銀杏雨《いちょうあめ》――条例が降る街で

共創民主の会

第1話 雨に賭ける人間性

【2024年11月15日 私の日記】


雨だ。朝から冷たい雨が、市役所の古い窓ガラスを這い降りる。外の銀杏並木は、まだ半分が黄葉したままで、雨に打たれて足許に散らばる。今年は条例を決めきれないまま、秋が深まってしまった。


午前九時、二階の小会議室。認知症施策推進条例の素案検討会議だった。


「神戸市の事例を踏まえると、認知症による行方不明事故が起きた場合、遺族に三十万円の見舞金を給付する制度が実績あります」

佐久間課長は、スライドに「300,000」と大きく赤枠を付けた。五十歳とは思えない落ち着きで、数字の重さを丁寧に並べる。


「ただし、財源は市の一般財産から。予算規模は年間約一億二千万円を想定」

石黒副市長がメガネを押し上げた。五十八歳、私の後輩にあたるが、財政の鬼だ。

「現状のままでは、来年の均衡予算が三億オーバーする。新規の給付は、議会で修正を食らうだけだ」


私は頷いた。舌の根が乾くのを覚えた。神戸市の取り組みは全国に先駆け、尊厳を守る制度として評価されている。だが、ここは神戸ではない。人口十五万の地方都市、山城やましろ市。企業誘致もままならない。税金の落ちこぼれを拾うだけの歳入だ。


「それでも、やる」

私は言った。声が裏返らないよう意識した。

「基本法が来年一月に施行される。国は条例化を促す。先送りすれば、後手に回る」


佐久間課長が小さく息を吐いた。石黒副市長は、ノートに「1.2億」とだけ書きつけて、黙った。雨音が、ふっと高くなった気がした。


――昼すぎ、地域包括支援センター。認知症サポーター養成講座の視察だった。


講師は青木職員。三十歳そこそこ、まだ研修中だ。十人の市民を前に、色カードを配っている。

「赤いカードを持った方が『認知症のご高齢者』、青いカードの方が『ご家族』、黄色が『地域の方』です。まずは、お互いの名前を呼んでください。制度より、まず人間関係」


参加者は主婦や学生、また地元の商店主らしい紺野こんのさんも混じる。青木は、赤いカードの女性に屈み込んだ。

「お名前、覚えていらっしゃいますか?」

女性は口をへの字に結び、小さく首を振る。覚えていない、ではない。思い出せない、という仕草だった。


私は後ろの壁にもたれ、息を殺した。母の顔が浮かぶ。認知症と診断されてから、玄関に置き忘れる物が増えた。財布、ハンカチ、時には私の写真。死ぬ半年前、最後に置いていったのは、私の幼い頃のランドセルだった。汚れて、ほつれて、それでも彼女にとって「大切な何か」だったのだろう。


「市長、どうぞご挨拶を」

青木に声をかけられ、私は前に出た。咳を払い、マイクを握る。

「本日は、皆さんの優しさに感謝します。条例は、制度の枠組みを作るものですが、真に必要なのは、そうした優しさの輪を広げること。ぜひ、まちの応援団として、サポーターになってください」


言葉は滑らかに出た。公人としての顔が、自然に重なる。拍手が起こる。私は微笑み、頭を下げた。誰も知らない。私の胸の奥で、雨音がこだましていることに。


――午後三時、高齢者施設「銀杏の里」ホール。市民説明会。


椅子は百脚並べたが、半分も埋まらない。壁には先週の「秋の灯篭流し」の写真が飾られ、オレンジの灯りが並ぶ。私は壇上に立ち、パネルで条例案を説明した。


「見舞金三十万円は、事故が起きた後の支援に留まりません。早期発見、見守りネットワークの強化、家族の相談体制――これらを一体的に進める財源になります」


手を挙げたのは、自治会長の本田ほんだ義郎だった。七十四歳、元町工場の職長だと聞く。背筋は鋼のように伸びている。

「市長、わしには子どもがいない。認知症にもならないつもりだ。なんでわしの税金を、他人の家族に回すんだ!」

声がホールを震わせた。何人かが、小さく頷いた。


私は、マイクにへばりつかないよう気をつけながら答えた。

「本田さん、ご心配はよくわかります。しかし、認知症は誰にでも起こり得る病気です。今日はご無理でも、明日はご家族、あるいはご自身が――」

「違う!」

本田さんは、杖をつかなかったが、音がしそうな勢いで立ち上がった。

「わしはな、働いた分だけをもらう。それが正義だ。見舞金だの給付だの、甘やかせば、家族も面倒を見なくなる。道徳の退化だ!」


会場が、ざわめいた。主婦の川村かわむらさんが、手を震わせながら発言を求めた。五十歳前後、エプロン姿だ。

「うちの義父が、去年、徘徊中に川に落ちて……。遺体で見つかりました。三十万円があれば、どうだったか。でも、そんなお金より、なんでうちが納税しなあかんの、って思います。家族が支えるのに、税金を使うのは、おかしい……」

言葉の途中から、涙が頬を伝った。袖で拭おうとして、エプロンの胸を濡らす。


私は、壇上から降りようとした。だが、足がすくんだ。母の顔が、重なる。母が川に落ちたわけではない。寝たきりの末、肺炎で逝った。だが、徘徊の恐怖は、私も知っている。夜中に家を出て、裸足で公園をさまよい、警察に保護されたこともあった。あの時、誰かが優しげに見守ってくれていたら、母は少し、安心して眠れたかもしれない。


「川村さん、本田さん、ご意見、痛み入ります」

私は、頭を下げた。政治家としての癖で、次の言葉を探す。だが、胸の奥で、雨音が高まるだけだった。


説明会は、解散の時間を十五分過ぎて終わった。参加者は、帰り際、私に軽く会釈するだけだった。誰も、満足していない。私も、また、だ。


――夜、自宅の書斎。


雨は、いっこうに止む気配がない。カーテン越しに、銀杏の葉が街灯に照らされて、金色に濡れて見える。私は、机に母の遺影を置いた。白黒の写真、六十三歳で撮ったもの。眼尻の皺が、優しげに下がっている。


「母さん、どうすれば良かった?」

独り言は、すぐに宙に溶けた。神戸市の三十万円。予算書の一億二千万円。石黒の苦渋の表情。本田さんの怒声。川村さんの涙。どれも、正しい。どれも、私の胸を裂く。


母の玄関に積もった忘れ物。ランドセル、財布、私の写真。彼女にとって、記憶は風化するほど、愛おしかったのだろう。制度は、それを拾い集めることはできない。だが、拾い集める「意思表示」はできる。


私は、ペンを取った。議会の討論原稿用紙に、一字ずつ書く。

「本条例は、市民の尊厳を守るものである。同時に、私たちが誰も取り残されないという、まちの人間性を賭けるものである」


雨音が、少しずつ遠のいていく。明日、議場では、与党も野党も、修正もたくさん出すだろう。三十万円が二十万円になり、あるいは支給要件が厳しくなる。それでも、私は賛成票を投じる。不正解かもしれない。だが、この街の「人間性」を、賭ける他にない。


私は、遺影に手を合わせた。母は、笑っているだけだ。


――最後の一行を、私は呟いた。


「明日、議会で賛成票を投じる。たとえ不正解でも、この街の『人間性』を賭ける」

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