第8話 青の祈り

 ――世界が、静かにそしてゆっくりと呼吸をしている。


 朝の陽光は清廉潔白ようにどこまでも澄みわたり、校舎の窓を透きとおるように照らしていた。

 夏の終わりにしては風がやけに冷たく肌を突き刺すように吹きつける。白瀬湊は制服の学ランの袖を軽く握りしめていた。

 屋上のフェンス越しに広がる空は、記憶よりも遥かに高く、そしてどこか遠かった。


「……夢、だったのかな」


 呟いた声が吹き抜ける風にさらわれる。

 “青の丘”の出来事は、まるで夜の水底に沈んだ夢のように、現実から切り離されていた。

 けれど――胸の奥では確かに“あの夜”の残響が鳴っていた。


 ふいに背後から声がした。


「まだ、陸のこと考えてた?」


 桐島真白だった。

 相変わらず日に焼けた肌と短い髪が朝日に透けて、彼女の表情はどこか少年めいて見えた。

 湊は小さくうなずく。


「……うん。なんか、全部終わった気がしないんだ。あいつの声、まだ耳の奥で響いてる気がして」


「残響、か……」

 真白はフェンスにもたれながら空を見上げた。

「でもさ、それが“生きる”ってことじゃない? 誰かの声を忘れないこと。」


 その言葉に、湊は静かに笑った。

 真白の言葉はいつもまっすぐで、痛いほど優しかった。

 けれど、その笑顔の奥にかすかな翳りが見えた。

 彼女もまた、“青の丘”の記憶を抱えたまま現実へ戻ったのだ。


 ――そして、玲奈も。


 放課後、昇降口で彼女と再会した。

 水城玲奈は以前より少しやせて見えた。

 だが、その瞳の奥に宿る静かな光は依然として何一つ変わってはいなかった。


「……境界は、閉じたみたいね。」


 玲奈がぽつりと呟いた。

「“青の残響”の世界は、もう現実には干渉できない。あなたたちを巻き込むこともないわ。」


「じゃあ、もう二度と……あそこへは?」

 湊の問いに、玲奈は目を伏せた。


「行けないわ。でも――消えたわけじゃない。あの世界は、“祈り”として残っている。」


「祈り……?」


 玲奈は小さくうなずいた。

「黒川陸くんは、あなたたちを守るために自分を捧げた。でもその魂は、消滅じゃなくて“願い”の形になったの。青の残響は、誰かが誰かを想う気持ちが生んだ世界。だから、完全には終わらない。」


 湊の胸に、静かな痛みが広がった。

 祈り――それは、全てを手放すことではなく、繋ぎとめること。

 彼の心の奥で、あの日の光がわずかに揺らめいた。


「玲奈……あなたも、あの世界の一部だったんだね。」


 その言葉に、玲奈の肩がわずかに震えた。

「ええ。……わたしは、境界の向こうで“見届ける者”として生まれた。本当のわたしは、もうこの世にはいないの。」


 湊は息を呑んだ。

 玲奈の声が、どこか遠い波のように響く。

「だから、あなたたちと出会えたことが――わたしにとっての“奇跡”だった。」


 その瞬間、昇降口の外の風が吹いた。

 玲奈の髪が揺れ、陽の光に溶けるように一瞬きらめいた。

 その光景は、あの“青の丘”の風景に酷似していた。


 まるで、世界の裂け目からあの“祈り”が覗いているようだった。


 玲奈は微笑んだ。

「湊くん。あなたはこれから、たくさんの人に出会う。でも、その中で本当に大切な人を見失わないで。」


「玲奈……」


「わたしは、もうすぐ“向こう”へ還る。でも、陸くんの“祈り”はあなたの中で生きてる。それを忘れなければ、夜が来てもまた朝を見つけられる。」


 玲奈の声が、だんだん遠ざかっていった。

 彼女の姿が光に滲み、風の中へ溶けていく。


「玲奈! 待って――!」

 湊は思わず手を伸ばした。

 だが、その指先は空を掴むだけだった。


 光が散り、静寂が戻る。

 靴の音だけが、現実に帰ってきた証のように響いた。


 その夜、湊は眠れなかった。

 窓の外には淡い月が浮かび、薄い雲を透かして青白く光っていた。

 ――その光の中で、ふと声がした。


 《湊。》


 陸の声だった。

 かすかに、だが確かに。


 《“青の残響”は終わりじゃない。あれは、俺たちが選んだ未来だ。だから、怖がるな。生きて、また誰かを信じろ。》


 胸の奥が熱くなった。

 涙が静かに頬を伝う。

 湊は目を閉じ、唇を動かした。


「――ありがとう。陸。」


 その一言に、夜が少しだけ明るくなった気がした。


 風がカーテンをゆらゆらと揺らし、どこか遠くの方で雀がチュンチュンと鳴いた。

 もうすぐ夜が明ける。

 空の底から、微かな青が顔を出していた。


 それはまるで、祈りそのものが光へと向かって力強くそして確実に昇っていくようだった。



#純文学 #文芸 #サスペンス #ミステリー

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