3 契約

 大葉は地下駐車場に車を入れて、果てしなく縦に長いマンションを見上げた。今時こんなところに住むやつは異常者だ。しかも下層階ならまだしも最上階のペントハウスなんて、空き巣でも引くだろう。逆に言えば、安くてセキュリティに優れた広い住処。だが世間の認識で言えば、災害に弱い自殺志願者の住処。

 ひと昔前、ここは首都だった。首都直下型地震の数日後に直撃した巨大台風によって、この街は終わった。ある程度以上の年齢なら、高層ビルの窓から投げ出される人たちを映したあの日のニュース映像が脳に焼き付いているだろう。都市機能はほぼ全停止し、安全神話のあった高層ビルは脆く崩れ、首都機能の一刻も早い回復のために政治の首都は岡山へ移動した。警察庁と警視庁は東京に残り、経済の首都は大阪へ行き、皇居は京都へ戻り、日本の中枢は分裂して身を守ることとなった。

 首都移転と大量の災害関連死によって東京の人口は激減し、復興後も生き残った頑丈なマンションでさえ価値は暴落した。こんな逃げ場のない危険な建物に住まなくても、充分に土地も家も足りるようになってしまったのだ。つまり、大昔に建てられたタワマンなんかに住んでいる奴は馬鹿、という認識だ。メディアでも上層階ではなく避難しやすい下層階に住みましょう、なんて災害対策をやっている。オーナー側からすれば非常識な馬鹿でもいないと商売あがったりだろう。

 大葉は専用の直通エレベーターに乗ってひとつしかないボタンを押し、不用心に教えられたパスワードを入力した。ぐんぐん上がっていく階数に、高所恐怖症でなくとも少し気持ちの悪い気分になる。そのぐらい、今やこの国で高層階を避ける暮らしは常識だ。先日同行したこのマンションの管理人なんか、完全にしかめっ面になっていた。そんなに怖いならタワマンの管理人なんて向いていないだろうに。

 エレベーターを降りると、広いルーフバルコニーの先に一軒家のようなペントハウスが建っている。バルコニーは清掃ロボットがうろつき綺麗に管理されているが、部屋の中は高級感と言うには庶民的に見えた。

 このマンションはもっと下の階も空いているのに、何故わざわざここを選んだのかは単純に疑問ではある。

 インターホンを鳴らすと、はい、と涼やかな声で応答があった。そういえば、先日もインターホンの声はこれだったが、ナルアキ本人の声は違っていた。


『どうぞ、お入りください』


 インターホンからそう聞こえたかと思うと、玄関ドアの電子ロックが解除される音がした。遠慮なく扉を開けると、そこには静まり返った廊下があるだけで誰もいない。招かれて入っているはずなのにそんな気がしないというのは、なんとなく気味が悪いものだ。

 大葉が玄関に入り扉が閉まると、オートロックが自動で施錠する。靴を脱いで、先日よりやや気まずい気分でゆっくりと無駄に広い廊下を奥へ進んだ。いくつも扉があるが、真っ直ぐリビングへ向かう。大葉が部屋へ入ると、そこには誰もいなかった。先日のように、ローテーブルとソファの隙間で縮こまっている姿もなく、テレビ画面も消えている。大葉が眉にしわを寄せると、後ろから人の気配がした。どこか別の部屋にいたらしい。


「おはようございます」


 先日のように辛気臭い顔をした青年が小さく頭を下げた。結ばれず流したままになった長い髪が薄い肩からさらりと落ちる。如何にも寝起きだ。


「もう四時半だぞ」

「はぁ」


 早いですね、とナルアキは小さく呟いた。長袖のTシャツはオーバーサイズなのか、肩がずり落ちかけている。立っている姿は初めて見たが、思った通り背は高くない。大葉よりも頭ひとつ分ほど小さいだろうか。だが痩せているせいか細長くも見える。

 裸足をぺたぺたと鳴らしながら、ナルアキは大葉の横をすり抜けてリビングへ向かった。その道すがらに髪を結ぶ。リビングにある採光性の高そうな大きな窓はカーテンが閉じたままで室内は薄暗い。彼は先日と同じようにソファとローテーブルの間に入り込み、今度は横座りをして小さくなった。


「座ってください」


 どうぞ、とナルアキが掌をソファに向けて示す。枝のような指は、コントローラーやキーボードを操作するのに向いていそうだった。大葉はその細い手に従って、ローテーブルの角にあたる位置でソファに腰を下ろした。床に座るナルアキを自然と見下ろす位置になってしまい、なんとなく気が咎めた。


「決まったか、先生」


 先日この部屋を訪れたとき、大葉はナルアキの返事を聞かなかった。返事は後日聞かせてくれと考える時間を与えたのだ。


「その先生って何ですか?」

「俺たちは外部協力者を先生って呼ぶことが多いんだよ。慣例みたいなもんだ」

「それは、外部協力者が医師や学者などの先生と呼ぶに値する人であることが多いからでしょう。僕はそうじゃない」

「いいんだよ。俺にとっては先生で」


 で?と大葉はもう一度迫る。ナルアキは小さく頷いた。


「返事は最初から決まっています」


 大葉はナルアキを睨むように見つめた。大葉自身にそのつもりはなかったが、よく睨んでいると言われる目つきそのものだ。


「お引き受けします」


 静かに、一滴の水を落としたような声でそう言って、ナルアキはちろりと大葉を見上げた。分け目の癖があるせいか、左目だけが長く重たい前髪の隙間から僅かに見える。灰色がかった目を覆う長い睫毛が、ゆったりと瞬いた。


「本気、か?」


 引き受けるとは思っていなかった。だが、彼のひと言を疑ったわけでもなかった。それなのに、無意識に口を吐いて出たのは疑いの言葉のように聞こえた。


「えぇ。僕が本気だという証拠があります」

「証拠?」

「僕の配信を見たんでしょう?ご視聴ありがとうございました。確認してください」


 そう促され、大葉はポケットからモバイル端末を取り出した。端末を操作し、ナルアキがゲーム動画を配信していたサイトにアクセスする。ユーザーが見つかりません。


「は?」


 ね?と言わんばかりにナルアキは小首を傾げる。検索ウィンドウに彼の名を打ち込んでも、今まで出てきていたページが何も出てこない。ただ、ナルアキが消えた、と騒ぐ視聴者たちの書き込みしか見当たらない。


「消したのか?全部?」

「はい、全部。ありとあらゆる全て、SNSからオンラインゲームまで。僕が発信に使用するアカウントは完璧に消しました」


 ナルアキはこっくりと頷いた。そこまでするか?と思った。だが、それは大葉にとって願ったりなのも事実だった。守秘義務は往々にしてこういうところから崩壊する。

 外部協力者なんて、二束三文の報酬しか出ない。時間的にも労力的にも搾り取られて、正直メリットはほぼない。だから、先生と呼ばれる人種が多いのだ。医師や学者には、そこに学術研究目的というメリットが自動的にくっついて来るから。登録者四百万人近いアカウントを消し去ってまでやることじゃない。それは、ナルアキ自身もよくわかっているはずだ。ネットの世界に精通する人間は、とかく検索と吟味を好む。


「俺が言うのもなんだが、」

「はい」

「なんでそこまでする?」

「そうですね……」


 ナルアキは爪をカリカリとひっかいた。そこに付着した接着剤か塗料のようなものをこそげ落としているような仕草だった。


「あなたの信頼が欲しかったから、と言いましょうか」

「は?」

「してないでしょう?」

「出会ったばっかの人間、そこまで信用できる奴なんかいねぇだろ」

「不正アクセスしてますしね」

「やっぱやってんじゃねぇか」


 大葉はふー、と息を吐いた。今更、彼の自白があったとて逮捕に至る証拠は元々ない。それに、その技術は警察が欲しがっているそのものだ。


「わかってると思うが、」

「はい」

「あんたのメリットは少ない」

「おかしな人ですね」

「あ?」

「わざわざ逮捕状もどきを持ってまで僕を勧誘しに来たにも関わらず、あなたは僕が素直に応じることに違和感を持っているように見えます。と言うより、止めたいんでしょうか?どうして?僕にメリットがないから?あなたはそもそも外部協力者制度自体に忌避感を持っているのでは?」


 ナルアキは囁くように小さな声で、しかし流れるように喋った。いくつもの疑問符をつけていたが、その疑問に相手から答えを求めているのではなく、自分の中から解決を導くための自問自答、即ちただの思考の発露のようだった。頭のいい人間が自分自身の思考の速さに追いつけなくなる時に整理としてこういうことをやるのを、大葉は見たことがある。

 確かにナルアキの言う通りだった。大葉は警察の外部協力者制度に忌避感がある。嫌悪感と言ってもいい。


「あなたは既成事実が欲しかっただけですか?何とか顔を合わせて打診したが断られた、その実績を解除するために、如何にも断りそうな僕を選んだ。違いますか?」


 ぎくりとした。居心地の悪いような、舐めた行動をしてそれをまんまと見透かされたような、そんな罪悪感が腹の中をうろつく。自分で彼を選んだという意識と、どうせこいつは断るだろうという思惑が同居していたのだ。


「悪かった」

「謝ってほしいわけではありません。ただ、あなたにも腹を括っていただかなければ困ります」


 これは大葉の負けだった。ナルアキというアカウントがネット上に及ぼした影響は、ネットに疎い大葉でも知っている。一度のゲーム配信で多額を稼ぎ、大規模なオンラインゲーム詐欺が発生した時には被疑者を炙り出してニュースになったことまである。今や、ナルアキがプレイしている、というだけでオンラインゲームのプレイ人口や売上が変わると言われるほどだ。ネットの生きた都市伝説と言っても過言ではない。

 そういう存在が、何の予告もなく一瞬にして消えたのだ。あらゆるネットサービス会社の株価が動くレベルだろう。本人は一切意に介していないようだが、間違いなく引き金を引いたのは大葉だった。

 大葉はふっと詰めた息を吐きだした。


「危険なこともある」

「そうですか」

「何の得にもならない。警察官でもない一般人が捜査のために駆り出され、仕事やプライベートの時間を奪われ、守秘義務を負わされる。協力金なんか学生バイトのほうがよっぽどマシなぐらいだ」


 そんな馬鹿みたいな重荷を一般人に背負わせる制度だ。場合によっては命の危険が及ぶこともある。たかが警察の人手不足のせいで、何の訓練も受けていない人間を危険に晒し、労力の提供をさせるのだ。


「それでも、あなたは僕に多少の有用性を見出したんでしょう?いえ、あなたがではなく、警察が、なのでしょうか?どちらでもいいですが」


 どちらでもいい、と言いながらナルアキはちらりと大葉を見上げた。折れそうに細い首をしている。その首から繋がる背中も、薄いTシャツでは隠し切れないほど華奢だ。大葉とは明らかに違う人種だった。もしも危険が迫った時、自分の身を自分で守れるようには到底見えない。


「あなたは、」


 ナルアキは一度言葉を切って、すっと細く息を吸い込んだ。


「あなたは、当たり前のことを当たり前だときちんと言える人のようです。それだけで充分です」


 ここへ来たのが俺でなかったら、乗ったのか?大葉は喉まで出かかったその問いを飲み込んだ。ナルアキはずっと、大葉を品定めしているように見えたから。

 彼は大葉が外部協力者制度に反発心を持っていることを理解していて、それでも乗ろうと最初から決めていて、この関係性に必要なのは信頼だと確信していたから、自分が積み上げてきたネット上のあらゆる実績を消し去ったのだ。それをいとも簡単に見えるようにやってしまう程度には、覚悟を決めている。協力者側が腹をくくっているのに、警察官側が物怖じしていてどうする。


「ただし、条件があります」

「条件?」

「僕はあなた以外、誰とも会話しません。できません。それでも構いませんか?」


 何の問題もなかった。ナルアキは見るからにコミュニケーションが得意なタイプではないし、その程度のカバーが面倒だとも思わない。こうして大葉とは会話ができるなら、その言葉を代わりに発するぐらいは容易いことだ。

 ただ、大葉には何故自分だけが許されているのかがよくわからなかったが、今はそこまで詮索して彼の気分を害するべきではないように思えた。ナルアキの提示した条件を素直に呑んで、この契約を成立させることのほうが重要だ。


「先生」


 大葉はソファを降り、フローリングに膝をついて手を差し出した。


「俺は、やっぱりあんたを先生って呼ぶよ」


 その意味を理解したように、ナルアキはこっくりと頷き、どうぞ、と言った。そして細い手で大葉の差し出した手を取った。肉付きが悪く骨ばった、真っ白い手だった。


「よろしくお願いします。シソさん」


 シソ?と大葉はその呼び方を処理するのに数瞬かかった。そして、自分の子供の頃のあだ名が青ジソからドレッシングに派生し、転じてサラダになっていたことを思い出した。子供のおふざけでよくある謎の流れだ。


「それで、引き籠りのクソガキにはオムライスを作ってくれるんですか?」

「は?」


 大葉は目を剥いた。その話は、署内の休憩所で塩谷とした話だ。一種の侮蔑ともとれる表現を含む言葉なのだから、本人の前では触れてもいない。

 するとナルアキは口元しか見えない顔で笑みを浮かべながら、自らの左手首をとんとんと指先で叩いた。大葉の腕のその位置には、誰もが当たり前に活用する時計型デバイスが嵌っている。


「ネット接続とマイクがついている端末があれば簡単ですので、お気をつけて」

「おい」

「ちなみにうちには調理器具も食材もありません」

「そうだろうとは思ってたけど」


 大葉は改めてナルアキを見た。まだ起きて数十分足らずのはずなのに、もう疲れているように見える。今起きたばかりだとは言っていたが、昼間の会話を盗聴していたぐらいだから、少なくともまともな睡眠時間は確保していないのだろう。

 むしろ飯の面倒から見てやるべきだ、と思った。ひょろりと細く不健康な青年は、捜査協力をする体力にも乏しいだろう。大葉はため息を吐いて、首の筋を解した。


「行くか」

「どこへです?」

「スーパーだよ。買い物」

「はぁ」

「あんたも来いよ」

「……どうして?」

「どうしてじゃねぇだろ。引き籠りっつったって、全く外に出ないわけじゃないだろ?」

「それはまぁ、ひとり暮らしですし必要に応じて」

「なら来い」

「でもスーパーはフィクションでしか知りません」

「マジか……」


 生活能力や生きる術から叩き込むのは、どうにも骨が折れそうだった。

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