていた粗末なシャツが破れてその胸元が露わになる。そこにある黒い焼き印が人々の眼下に晒されると、その場にいた誰もがハッとして動きを止めた。

「その焼き印は奴隷の印と戦争捕虜の……?」

 呟いたのは背の高いメイドだった。

 奴隷、その言葉にセルウスの目に炎が灯った。それを察知した王子は勇敢なメイドを引き寄せて自身の背に庇う。襲撃者の凶器など見えていないかのような、部下を思いやる王子の行動にセルウスはその目をますます燃え立たせ、我慢できないとばかりに歯をむき出しにして荒々しい声で非難した。

「この死にたがりども! 愚かな王侯貴族もそれに仕える奴らも、そんなに死にたいなら殺してやる。あの羊戦争で死ぬべきだったのは必死に生きようとしたペロやレットでなく、死にたがりのお前たちだ! さあ死ねッ!」

 だがそこでセルウスは意識を失ってばったりと地に倒れ伏した。後ろからそっと近づいた護衛の騎士が彼を気絶させたらしかった。

 愚かな王族のフィーロは左手を拳に握り、その小指にはまった指輪をもう片方の手でしきりに撫でる。それから夕日に照らされた傷だらけのセルウスを見つめて苦しげに顔を伏せた。だが当然、既に意識を失ったセルウスがその顔を見ることは無かった。


***


 ふ、と気が付くとセルウスは物置のような部屋の、簡素ながら清潔なベッドに寝かされていた。窓から見える空は明るい。

(朝……? 手当てがしてある)

 全身どこもかしこも痛かった。ゆっくりと起こした身体のあちこちに包帯や湿布が張り付いている。一番強く痛む腹の傷はとりあえず塞がっているらしい。

 すぐそばにある扉の向こうが何やら騒がしい。ここがどこだか知りたかったし事態の把握もしたかったが、傷ついた身体はまだ休息を必要としていた。

(こんなまともな寝床なんていつぶりだ)

 セルウスは生まれながらの奴隷だった。物心ついた頃に身を寄せていた盗賊団では家畜の群れや藁の山を寝床にしていたし、先の羊戦争の時には布袋に入って寝ていた。戦争捕虜になった時もだいたいそんな生活を送っていたし、その後このヴァシリール王国に戻って奴隷として働いていたヤイ伯爵の屋敷では薄い布団を石の床に敷いて眠っていた。温かく柔らかい寝床など、従軍前に娼館の世話になった時以来かもしれない。

(……それにしても変な王族だった)

 まどろみながらセルウスは記憶を手繰り寄せる。昨日の夕方、フィーロ王子の一行を襲ったのは覚えている。このヴァシリール王国において、奴隷が王族を襲撃した場合、襲撃者は裁判や尋問をすっ飛ばしてその場で殺すのが習わしであるのは誰もが知るところだ。

 それなのにセルウスは生きている。

(あの王子の差し金か? 自分が殺されそうになってるのにわざわざ俺の前に来て名乗ったり、使用人のメイドを庇ったり、変な奴だ。何考えてるんだか……)

 もうひと眠りしようとセルウスが目を閉じたその時だった。扉の外から凛然とした声が聞こえてきた。

「ヤイ伯爵があのセルウスとかいう奴隷を持て余しておられたのなら、当方が買い上げる。頑丈で体力があるなら使いどころはいくらでもある」

 聞き覚えがある。あのフィーロ王子の声だ。話題の中心にいる男はベッドの中で全身を緊張させた。

 扉の向こうでジャラリ、という音が響いた。王子が続ける。

「金はそれで足りるだろう」

「……お、おお、これはこれは、殿下は太っ腹なお方だ。いやあ、頑丈な奴隷が欲しいというヤイ伯爵の望みで隣国で捕虜になっていた男を買い取ったものの、愛想は悪いし定期的に暴れるので持て余しておりまして。まさか屋敷を抜け出すとは……」

 王子の声に答えて欲深そうな男の声がいやらしく笑い、聞かれもしないことをペラペラと話し始める。こちらの声もまたセルウスにとっては聞き覚えがあった。隣の領の領主・ヤイ伯爵に仕える奴隷監督官で、つまりセルウスの上司の声である。どうやらヤイ伯爵の屋敷を無断で抜け出したセルウスを連れ戻すためにここまで追いかけてきたらしい。

「しかしフィーロ殿下が奴隷に興味を示すとは意外でしたな」

「有能な者なら買う、それだけだ。ヤイ伯爵にもそう伝えろ」

「もちろんでございます! お騒がせしました。それでは私はこれで」

 浮かれた奴隷監督官の声が遠ざかっていく。どうやらセルウスは隣領の領主ヤイ伯爵からフィーロ王子へと売られたらしい。

 セルウスは布団を頭までかぶって舌打ちする。あのフィーロという王子は、自分が想像していた王族像……自分勝手で他人の命を何とも思わないような、そういう在り方とは違うと思っていたのだ。けれど結局セルウスという人間をモノとして金銭で売買した。

 否、セルウスが苛立っているのはその点ではない。

(フィーロとかいう王族をちょっとだって信じようとした自分が気に食わねぇ)

 ふて寝を決め込もうとしたセルウスだったが、扉の向こうでフィーロ王子を必死に励まそうとする者たちの声がそれを邪魔した。

「あの奴隷監督官、もう見えなくなりましたよ!」

「これでヤイ伯爵の周辺は、殿下が奴隷制度支持派だと認識するはず」

「奴隷を買うなど心苦しいしょうに……」

「あの逃亡奴隷には解放証明書をお出しになるのでしょう? 紙とペンをお持ちしました」

 そこまで聞いて、ついにセルウスはふて寝を中断して身体を起こした。あのフィーロという王族に何か言ってやりたい気がする。しかし具体的に何を言いたいのか彼自身にも分からず悩んでいるうちに、部屋の扉が開いてフィーロ王子が顔を出した。

 自然と目が合い、セルウスが眉間に皺を刻む。それをどう解釈したのか王子は困ったように笑った。

「うるさくしてすまない、起こしてしまったかな」

「なんで襲撃者を寝かしてる部屋に入るのに王族が一番に顔出すんだよ、使用人は何してんだ」

「フィーロ殿下はご自分の命を守るために他人を盾にする卑怯者ではないし、無策で敵対者の前に立つ愚か者でもない。殿下は魔法はお前も見ただろう」

 苛立ったようなセルウスの言葉に答えたのは王族本人ではなく、その後ろに控えていた背の高い仏頂面のメイドだった。昨日の襲撃の際にセルウスに組みついたあの勇敢な女である。

 セルウスが眉間の皺をますます深くするのを見て取ってか、仏頂面のメイドは言葉を続ける。

「そしてセルウス、お前は怪我の手当てをした者に手を上げる恩知らずなのか? お前の手当てを命じたのは殿下ご自身だ」

 メイドの指がセルウスの腹の傷を示す。昨日の一件で開いた裂傷にもきちんと手当てがしてある。

「……それで? 何しに来た」

 セルウスが吐き捨てるよう言うと、当のフィーロ王子はまた困ったように笑って怪我人のベッドの傍に歩み寄り、指輪を飾った左手で一枚の紙を差し出した。

「君が自由民になったことを証明する解放証明書だ。私のサインを入れてある。つまりその、君はもう」

「もう、奴隷じゃない? 話は一通り聞いた。ヤイ伯爵から俺を買い取ったんだろう」

 フィーロの言葉を継いで嗤ったセルウスは解放証明書をひったくって一瞥し、その紙切れをビリビリと破いて宙に放った。紙くずになって宙を舞う証明書を見つめて唖然としていたメイドがカッと目を見開いてセルウスを殴りつけた。

「貴様、殿下のお心遣いを無駄にするか!」

「テメェらこそ奴隷を何だと思ってンだ!」

 セルウスは怒鳴り返してベッドから飛び降りた勢いでメイドを突き飛ばし、そのままフィーロの胸ぐらをつかんだ。だがフィーロは逃げるどころか引き下がりもせず、大人しくされるがままになった。その態度すら癇に障って、セルウスは声を荒げる。

「俺たち奴隷や平民の多くは字が読めねぇ。解放証明書を持っていたって、その読み方を知らなきゃ貴族や王族、奴隷商人に奪われて悪用される! 文字を読めない平民が解放証明書の内容を理解せずに自由民になったはずの奴を奴隷として扱う! 俺はそんな目に遭った奴隷を散々見てきた! そもそも、王族直々に書いた証明書なんざ偽物と判断されるのがオチだ。筆跡鑑定とかいうのもあるらしいが、悪質な奴隷商人がわざわざそんなことするわけないだろ。それに……」

 セルウスの手が力なくフィーロから外れ、そのまま自身のシャツの襟ぐりをグイと引っ張った。そこに覗いた古傷と新しい傷が同居する肌には、奴隷であることを示す焼き印に付随して、戦争捕虜であることを示す焼き印が黒く刻まれている。

「……これがある限り、解放証明書なんざただの紙切れだ」

 セルウスは呟いて力無くうなだれ、そのままずるずるとその場にしゃがみこんで拳で床を叩いた。

「くそッ、そんなことも分からねぇバカな王族のためにあいつらは羊戦争で死んだのかよ。王族が勝手に始めた戦争なのに、どうして王族ではないデーリンたちが死ななきゃならなかった。王族が勝手に終わらせた戦争なのに、どうして敗戦したことを王族でなく俺たち奴隷歩兵が責められなきゃならなかった……」

 声は引きつれて力無く、最後には涙まじりになった。うずくまって首を横に振るセルウスの傍に、そのバカな王族が屈みこんで頭を下げた。

「本当に申し訳なかった。私が無力だったばかりに、あの羊戦争を始めた叔父王を……国王アヴァロ王を止められなかった」

「謝るくらいならパドクスたちを返せ、返せないならせめて死ね! 死んであの世で俺の戦友たちに詫びて来いッ!」

 だが王子の態度はセルウスをますます苛立たせた。大声で怒鳴ったかと思うと、傷だらけの大きな手をフィーロの首に向けて伸ばす。無抵抗のフィーロ王子に反して、件の仏頂面のメイドがそれを許さなかった。彼女は「ご無礼!」とだけ叫んで王子を突き飛ばし、セルウスの大きな手の前に立ちはだかった。さしものセルウスも僅かに戸惑い、手は目標から逸れて、結局彼女の胸ぐらをつかむにとどまった。しかしその勢いと言えば彼女の服のボタンを千切れさせるほどだった。

 眼前の光景にセルウスが目を見開く。メイドの白い胸元にもまた奴隷紋が刻まれていた。

「……さっきの態度と言い、アンタ、そこの王子に『解放』されたクチか?」

「それがどうした」

「俺たち奴隷を歩兵として羊戦争に起用したとき、国王アヴァロは戦後に俺たちを自由民に解放すると宣言書を出した。だが二年前の終戦時、アヴァロの野郎は敗戦の責任は俺たち奴隷歩兵にあると言って、その宣言書を無かったことにした! そんなクソ国王と、それを止められず玉座から引きずり落とすこともできない無能な王侯貴族にのうのうと仕えるアンタが俺は心底許せねぇ。そういう態度が奴らをつけ上がらせる!」

「お前がフィーロ殿下と我々のやりとりを聞いていたのならわかるだろう。殿下は元より奴隷制に反対しておられる。だがお前はその事実から目を背け、王族という肩書だけを見て殿下を憎んでいる。その視野の狭さで、お前の程度の低さが知れるというものだ!」

 図星だった。元奴隷のメイドの舌鋒の鋭さに、返す言葉に窮したセルウスが目を怒らせる。古傷も新しい傷もズキズキと痛みを訴えている。不意に、宙を彷徨うセルウスの手をフィーロが掴んだ。

 自分を殺そうとする男の手を掴む王子の無防備さに、セルウスの感情は怒りを通り越す。

「呑気だな、王子様。俺がお前を殺そうとしてるのが分からねぇのか? ……主人のピンチだってのに他の使用人共は何してやがる」

「これは君と私の問題だ、彼らに介入の余地はない」

 フィーロ王子は涼やかな声でいうと、掴んでいたセルウスの手を自身の首元にあてがった。大きなその手が王子の首をやんわりと締めるような形になって、ビクリとセルウスの指先が硬直する。

「君一人の説得もできないのなら、この先に控える大事を成すなど到底叶わぬことだ」

 王子は落ち着き払っていた。その妙な気迫に怒ることさえ忘れてセルウスが怯む。フィーロが彼よりも小柄で、優しげな雰囲気であるにも関わらず。

「何を成そうってんだ、王子様?」

 問いかけは無自覚に震えていた。

「王位の簒奪を」

 決然と告げられた答えにセルウスが目を見開き、僅かによろめく。

「……アンタが王に?」

「即位するのは姉上だ。私はその手伝いをしている」

 セルウスの口からもれる「ハ」という音は信じられないという時の音であり、馬鹿げていると笑い出すときの音でもあった。だが真面目腐った冷静そのものの王子の顔が、その音の続きを封じた。

「我が叔父たる現国王アヴァロ陛下を玉座から引きずり下ろし、我が実姉たる現王太子クラヴァラ王女殿下が新たな女王として即位する。その目的の第一は奴隷制度と焼き印の廃止、及び奴隷商人の駆逐。これと並行して、奴隷制度抜きでも成立する社会を確立する」

 セルウスは顔いっぱいに緊張をみなぎらせ、黙って続きを促す。

「羊戦争が終わってからの、この二年間。私と姉上はそのための準備をし続けた。だがその実行に際し、当の奴隷身分から『待った』がかかるなら甘んじて受けよう。……セルウス、君には私を殺す権利がある。同じ王宮に暮らしていた同じ王族の叔父王アヴァロを止められなかったのは事実であり、私の落ち度だ」

 淀みも焦りも戸惑いも無い一言一句にセルウスのこめかみに脂汗が滲む。王子の首に絡まっていた指がほどけ始める。僅かな沈黙の後に、かすれた声で奴隷の青年が問うた。

「なぜそこまで俺たち奴隷に肩入れする?」

「私には奴隷の血が流れている」

 予想もしない答えに、セルウスは雷に打たれたようになった。

「私と姉上は先代国王と女奴隷の間に生まれた。表向きには秘匿されているが」

 唖然として二の句も継げないセルウスに、ヴァシリール王国の王子が左手の小指にはめていた指輪を外す。その下に小さな、しかしセルウスの胸に刻まれたのと同じ奴隷印が確かに焼き付いている。

「父も叔父もなかなか子供に恵まれなくてね。王家の血が途絶えるのを恐れた宮廷は奴隷身分になるはずだった私と姉を王族に加えた。王族の象徴である魔法も使えたから。……奴隷として生涯を終えるはずが、生まれというただの幸運で、ある日突然王族になった。私はその幸運に報いなくてはならない」

 いつまで絶句していたか、セルウスがおずおずと問いかけた。 

「……王座の簒奪なぞ、やれるのか?」

「成し遂げるか死か、二つに一つだ」

 断言したフィーロの若草色の瞳が光を上げた。その稲妻のごとき鋭さにセルウスは心臓を貫かれたような心地になって、両の手から力を抜いた。だがそれで大人しく引き下がるのは彼の過去が許さなかった。

「今お前を殺すのはやめておく。だがお前の志が信用ならないと思えば、その場でお前を殺す」

 それだけ言ってベッドに潜ろうとしたセルウスだったが、扉の向こうから食事の良い香りがして腹の虫が鳴った。中年のメイドがひょっこりと部屋に顔を出し、話がひと段落ついた様子を確認すると人のよさそうな笑みを浮かべて言った。

「殿下、そろそろ昼食ができますよ。そこの身体の大きい……セルウス、アンタはご飯の前に風呂に入りな」


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