水たまりの町

共創民主の会

第1話 水たまりの記者

【11月15日 伊万里市】


 朝七時半、タクシーの窓に張り付いた冷気が頬を刺した。雲一つない空に、スチームの白い息がすぐに消える。今日は「産業廃棄物処理施設設置条例」の現場取材一日目──スクラップにしてもスクープにしても、とにかく「30年間難航した廃棄物処分場計画」の行方を自分の手で紙面に刻みたい。そう思うと、胃の奥がきりきりと縮んだ。


 市役所二階の説明会場は、まだ誰もいない。冷房が効きすぎていて、金属の匂いが舌の上に残る。窓際に座り、資料を受け取った瞬間、手のひらが汗で濡れた。コピーインクの匂いと一緒に、これから一日を支配する不安がじわりと滲んだ。


 扉が開き、伊万里市役所環境課・山本智也さんが入ってきた。三十五歳というのに、目の下に隈がくっきり淀んでいる。私たち新人記者がよく陥る「理想」を、すでに何度も磨り減らされた顔だ。


「朝早くからお疲れさまです。資料、足りてますか?」


 山本さんの声は低く、喉の奥でこだましている。私はメモを開き、まず「経緯」を聞くことにした。


「計画が動き出したのは九〇年代の終わりです。県の廃棄物処理広域化の流れを受けて、黒川町黒塩地区が候補に浮上しました。ところが……」


 と、山本さんは言葉を切って、遠くを見るような目をした。


「一度、地元で火がついたら、消すのは至難の業です」


 会議室の時計が、かちりと秒を刻む。私は「反対運動」の核心を探るべく、質問を重ねた。しかし、返ってくる言葉はどれも「環境影響評価」「地下水調査」「二噁英基準」という硬い用語の羅列だった。私の原稿用紙に並ぶ文字は、まるで固く凍った水たまりのようだ。


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 昼前に説明会は終わり、私は市役所を後にした。午後の取材先へ向かうため、バスを乗り継いで商店街に入る。古びたアーケードのシャッターに、褪せた「乾杯!」のポスターが貼ってある。本田義郎会長宅は、その商店街の奥、細い路地を入ったところにあった。


 古い木造二階建て。門柱には「本田酒店」の文字が残っているが、店じまいしたのは十年以上前だという。インターホンを押すと、ゆっくりとした足音が近づいてきた。


「よう、新聞さん。遠いところ、えらいこっちゃ」


 本田会長は、74歳。白い半袖シャツに、紺の股引き姿。老眼鏡を額にずり上げながら、私を上から下まで眺めた。膝を押さえながら居間に招き入れられると、畳の部屋には古びた座卓と、孫らしき子どもの写真が飾られていた。


「条例の話ですか。ほれ、これ見てください」


 会長は、皺だらけの手でコピー束を差し出した。タイトルは『黒塩地区 環境守る会』。裏には赤インクで「NO! 産廃処理場」と書かれている。


「私はな、孫がこの川でメダカ取りたいっちゅうんです。それが、産廃の垂れ流しみたいなもんに埋もれたら、かわいそうじゃ」


 私は、ボールペンを止めた。理想の記事は「事実」と「感情」を冷静に分離できるはずだった。しかし、会長の言葉は、私の胸の奥で小さな穴を開けた。水たまりの水が、じわじわと漏れる音がする。


「条例は水たまりのようだ。小さな穴でもあれば、水は必ず漏れる。お役人は穴を塞げばいいと思うやろうけど、水は他からも漏れる。そうやって、住民の信頼は減っていく」


 私は、会長の老眼鏡がずり落ちるのを三回目に見た。金属フレームが畳に触れる音が、静かに響く。


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 予定地へは、会長の軽トラックで向かった。十分も走ると、家並みが途切れ、オオバコの群生する畦道が続く。前方に忽然と現れたのは、四方を山に囲まれたへこ地だった。コンクリートの杭が打たれ、黄色いロープが張ってある。風が吹くと、草の穂先が波打ち、まるで誰かの嘆息のようにささやいた。


「ここにですか……」


「そうです。地下水脈は豊富、風向きは市街地に向かう。専門家が言うには、万が一の時、オオバコが最初に枯れるそうです」


 私は、スマホのカメラを向けた。ファインダ越しに、空が妙に歪んで見える。シャッターを押した瞬間、風が再び吹き、草の匂いが鼻をついた。これが「現場」の匂いだと思った。しかし、原稿にどう結びつけるべきか、まだ見当がつかない。


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 編集部に戻ったのは夕方五時すぎ。パソコンの画面に、白いワードファイルが開かれている。仮タイトルは『産廃条例、住民不安』──平凡で、誰の心にも穴を開けない。先輩記者の佐藤さんが、私の背後から覗き込んだ。


「お前、今日も『理想主義者』だな。原稿、もっと刃を立てろ。感情は感情、事実は事実。読者は『速報』を買うんだぞ」


 私は、画面に向かって肩をすくめた。すると、編集長が大声で割って入った。


「水たまりより『速報』が売れる! お前の原稿に水漏れしてたら、紙面が腐るぞ!」


 笑声が上がる。私も笑った。でも、笑いながら、胸の穴から水が滴る音がした。


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 夜八時、駅前の居酒屋「かつたろう」には、地元の住民が五、六人集まっていた。ビールの泡が割れる音と、醤油焼きの匂いが入り混じる。私は、カウンター端に座り、聞き耳を立てた。


「なあ、本当に安全なんかいな。この町、もう工場が減って、若いもんは出て行くばっかりや。産廃なんか来たら、最後だべ」


「孫はどうすんだ。健康診断、どんどん高くなるし」


「新聞もテレビも、最初っから『反対』を決めつけやがる。俺らはただ、不安なんすよ」


 私は、コップの日本酒を口に含んだ。冷たい酒が喉を通ると、同時に熱いものが目尻に滲んだ。原稿の一行目を、どう書けばいいのか。誰かの「不安」を、誰かの「理想」を、紙面に並べることは、本当に正義なのか。


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 ホテルのシングルルームは、エアコンの風だけが響く。私はベッドに座り、スマホで「黒川町黒鹽地区 産業廃棄物事故」と検索した。二十年前、同県の別地域で起きた焼却灰の違法投棄。当時の新聞記事には「周辺住民、怒りの声」とだけ書かれていた。写真は無かった。名前も無かった。ただの「住民」だ。


 画面の明かりが、部屋の暗闇を青く染める。私は、自分の顔が窓ガラスに映るのを見た。そこには「報道する側」の顔も、「住民の声を伝える側」の顔も無かった。あるのは、小さな穴から水を漏らす水たまりのような、若手記者の困惑だけだった。


 枕元の時計が、十一時を告げた。締切まであと十時間。私は、ノートパソコンを開いた。真っ白な画面に、ゆっくりと文字を打つ。


『十一月十五日、伊万里市黒川町黒鹽地区――。私は今日、孫の未来を守るために反対する老人の言葉を聞いた。そして、理想と現実の狭間で、水たまりの水が小さな穴から漏れる音を聞いた。』


 カーソルが点滅する。私は、まだ答えを出せないまま、次の一行を探していた。

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