見返り

 見返りを要求されるとは思っていなかった。けれど、よく考えれば当然のことかもしれない。自分の望みだけを聞き入れてもらえるなんて、都合がよすぎる話だ。


 タナトスは微笑んでいた。けれどその瞳の奥には、隠しようのない熱がある。冷たくも、焦げるように。由佳の胸の奥を刺すように。

 由佳は一呼吸置いてから、ゆっくりと口を開いた。


「……そうですね。何でもひとつだけ、タナトス様の望み通りのことをします」


 声が震えないように、冷めかけた紅茶を一口含む。

 自分にしては大胆な提案だと思う。でもこのくらい言えば、本気だと伝わるだろう。何より、タナトスほど誠実な人なら、きっと変なことは求めないはず。


 タナトスはゆっくりと頷いた。納得したように目を伏せ、口の端をほんの少し上げる。


「約束ですよ」


 それは笑みというより、印のようだった。たった一言で、空気がひりつく。笑っているのに、息が詰まるほどの緊張感が広がっていく。

 彼は組んでいた足をほどき、姿勢を正すと、視線をヴィオラへ移した。


「ヴィオラ嬢。俺と舞踏会へ行っていただけますか?」


「は、はいっ! わたくしでよろしければ……ぜひ、よろしくお願いいたしますわ!」


 ヴィオラは目を白黒させながら、勢いよく返事をした。顔を真っ赤に染め、両手を胸に添えたまま俯く。タナトスはそんな彼女を優しい目で見つめていた。

 穏やかなはずの空気に、薄氷のような軋みが混じっている。


 ──なんだろう、この感じ。

 上手くいったはずなのに、何かを取りこぼしたような……


「──パシテア」


 名を呼ばれて、由佳は顔を上げた。タナトスは真っ直ぐに由佳を見つめている。どこまでも静かで、逃げ場のない深い瞳。


「舞踏会の夜を楽しみにしています。決して、約束を忘れないように」


 抑揚のない声だった。ヴィオラではなく、パシテアに向けて、釘を刺すように。

 由佳の喉がかすかに鳴った。冷めた紅茶からはもう香りがしない。胸の奥を、ざらりとした不安が塗りつぶしていった。



 *



「あぁ、やっと息ができるようだわ!」


 タナトスとの交渉を終えた二人は、図書館のすぐ脇に広がる庭園へ出ていた。夕暮れの冷たい空気が頬を撫でる。ヴィオラは疲れを払い落とすように、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。


「わたくしったらダメね。憧れの方を前にすると、何も言葉にできないんですもの。レイス公爵家の令嬢として恥ずかしいわ」


 安堵するヴィオラに由佳は身を寄せる。


「実は私も緊張してたの。上手くいったのはヴィオラのおかげだよ、ありがとう」


「お礼を言いたいのはこちらよ。ティアのおかげでタナトス様とパートナーになれたんですもの。あぁ、幸せだわ……」


 二人は緊張から解放され、夕暮れの空気の中でほっと笑い合った。

 これで舞踏会の準備は整った。あとは無事に終えるだけ。きっと上手くいく。由佳は胸の奥に小さな達成感と、穏やかな温もりを感じていた。


「……ねぇ、ティア。聞いてもいいかしら?」


 ヴィオラがふと、顔を上げた。 悪役令嬢らしからぬ素朴でまっすぐな瞳。由佳は少し首をかしげ、彼女の方へ向き直る。


「タナトス様はやっぱり素敵な方だったわ。それに、トキオ様だってティアのことを大事に想ってくださるじゃない。だからこそ、不思議なの。ねぇティア……どうして、恋愛が恐ろしいの?」


 純粋な疑問だった。


 ――どうして恋愛が恐ろしいの?


 その言葉が、穏やかだった由佳の心臓にひやりと触れた。由佳はあからさまに動揺してしまう。


 落ち着け。大丈夫。ヴィオラは良い子だ。

 でも、だからこそ。

 どう話せばいいのかが解らない。守られ、愛されて育った令嬢に、自分についてどこまで見せればいいだろう。


 過去が頭の中に浮かんでは消えていく。

 恐れも不安も後悔も、廻るように、何もかも。


「やっぱり答えにくいのね……変なことを聞いてしまったわ。どうぞ、忘れて」


 無言の由佳を察して、ヴィオラはそっと目を伏せた。失言だった、と自分を責める眼差し。優しい友達の悲しそうな顔が、由佳の胸を締め付ける。

 あぁもう、この感じがどうしても駄目。やめて、そんな顔をしないでヴィオラ……お願い。


「違うの、そうじゃないの。ヴィオラが悪いんじゃなくて、私が上手く言えないだけなの、でも、だから、ね……」


 由佳は視線を逸らし、庭園に咲く秋薔薇の濃い赤を見つめた。それはヴィオラの髪と同じ、燃えるような深紅。冷えた心がその色に包まれていく錯覚に、少しだけ酔う。


「……聞いてくれる?」


 由佳の不安げな問いかけを受けると、ヴィオラはふっと笑った。自信にあふれたいつもの顔で、長い髪をさらりと払う。優雅に、どこまでも貴族的に。


「もちろんよ」


  “お任せなさい”とでも言いたげな、力強い眼差しだった。

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【休載】令嬢転生したら一人だけ同級生がいる! 浅水シマ @Asamizu_shima

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