春雨と滑る瓦と落ちる猫
ねここ
春雨と滑る瓦と落ちる猫
【春雨と濡れた瓦と落ちる猫】
深夜一時半。雨に濡れた瓦の上で、絶体絶命に陥った私は胸元でうずくまる愛猫、助六の首を強く噛んだ。助六は察したようにその身を丸め、私は体勢を維持し、目線だけをニ階の窓に向ける。遠くに見える部屋の窓、その距離約五メートル。果たして辿り着けるだろうか?
始まりは三日前。室内飼いの助六が鍵をかけ忘れた玄関を開け外に出て行ってしまったことが発端だった。よくある猫の脱走。
「あんなに愛し合っていたのになんたる仕打ち! 薄情猫! 」
恋人に浮気された挙句振られたような現実に打ちひしがれる。家では呼べばすぐくる猫も、外ではどこ吹く風、呼んでも絶対に戻ってこない。不幸中の幸いは多頭飼いしている他の猫が逃げなかったことだけだ。
助六は我が家で一番大きな雄猫で体重は八キロ。国道沿いのコンビニで保護した元野良猫だ。おそらくアメリカンショートヘアーのミックスで、性格はおっとりしている。ただ、一度脱走すると数ヶ月は帰ってこない。一度捕まった捕獲機には絶対に入らない。飼い主の心配をよそに、昼間は庭に姿を現し、夜は近所を徘徊する。そんな自由を数ヶ月間満喫し戻ってくる。薄情なことに飼い主恋しさではなく、餌を求め帰ってくるのだ。あんなに可愛がってあげていたのに、と、餌に負ける屈辱を味わう瞬間でもある。
そんな助六の逃避行はいつからか毎年春の恒例行事になっていて、今年はどれくらいで捕獲できるだろう、そんなことを母と話すのも恒例となっていた。
脱走三日目。春雨の降る夜、一階の部屋で本を読んでいると、二階の屋根瓦がカタカタと音を立てた。その陶器のぶつかり合う有機的な音を聞きながら、遠い昔、幼い頃を思い出す。
お転婆だった私は晴れた日には裸足になり、二階の部屋の窓から屋根に出る。そしてその場でしゃがみこみ、お尻をついて滑り台を滑るように釉薬の塗ってある黒い瓦の上を滑って遊んだ。その時のカタカタ音と同じ。懐かしい記憶に笑みを浮かべる。
カタカタ……ズシン!!
現実に引き戻すような音。軒に何かが落ちた。
不審に思い耳を澄ます。最近ハクビシンが出没していると近所の方から聞いたこともあり、もしやと立ち上がった時だ。
ニャーニャー、と聞き慣れた鳴き声、助六だ。
(まさか、助六が屋根から落ちた!? )
慌てて外に飛び出し懐中電灯で辺りを照らし、助六の名を呼ぶ。
ニャーニャーと、軒の上で鳴く助六がいた。三日ぶりの再会。助六は変わらず巨体だった。ただ、屋根瓦が滑るのか動けずその体を丸め力無く鳴いている。
愛猫の危機、すぐに助ける!と、私は部屋着からオーバーオールに着替え、靴下を脱ぎ、座敷で眠っている母を起こさぬよう階段を駆け上がった。助六との愛おしい日々が走馬灯のように頭を駆け巡る。可哀想に、怖かっただろう、深夜一時半の出来事だ。
二階の窓を開けるとザアザアと強めの雨が降っている。春雨が沛雨となった。まあ、どうにかなるだろうと、ベランダの手すりを乗り越え濡れた瓦に立った。少し滑るような気がし、幼い頃を思い出し雨に濡れた瓦の上にお尻をつけ、軒までゆっくりと滑り降りる。
ここまでは順調だった。ただ、お尻が濡れた事が不快だと思った程度だ。そして、助六を探すと軒の端に移動していた。降りてきた窓から約五メートル離れた場所で助六を捕まえた。幅の広い軒は継ぎ目のあるステンレス製だったため、四つん這いに進み危険はなかった。助六を捕まえた後、この巨体を持って来た道を戻るだけ。
安易に考えていた。
助六を片手で抱き上げ、瓦を登ろうとした瞬間、滑った。手に持っていた懐中電灯がカン、と瓦に当たり、ズザンっと下に落ちる。一階のプランターに落ちた懐中電灯が濡れた草を照らす。真っ暗な闇と雨の音しかしない中、浮かび上がる濡れた草に不吉な想像が頭をよぎる。
ようやく、この時点で最大のミスを犯したことに気がついた。
『屋根瓦は全てを落とすために作られている』
瓦の歴史は一千年以上前からある。その長い歴史と伝統の中、匠たちが創意工夫を凝らし、落とすための知恵の結集が今目の前にあるのだ。
屋根の角度を見てみると七寸(約三十五度)である。よく降りたと褒めたくなるが、ここを登らなくてはならない。
それでも無知とは恐ろしいものである。滑るとわかっていても、登ってしまうのだ。それも八キロの猫を連れて。
懐中電灯が無くなった今、片手で助六を抱き上げ屋根瓦に片手を乗せ上がろうとする。一度滑っても学びの無い私はまた滑る。一歩も、いや、そもそも屋根に登れない。助けを呼びたいが草木も眠る丑三つ時、雨の音で声も届かない状況。やはり命をかけて登るしかない。しかし、片手で猫を抱えて登れるほど濡れ瓦は甘くない。両手を使うしかない。
まず助六を屋根の上に乗せ、滑らないように母猫が子猫の首根っこを噛むように私は助六の首を噛んだ。妙な背徳感を感じたが、これで両手が使える。
生き延びるためには手段など選べないのだ。
私は気持ちを整え両手で瓦を掴む……と、掴む場所が無いことに気がついた。そうだった、瓦は雨から家を守る。隙間がないのだ。これぞ『隙がない』お手上げだ。
滑る上に掴む場所もない。それにこちらは巨大な猫を連れている。
けれど、負けたくない。なぜなら一千年以上の歴史に挑戦する機会を得たのだから。
精神を統一し、急いで登ることを諦めた。五分かけて一ミリ移動出来ればいつかあの窓に辿りつけるだろう。急ぐ必要はない、今私の目的は生きてあの窓にたどり着くことだ。
全く知識はないが、エベレスト最難関ルートに想いを馳せる。挑戦者はこんな気持ちになるのかもしれないと。
大きく息を吸い、雨に濡れベタベタになったオーバーオールで指先を拭い、覚悟を決め息を吐く。
もう一度助六を屋根に乗せ首を噛み壁に張り付く雨蛙のように四つん這いになり瓦の角を掴む。ほとんど掴めていないのだが、精神を統一し、自らも瓦になったイメージを浮かべ、親指と人差し指でオッケーマークを作るようにし、それで瓦の表面と側面の交わる角をつまむ。親指と人差し指の先の先約五ミリしか使わない。指の数が多くなると安定するように思えるがそれは間違いだ。多くなるほどに滑る。だから極力少ない面積でつまむ必要がある。
これぞ濡れ瓦に登る極意!
慎重に最初の一ミリをクリアする。だが、気を抜くと滑る、力を込めると滑る。その微妙な力加減を保ちとにかく堪える。口元の助六もこの状況を察し、大人しくされるがまま動かない。
動物にもこの緊迫感が伝わるのだと考えると、戦友のような気持ちになる。助六よ、共に生き延びよう!
一ミリ進み、数分バランスをとり、また進む。この三十五度の勾配は伊達じゃない。本当に命の危険を感じている。失敗すれば死ぬと私の本能が最大級の警告音を鳴らし、一瞬心に恐怖の影が見える。だが、
『生きて助六と共にあの窓にたどり着く! 』
その執念に近い気持ちが私の心を支え、
『助六の命を守りきる! 』
その思いが私を一ミリ先につき動かす。
失敗は許されない。時間はある。ゆっくり進めばいい。
ただそれだけを考え一時間半かけて雨に濡れる三十五度、五メートルを登り切った。
ベランダに手をかけた瞬間、生きてここに戻れた安心感が胸に広がる。助六を抱き上げ、部屋に投げ入れ、私もベランダの手すりを乗り越え部屋に入った。
やった!生きて帰れた!
心の底から安堵し、共に危機を乗り越えた助六をみると、命の恩人、戦友の私を横目に、部屋に置いてあったキャットフードをガリガリと貪っているではないか。
普通、人間同士ならハイタッチし抱き合っていい状況だ。だが助六は違った。彼は濡れた体を気にする様子もなく餌にありつけた喜びを爆発させていた。
「ガリッ、バリッ」
虚しい音が部屋に響く。
命をかけた飼い主の行動でさえ、あの餌には勝てないのだ。
これほどまでの屈辱を与えられるとは。
興醒めした私は、濡れたオーバーオールを脱ごうと足を上げた時、床の血溜まりに気がついた。
「!! 」
驚き足の指を見るとパックリと小指が切れている。滑った時に雨樋の金具に当たり切ったのだろうか? 記憶も痛みも一切無い。ただ、その傷は深く広く縫う案件の事態だ。それから大騒ぎし、寝ていた母が目を覚まし「救急外来! 」など騒いだが、事情を話すと唖然とした顔で「恥ずかしくて人に言えない」と、散々叱られ、結局傷用テープで傷口を固定し、我慢することにした。
究極の状態だったあの時は一切の痛みを感じることがなかったが、命の危機を脱したその後は痛みで一睡もできなかった。しかし、隣には呑気にひっくり返って爆睡する助六の姿があった。
この騒動で分かったことが三つある。
一千年をこす叡智の結集である濡れた瓦には登らない。
人間の愛はエサを超えられない。
そして、猫はやっぱり薄情である。
涙の雨の夜の出来事。
春雨と滑る瓦と落ちる猫 ねここ @nekoko-
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