第2話【聖女リアナ・アウリス・ローデリア】(同時間軸――リアナ視点)

 草の海が、朝の光を受けて静かに波打っていた。

 およそ凄惨な戦いの後とは思えぬほど、吹き抜ける風は優しい。


 聖女リアナ・アウリス・ローデリアは、草原にひざまずき、両手を胸の前で固く組んでいた。


「……誰も、守れなかった」


 か細く震える声は、誰の耳にも届かない。

 頬を撫でる風が、その懺悔ざんげをどこかへ運び去っていく。


 炎王竜ヴァルロードとの、壮絶な戦いが終わった。

 深手を負わせたゆえ、しばらくは人里を襲うこともないだろう。

 だが、“勝利”と呼ぶには得たものはあまりに少なく、払った代償はあまりに大きかった。


 二千を超える兵士が灼熱の息吹に焼かれ、百を超える騎士が爪牙に引き裂かれた。

 傷を負った炎王竜は、ねぐらである火山洞窟へ戻った。その際、この討伐のために国が用意した貴重な魔法具や聖遺物を、すべて奪い取られてしまった。


 リアナは癒し手として、尽きかけた魔力を振り絞り、討伐隊の命を繋ぎ止めた。

 だがそれも限界を迎え、気を失い、次に目覚めた時には――もう、誰一人として息をしていなかった。


 そして彼女は、ただ一人の生還者として、このふもとへ下りてきたのだ。


「ごめんなさい……わたし、やっぱり……“聖女”には、なれませんでした」


 誰にともなく告げた言葉が、草原に溶けていく。


 祖母にして初代聖女のアリスは、《聖域》によって滅びかけていたこの国を救った。

 母にして二代目聖女のリーファは、その《聖域》を王国の領土全域に広げ、民に平穏を与えた。

 偉大なる二人の背中を追い続けた自分が、何も成せずに国を衰退させている――それは悪夢そのものだった。


 もしも自分に、祖母や母のように魔物を退ける広域大結界、《聖域》を生み出す力があったなら。

 五歳の誕生日、聖女覚醒の儀式で、あの奇跡の力を授かっていたなら。


 そうすれば、街道を行く旅人が魔物におびえることはなかった。

 辺境の村が、竜に焼かれることもなかった。

 勇敢な兵士たちが、あんなにも惨たらしい死を迎えることもなかったのだ。


 けれど、与えられたのは“聖女”という名ばかり。

 神の“加護”を授からなかったリアナは、血の滲むような“努力”で抗うしかなかった。


「神さま……わたし、もう、がんばれません」


 これまで決して口にしなかった弱音が、せきを切ったように溢れ出す。

 敬虔けいけんな信仰の光は変わらず胸に宿っていても、心は砕け、生きる希望は失われ、もはや己の傷一つ癒すことができない。


 リアナはそっと胸元の銀の護符を握りしめる。

 それはこの国――エルファリア神聖王国で、最高位の神聖魔法の使い手たる証。今は亡き師、オルセム大司教から授かった、最後の心の拠り所。

 だが、それすらも今の彼女を慰めてはくれなかった。


「調和神エルセリアさま。わたしの最後の願いを、どうかお聞き届けください。

 わたしはお役目を果たせませんでした。この命、この身のすべてを、あなた様にお返しいたします。

 どうか、お願いです。この身を器として、真の聖女を――その魂を、この地へお導きください」


 特別な状況でのみ捧げる、神への祈り――“聖誓詞せいせいし”。

 リアナはひと呼吸おくと、胸の奥の恐れを封じ込め、高らかに人生最後の魔法を唱えた。


「我が祈りは、女神の救済。捧げし器にて神魂しんこんを迎えん――《コール・ゴッド》」


 それは“神話級”と謳われる第五位階魔法。

 すべての神聖魔法の頂点でありながら、大きすぎる代償のため教会法典によって禁じられた術。

 術者の肉体を器として神を降ろし、その命と引き換えに一度きりの奇跡を顕現させる、自己犠牲の術であった。


「調和を司る女神エルセリアさま。お願いします。わたしでは、駄目でした……。どうか、この世界に、“ほんとうの聖女”をください」


 言葉を紡ぐたび、命が削られていく。


「わたしの命を、この体を、全部あげるから。だから、わたしの代わりに――この世界をほんとうに救える人を……」


 死は恐ろしかったけど、涙はもう出なかった。

 希望と一緒に、とうに流し尽くしてしまったから。


 そして――祈りは、天に届いた。


 風が渦を巻き、銀の護符が神聖な光を放つ。

 天から壮麗な光の柱が降り注ぎ、リアナの小さな体を優しく包み込んだ。


「ありがとう……ございます。あとは……お願い、しますね」


 そうささやき、リアナは安らかに目を閉じた。

 もう笑うことなどできないはずの頬に、それでも確かに、解放されたような微笑みが浮かんでいた。


 彼女の魂が空へと還る、その瞬間。

 大きく、そして温かな光を放つ、もう一つの魂が――その器に、静かに降り立った。


(この国を……この世界を……そこで生きる人々を、どうか救ってください)


 聖女リアナ・アウリス・ローデリア――享年きょうねん十四。


 聖女の血筋に生まれながら、聖女の力を継げなかった不遇の少女。

 その宿命をただひたむきな努力で覆し、史上最年少で国中が認める神聖魔法の使い手となった、気高き魂。


 その祈りは、願いは、確かに受け継がれた。

 そして彼女の魂は、女神の御許みもとへと安らかに旅立っていったのだった。

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