◆第一章:“失われた声の碑”

〜悠刻の書架都市アルカーニア〜


それは、永劫の静寂を抱きしめた“時の墓標”であった。

高塔群こうとうぐんのひとつひとつが、書架であり、記憶であり、そして祈りそのものであった。

魔力を帯びた風が石造りの回廊を渡り、古文書の頁を音もなくめくっていく。

頁の間からこぼれ落ちるのは、古代語の残響。

それらが宙に浮かぶ光文字となって、塔壁を這いながら淡く脈動していた。

遠くでゴーン、ゴーンと鐘が2回鳴った。

時を告げるその音さえ、都市全体の魔術回路の一部のように、冷たくも優雅に響く。

ここでは時間が「流れる」のではなく、「書かれて」いた。

人の記憶を保管し、星々の記録を紡ぐために築かれた“知識の要塞”

そこに、二つの影がいた――


「……また、このパターンかいな。やっぱり連続してるんやな」


低く呟いたのは、霧がかった翡翠色の髪を揺らす魔族の青年。

白琥はく――古代言語解読士にして、遺物調査師団の特異解読班に所属している。

角の根元からわずかに発光する魔素が、周囲の封印術式と共鳴している。

彼が今、膝をついているのは封印文書棟の最奥。

禁呪文書や発動記録、そして破損した魔法碑が安置される、研究者以外立ち入り禁止の場所だった。

室内には無数の封蝋付きの書箱が並び、ひとつひとつが過去の災厄を封じた“記憶の棺”のようでもあった。

白琥の前に鎮座するのは、古びた石碑。

表面には複雑な螺旋模様と、ところどころ擦れた古代文字が彫り込まれている。

その構造は、かつて彼が「封呪ふうじゅの谷アラザエル」で見た禁呪遺跡と酷似していた。


「“声を喰らうもの、記憶を飲む空”……

 やっぱり、これも“あの系統・・・・”かいな」


白琥は碑文に指先を滑らせる。

ざらりとした石の感触の奥から、かすかに魔力の鼓動が伝わり、その脈動はまるで生き物のように、触れるたびに白琥の魔力に反応して強まっていく。


「つまり、また君の嫌いな“禁呪”ってやつかな?」


振り返ると、壁際に佇むのは、煌めく黄金の髪と蒼玉のような瞳を湛えた人族の青年――あきらが、片手で小さなキューブ状の遺物アーティファクトを弄んでいた。

Seed of Destiny運命の種

かつて古代文明が“運命を数式化する”ために造ったと伝わる、観測装置。

魔法を発動すれば時の運によって変わる。


「嫌いなわけやないよ。面白すぎて試したなる・・・・・・・・・・だけやで」

白琥は笑った。

その笑みは無邪気で、しかしどこか危うかった。

彼にとって禁呪とは、破滅ではなく探求の果実。

好奇心と賭け心が混ざり合うその目には、いつも理性より先に輝きが走る。

 

「ちょっと、やめとこうよ。まだ復元終わってないのに――」


あきらの声は、どこか焦りを含んでいた。

だが白琥は耳を貸さず、新しい玩具を手に入れた子供のように目を輝かせた。

その胸の奥では、未知への好奇心がじりじりと音を立てて燃え始めていた。

禁呪という言葉が、彼にとっては危険ではなく“賭けの舞台”を意味していたのだ。

彼の耳には、碑文の奥底で囁く“何か”の声が聞こえていた。

それは音ではなく、心に直接流れ込む“記憶の残響”


――わたしを……みつけて。


幻聴のような声が、一瞬脳裏をかすめた。

「……なんや、気のせいか?」

白琥は自嘲気味に呟き、碑文中央に刻まれた欠けた魔法陣に手を伸ばす。

その瞬間、空気が張り詰めた。

塔の外で吹く風が止み、光文字がふっと明滅めいめつする。

“何か”が目覚めようとしていた。

そして碑文が、脈動するように震えた・・・


「――あ、やばい。これ、発動条件整ってるよ!おい、白琥。それ以上触ったら……」


あきらの警告が、霧に溶けるように掻き消えた。

その瞬間――彼の掌にあった《Seed of Destiny》が、まるで何かに導かれるようにひとりでに回転を始めた。

カチリ、カチリと小気味よい音を刻みながら、内部の魔術スロットが淡く光を放つ。

封印の輪が解かれる音がした。

白琥はその光景を見て、笑った。


「……ほな、起動や!」


――パンッ。

乾いた破裂音が空間を裂く。

碑文が粉々に砕け、同時に部屋いっぱいに霧があふれ出した。

霧はただの水蒸気ではない。

“記憶”が粒子化した魔素――《記憶霧メモリア・ミスト》だ。


その中から、かすかな声が聞こえた。


「この街は、わたしの記憶に封じられた……どうか、忘れて……」


その声は、遠い夢の残響のように柔らかく、しかし痛みを伴っていた。

白琥の心臓が跳ねる。


「……今の、誰や?」

霧の奥を見据えるが、何も見えない。

ただ冷たい空気の中で、過去の誰かの“嘆き”だけが漂っていた。

あきらの手の中の《Seed of Destiny》が、ひとりでに回転を止めた。

そして、止まった面に刻まれた紋章が淡く光る。


出た目は、“骸骨の紫ヴァイオレット・スケルトン


「……ヴァイオレット・スケルトン?」


思わず呟いたその名は、アルカーニアでも数少ない存在――記憶を視る者。

“アニマ”を操る霊術士、 飛縁魔ひえんまの象徴だった。

静寂の中で、白琥の背筋に冷たいものが走る。

これは偶然ではない。

忘れられた街と、あの禁呪の系譜――すべてが“繋がり始めた”のだ。

白琥は霧の中で、ひとつ息を吐いた。

その吐息さえ、記憶の粉塵のように光を帯び、闇に溶けていった。

霧は、生きていた。

碑文が崩れ落ちた瞬間、室内に満ちた《記憶霧》は、まるで自ら意思を持つかのように白琥とあきらの身体を包みこんだ。


「……っ、視界が……!」


あきらが手を伸ばすが、指先は霧に溶け、形を失っていく。

目の前の景色がひとつ、またひとつと溶解し、

代わりに現れたのは“誰かの記憶”だった。


――瓦礫の街。

――蒼い月。

――そして、崩れ落ちる塔の上で祈る少女の影。


声が重なった。


「この街は、わたしの記憶に封じられた……」

「……どうか、忘れて・・・……」


その言葉が響くたびに、白琥の心臓がどくりと鳴る。

鼓動に呼応して、霧がわずかに明滅した。

そして彼の足元に、黒い影が形を取り始める。


「……見えるか、あきら。これ……記録霊メモリア・ゴーストや」


記録霊メモリア・ゴースト?まさか、碑文に宿ってたのか……?」


白琥は頷いた。

この種の存在は、古代文明期の“語りの魔術”によって記録媒体そのものに宿る。

すなわち、それは単なる情報の残滓ではなく――記憶そのものが意志を持っているということだ。

影は徐々に形を変え、やがて一冊の本の姿をとった。

煤けた革表紙、夜空の様な紺瑠璃こんるりの頁の縁。

封蝋は砕け、内部からかすかな光が漏れている。


「……“書”が、形を取った……?」


白琥は思わずその本に手を伸ばした。

けれど、指が触れた瞬間、脳裏に膨大な記憶が流れ込む。


――夜空に浮かぶ、蒼い月。

――名前を呼ぶ声。

――星が降り注ぐ都。


白琥の身体が震えた。

それは“見知らぬ記憶”のはずなのに、

どこか懐かしい痛みが胸の奥を掠めた。


「……これ、“セレストリア・・・・・・”の記録やないか?」


白琥がその名を口にした途端、あきらが顔を上げる。


「セレストリア?地図から消えた“星落の都”?まさか――」


「確証はない。せやけど、碑文の構造、霧の反応、声のパターン。

 全部、“星読み文明圏”の典型や。これ……単なる禁呪ちゃうで」


白琥は立ち上がり、魔力を展開して周囲を照らした。

霧の中には、崩れた碑文片が浮かび、まるで文字が泳ぐように漂っている。

その断片のひとつひとつに、記憶の欠片が刻まれていた。


〈願い〉、〈終焉〉、〈忘却〉、そして〈赦し〉。


「まるで……物語みたいだな」


あきらの声には、恐れと興奮が混じっていた。

あきらは《Seed of Destiny》を手の中で転がしながら、

キューブ内部の魔力回路を確認する。


「白琥、このまま解析続けるのは危険だよ。

 記憶霧の反応強度、アラザエルの禁呪の時よりも高い」


「わかっとる。でもな、今やめたら……“この声”が消えてまう気がする・・・・・・・・・


白琥の声は低く、しかし熱を帯びていた。

彼にとって、この“声”はただのデータではない。

言葉の裏に、確かに“誰か”の意志が宿っている。


「忘れて――」


再び、少女の声が響いた。

それは懇願のようで、どこか赦しを求めるようでもあった。


白琥は目を閉じた。

頭の中で、その声の波形を思い描く。

古代語、失われた音韻おんいん封呪式構造ふうじゅしきこうぞう――全ての分析を一瞬で照合し、その中心に浮かび上がった言葉を読み取る。


「“記憶封印式・ぜろの書”……これが禁呪の正式名称や」


あきらが息を呑む。


ぜろ?存在を“なかったこと”にする術式……?」


「せや。街ごと、記録ごと、歴史から消すための呪い。

 アラザエルのも同系やけど……規模が違う。

 これは、“世界の語り”を巻き戻す構造や」


白琥は呟きながら、霧の中に浮かぶ書をもう一度見た。

その本は、かすかに脈打ち、まるで彼らの会話を聞いているようだった。


――忘れて。

――見つけないで。


「……おい、白琥!これ以上は危険だ!」


あきらの叫びと同時に、キューブが暴走を始めた。

《Seed of Destiny》の内部で、数百の魔術式が同時展開し、辺りの魔力を吸い上げるように渦を巻く。


「……やばっ、同期してる!?」


白琥の指先から、碑文の残滓が閃光を放った。

瞬間、床の魔法陣が自動的に再構成され、彼らの足元に浮かび上がる。

それはまるで“鍵”を開けるような、冷たい感触だった。


「――発動条件、整った……!?」


「白琥、下がれっ!」


しかし、もう遅かった。

空間が、裂けた。

光と霧が爆ぜ、記憶の奔流が二人を飲み込む。

白琥の視界が反転し、意識が“過去”と“現在”の境界を越える。


――蒼い月。

――崩れ落ちる都。

――祈る少女の手に、一冊の書。


「この街は、わたしの記憶に封じられた……」


彼は見た。

あの声の主――“少女”が、自らの命を封印の書に捧げる瞬間を。

そして、すべてが光に溶けた。

白琥の耳に、遠くであきらの叫びが響いた。


「白琥――戻れッ!」


だが、白琥はもう、霧の向こうへと沈み始めていた。

その瞳に映るのは、滅びゆく都と、少女の微笑み。

――忘却の呪いは、今、再び目覚めようとしていた。


◆◆


静謐せいひつの塔カディス〜


風が止まった。

静謐の塔カディス――

古代よりアルカーニアを見守る、知識と記憶の塔。

夜ごと、その頂には星々の反射が降り注ぎ、

空間のひずみが淡い光の糸として流れていた。

塔の最上層、天文図書室。

そこにひとりの青年が、深い瞑想の中にあった。


淡い琥珀の髪、翡翠の瞳。

その身に宿す獅子の血は、彼の気配を静かに引き締めていた。


飛縁魔ひえんま

記憶術理学府レヴナント・アルケイオン》に籍を置く“追憶観測者”。

彼の職務は、世界各地で発生する“記憶干渉”を検知し、

時空の歪みを修復すること――。


――そして、今まさにその異常が起きた。


天井の星図が微かに揺れ、

彼の足元に描かれた魔法陣が青紫の光を帯び始める。


「……反応値、急上昇。座標は――アルカーニア中層、封印文書棟?」


彼は即座に魔術端末を展開した。

虚空に幾層もの術式円が浮かび、魔力の流れを可視化する。

光の線が束ねられ、ひとつの点へと収束した。


その中心に、かすかな“声”が混じっていた。


「この街は、わたしの記憶に封じられた……どうか、忘れて・・・……」


飛縁魔の耳が震える。

その声は、遠い夢の底で何度も聞いた“誰か”の声に似ていた。


「……また、あの夢か」


彼は目を閉じる。

まぶたの裏には、崩れ落ちる都と、青白い月が映る。

そして、その中心に佇む“少女の影”


「記憶の封印……いや、これは“再生”の兆しだ」


その瞬間、

部屋の空気が歪んだ。


棚に並ぶ古書が勝手に開き、頁がざわめく。

文字が光に変わり、部屋中を舞い始めた。

風もないのに、紙片が渦を描く。


彼の肩口に、紫霧しむが滲む。


「……目覚めたか、ヴァイオレット」


応じるように、霧が形を取る。

魚の骨格を模した半透明のアニマ――

骸骨の紫ヴァイオレット・スケルトン


それは彼の魂のもう一つの形であり、

深層記憶を具現化した霊的存在だった。


「記憶波の起点は、やはり“封呪構造”か」


ヴァイオレットは言葉を発さない。

だが、その尾骨がひとつ鳴るたび、

飛縁魔の視界に“他者の記憶”が流れ込む。


――翡翠の髪をした魔族の青年。

――手の中で回る小さなキューブ。

――崩れ落ちる碑文と、白い霧。


「……あの魔族、また余計なことをッ!」


飛縁魔の口元に、わずかな苦笑が浮かぶ。

だが、その瞳の奥には緊張があった。


彼は塔の外へ視線を向ける。

遠く、街の輪郭が霧の中にぼんやりと浮かんでいる。

アルカーニアの書架群は今も静かだ。

だがその“静けさ”は、何かを隠している静寂だった。


「アラザエルの封呪と同系……いや、それ以上か」


呟きながら、飛縁魔は机の上の黒鉄製の鏡を手に取る。

記憶投影鏡ミメーシス・グラス

そこに浮かび上がったのは、霧に包まれた白琥の姿。


「お前……どこまで踏み込む気だ」


彼の問いに応えるように、ヴァイオレットが再び脈動する。

塔全体の魔力場が共鳴し、天井の魔法陣が緩やかに回転を始めた。


霧が室内に流れ込む。

それはアルカーニア中枢から発せられた“記憶霧”の波。

本来なら、封印塔を超えてここまで届くはずのない密度だった。


飛縁魔はすぐに結界を再調整したが、

霧の一部が突破し、ヴァイオレットの身体に吸い込まれていく。


「――ッ!?自己同期だと!?」


アニマが震え、内部から光があふれ出す。

それは記録映像ではなかった。

“誰かの最期の記憶”が、彼の精神に直接流れ込んでくる。


祈る少女。

崩れる塔。

星々の雨。

そして、“書”を抱いて微笑む顔・・・・


「……君は、誰だッ」


飛縁魔の声は震えていた。

その少女の姿を、彼はかつて見たことがあった。

夢の中で。

あるいは、もっと古い記憶の奥で。


封印主シーラ……?」


ヴァイオレットが静かに頷くように動いた。

骨の輪郭が光を帯び、部屋中に円環を描く。

その中心に“地図”が浮かび上がる。

霧の線で描かれた都市――アルカーニア。

そしてその一角、封印文書棟の下層に、

青い印が灯った。


「そこが、“声”の発信源……」


飛縁魔は立ち上がり、ジャケットを翻した。

塔の扉が音もなく開く。

夜風が吹き込み、灯火が一瞬だけ揺れる。


「――《幽霧航路ゴーストライン》を開くッ!!」


その言葉とともに、彼の足元に紫の航路が伸びる。

霧を渡る記憶の道。

それは、“過去と現在”を繋ぐ一条の縫い目。


「白琥……君がまた、禁忌の封印を開けたのなら――

 今度こそ、俺がその“記憶”を閉じるッ!!」


ヴァイオレットが尾骨を鳴らす。

音が波紋となって夜空へと消えた。

塔の外。

霧の海の向こうに、ゆらりとアルカーニアの灯りが滲む。

まるでそれが……

“忘れられた都の再生”の合図であるかのように――


◆◆


~幻火の狐市ユイノカミ~


夜が燃えていた。

霧の中に灯る無数の提灯が、まるで星屑のように街を染めている。

香の煙が通りを流れ、狐火のような光が軒先を跳ねていた。

ここはユイノカミ――幻と現が交わる街。

人と妖が等しく声を交わす唯一の市であり、“灯ノ世とものよ幻ノ世まぼろしのよが交差する継ぎ目”であった。

裏通りに、ひっそりと佇む古書店が一軒。

木札に刻まれた名は《狐猫堂こんにゃんどう

入り口には、鈴のついた暖簾が揺れている。

その奥で淡く灯る灯火が、静かに脈打つように瞬いていた。

カウンターの向こうで帳簿を繰る男が一人。

忘旗 わすはたかんばせ。

狐の面を首に下げ。

目元だけを覗かせた彼は、いつものように微笑を崩さない。


「……これは、珍しい波ですね」


彼は筆を止め、指先を空にかざした。

淡い霧が天井から降りてきて、店内の古書の背表紙を撫でていく。

一冊、また一冊と本が震え、埃を立てながら勝手に開いた。

頁から漏れ出したのは、“記憶の光”。

その光のひとつが、かんばせの頬を掠めた瞬間、

彼の紅い瞳が一瞬だけ、金色に変わった。


「……アルカーニア、ですね。封印文書棟。

 やはり、“あの子たち”が触れたか」


声は穏やかだが、その中には微かな緊張が滲む。

彼は扇子をひらりと開いた。

そこには、古びた地図――霧で描かれた世界の断片が映っている。


地図の一点が淡く光る。

記憶の波は、確かにユイノカミへと届いていた。


「記憶の流れが反転した……

 封呪が解かれれば、次は“忘却”が溢れる」


カウンターの上に、黒い狐が一匹、音もなく跳び乗った。

漆黒の毛並み。瞳は夜の灯火のように赤く輝く。

その首には、小さな鈴が揺れていた。


「主よ、呼ばれたのですか」


狐は人語を喋った。

声は低く、静かな男の声。

かんばせは頷き、扇子の先で霧の流れを指し示した。


「《忘れられた声》が再び目覚めました。

 星落の都――セレストリアの残滓。

 封印が破られ、記憶が流れ出しています」


「セレストリア……また、あの名を聞くことになるとは」


狐の尾がゆらりと揺れる。

その動きに呼応するように、棚の影から別の影が現れた。

漆のような衣をまとった、三つの影。

いずれも狐の耳を持ち、人とも獣ともつかぬ妖の姿。


「“黒狐”たちよ」


かんばせの声が低く響く。

「再び、夜を歩く時が来たようです」


沈黙ののち、ひとりが口を開いた。


「……命令を」


「アルカーニアを観測します。

 封呪の痕跡を探り、“声の主”を特定せよ。

 彼女の記憶は、この世界の均衡を崩す」


黒狐たちは無言で頷いた。

その足元に、闇の印が浮かび上がる。

記憶を渡る者だけが通る《影の回廊》

足音もなく、その姿は霧に溶けていった。

店内が再び静寂を取り戻す。

かんばせは扇子を閉じ、ひとり呟いた。


「――語り部が言っていた通り、ですね。

 “記憶の海が動く時、夢は現となり、語りは呪いに変わる”」


彼は棚の奥から一冊の古書を取り出した。

表紙には古代文字が刻まれている。

《星落ノ記録》


指先でなぞると、文字が淡く光る。

どこか遠く、塔の鐘が鳴った。

アルカーニアの方向から。

かんばせはその音に耳を澄ませ、

目を細めて微笑んだ。


「白琥、あきら、そして飛縁魔……

 あなたたちが動けば、この世界もまた語り出す。

 ――忘却と記録、その狭間で・・・・・・・・・・・


彼の声が消えると同時に、狐猫堂の灯りがふっと揺れた。

外の霧が濃くなり、街の提灯がひとつ、またひとつと消えていく。

最後の灯が消える直前――

かんばせは扇子の影に顔を隠し、静かに囁いた。


「呼ぼうか、“黒猫ノアール・ノア”たちを。

 この忘却と語りの戦争が、始まる前に――」


夜が完全に落ちた。

そして、世界は静かに、“忘却の夜明け”を迎えようとしていた。

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