放課後の二人だけの世界

伝福 翠人

秘密の始まり

岡田悠真と沢村葵が、クラスメートという関係以上の何かになったのは、何の変哲もない、ありふれた放課後だった。


きっかけは、図書室で見つけた一冊の文庫本。葵がずっと探していた、人気の恋愛小説だった。最後の一冊が、書架の端にひっそりと戻されているのを偶然見つけたのだ。おそらく、前に借りた生徒が返却ボックスに入れ忘れ、慌ててこっそり棚に戻したのかもしれない。そんな想像をしながら、葵は幸運に胸を躍らせ、その本を手に取った。


――その、はずだった。


同時に、反対側から伸びてきた手が、その文庫本に触れた。白くて、骨張った、男の子の手。驚いて顔を上げると、そこにいたのは、隣の理系クラスの岡田悠真だった。


「あ……」


黒髪に、少し長めの前髪。普段は猫背気味で、クラスでも目立つ方ではないけれど、整った顔立ちをしていることは、女子の間では有名だった。葵とは、廊下ですれ違えば会釈する程度の、ほとんど接点のない相手。


「……ごめん」


彼は気まずそうに言うと、すぐに手を引っ込めた。


「ううん、こっちこそ。どうぞ」


葵が本を差し出すと、彼は少し驚いたように目を見開いた。


「いいの? お前も、これ読みたかったんだろ」


「うん。でも、急いでないから」


「……そっか。じゃあ、ありがたく借りる。すぐ読むから、読み終わったらお前に回すよ」


「え、いいの?」


「俺が言い出したことだし」


そう言って、彼は少しだけ口角を上げて笑った。普段のクールな印象とは違う、優しい笑顔だった。葵の心臓が、小さく、とくん、と音を立てた。


それから数日後、悠真は約束通り、葵のクラスまで本を届けに来てくれた。その日から、二人の間には、これまでなかった奇妙な繋がりが生まれた。図書室で会えば少しだけ話をするようになり、お互いの好きな作家や映画の話で、思った以上に盛り上がった。


そして、あの日から二週間後の放課後。悠真に「少し話がある」と呼び出されたのは、校舎裏の人けのない場所だった。


「沢村さん」


いつになく真剣な声で名前を呼ばれ、葵はゴクリと唾を飲んだ。


「俺と、付き合ってほしい」


真っ直ぐな告白。彼の瞳が、真剣に葵を射抜いていた。葵の頭は、一瞬で真っ白になった。彼ともっと話したい、もっと知りたいと思っていたのは事実だ。でも、「付き合う」という関係になるには、少し急すぎるような気もした。繊細で人見知りな性格が、即答することをためらわせる。


「……あの、」


戸惑いを見せる葵に、悠真は焦ったように言葉を続けた。


「悪い、急すぎたよな。でも、お前のこと、もっと知りたいって思った。……返事は、いつでもいい」


彼の誠実な態度に、葵の心は決まった。この人のことを、信じてみたい。


「……よろしくお願いします」


葵が小さな声でそう言うと、悠真は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それから、今まで見た中で一番嬉しそうに、はにかんだ。


二人の最初のデートは、その週末。隣町の小さなカフェだった。そこで、悠真から、少し変わった提案をされた。


「なあ、葵」


いつの間にか、呼び方は「沢村さん」から「葵」に変わっていた。


「俺たちのこと、学校では秘密にしないか」


「え?」


「付き合ってることがバレると、周りが色々うるさいだろ。それに……二人だけの秘密って、なんか、良くない?」


彼は、少し意地悪そうに笑った。その表情に、彼の「独占欲」の片鱗が見えた気がした。学校の人気者である葵を、自分だけのものにしておきたい。そんな気持ちが、透けて見えるようだった。他の男子生徒が葵と話しているのを見るだけで、悠真の表情が一瞬だけ無になることを、葵はまだ知らない。


でも、その提案は、人見知りの葵にとっても、どこか魅力的に聞こえた。


「うん、いいよ。楽しそう」


「決まりだな」


こうして、二人の、誰にも言えない秘密の恋が始まった。学校では、ただのクラスメート。でも、放課後になれば、世界で一番特別な、二人だけの関係になる。


その日から、悠真は学校で葵とすれ違っても、前よりも素っ気ない態度を取るようになった。それが少しだけ寂しくもあり、同時に、二人だけの秘密を共有しているという高揚感が、葵の胸を満たしていった。

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