第2話 自由を嫌悪し、自由に畏怖した

 一年ほど前、無機物調査員として初めてこの地に足を踏み入れたとき、まさか〈門〉のある町から車で半日もかかるとは思っていなかった。〈無法地帯〉ではない、人の住む場所でそのような不便を強いられる土地がまだ存在していたのかと驚愕した。

 到着したころにはもう天空は夜の衣をまとっており、だからこそ、出迎えにきた調教師の男のやたら馴れ馴れしい態度や「遅かったな?」というからかいの言葉にさえも、助かったという安堵を覚えたものだ。

「せっかくだし今夜どう?」

 そんな誘いもフユカの緊張をほぐすためだと思えたし、今後の基準となる初日の調査を暗闇の中でするわけにもいかない。丁寧に進めるべき大事な仕事なのだ。なにより予定になかった移動時間の長さに、フユカの腹は耐えがたい空腹を訴えていた。

「……では、是非」

 述語も目的語も抜けた、あやふやな提案。その内訳をしっかり確認しなかったことだけは、フユカの落ち度かもしれない。


 車を宿に置いてから連れてこられたのは雰囲気のある居酒屋。どうにも治安の悪い町らしく、夜の衣の隙間を縫うように如何わしい店が並ぶ道を歩かされたフユカはわずかに身を硬くしていたが、しばらくすると中央でもよく見るような繁華街が現れ、目的の店もその一角にあった。

 隠れ家的で、どこか要人御用達の匂いがする外観に思わず財布の中身を確認すると、道中でイズクと名乗った男は甘い笑みを浮かべて「足りそ?」と訊いてきた。

 遅くとも、この時点で違和感に気づくべきだったのだ。

「なに飲む? てか飲める?」

 店内はレストランというよりバーのようなカウンター席が設けられており、さらに緊張を高めたが、メニューに書かれた価格が良心的だったので、フユカは口もとを緩めた。

「せっかくなら地物をいただきたいですね」

「いいねー」

 その地にしかない料理や酒を味わうのは、好きだ。

 フユカは仕事に並々ならぬ情熱を注いでいるが、それでも女一人でやっていくには厳しいことも多いのが現地調査員。いくら仕事に没頭するのが趣味みたいなものといっても、それだけでは乗り切れない苦労もあった。

 この辺境の地でもお気に入りが見つかればいいと、隣に座ったイズクのおすすめも聞きながら注文を決めていく。


 軽くグラスをあわせ、質のよい酒精と新鮮な野の幸を使った前菜に、フユカがこの店に対する期待を高めていたそのとき。

「イズク! 今日どう――って、一足遅かったか! うわーざんねん!」

 嵐の衣がばさりと広げられたかのような、そんな勢いだった。

 呼びかけとともにイズクの背に抱きついたその女は、すぐにフユカの存在に気づいて「あちゃー」という顔をした。それでもイズクの両肩に巻きつけた腕はそのまま、「あッ」と思いつきの声をあげる。

「でもさ、朝まで続かないなら呼んで?」

「暇人かよ」

「イズク限定だよ」

「へー」

 どうなの? となにかの答えを急かす女の顔は、よく見ると少女のようなあどけなさを残していた。下手するとイズクと親子ほどの年齢差がある。イズクは大柄で、座面の高い椅子の上では頭の位置が女とさして変わらない。そのことがより親子感を増している気がする。もっとも、小柄なフユカが立ったところで、結果は変わらない……むしろ届くことすらなさそうだが。

 そのようなことを考えていたから、フユカの判断力はいつになく鈍っていたのかもしれない。

「初めてだから相性わかんねぇんだよなー。どうする?」

 若い女の腕を両肩に巻きつけたイズクは、形容しがたい違和感をフユカの頭に植えつけながら、再びあやふやな問いかけを寄越してきた。

「どうするって……え?」

 なにかがずれていると感じつつ、「朝まで」の言葉に引っかかっていたフユカは、「明日も仕事なので……」と当たり障りのない返事をする。それからすぐ、早口でこう付け足した。

「あの、あくまでわたしが。お恥ずかしいことに次の日に響きやすくて……早めに切りあげるようにしているんです。宿には一人で戻れますし。お知り合いのかたがいらっしゃるならわたしのことは気になさらないでください」

 冗長ではあるが、最初の言いかたではイズクの行動に余計な口を出したように捉えられかねない。〈連邦〉の各地を飛び回りさまざまな人間と仕事をしてきたフユカは、揉め事を回避する術を心得ていた。とくに男女関係が絡むとろくなことがない。杞憂とわかっていても、こういった場では即、線を引くことにしている。

 しかし、辺境の地を拠点とするこの調教師は、フユカの想像の斜め上をいく。

「あ。自分が寝るとこですんの嫌なひと?」

「え?」

「まー俺もだし、わかんだけどさ。そういう連れ込み宿っつーの? この町、ねェんだわ」

「え? は……え?」

 確実に話がすれ違っている、どころの話ではない。しかしまさか、と考えているうちに、まだそこにいた女が口を開く。決定的な言葉で。

「うちでしてもいーよ? お姉さん性欲ありそうだし、盛りあがるタイプっぽい。あたしはもう少しこの辺で遊んでくからさ。はい、鍵。なくさないでね?」

 事情を完ぺきに理解したフユカは、わなわなと立ち上がる。へらりと笑う男は気づいたようで気づいていなかった。すぐにでも向かおうとしていると勘違いすらしていたかもしれない。

「まじ? 助かるー」

 フユカの表情など、見てもいなかったのだから。

 ――ぱん!

 平手が見事にイズクの左頬を捉える。

 軽装銃のごとき破裂音は、周囲の客が気に留めない程度に小さな音量。

 それでも三人のあいだに流れる空気はたしかにとまった。

 初対面の、それも自身の昇進がかかった仕事相手に対して手を上げてしまったことを、しかしフユカはつゆほどの後悔もせず、涼しげな目もとを怒りに震わせていた。

 叩かれた頬にゆっくり触れながら、イズクは自分を睨むフユカを見下ろす。

 思いもよらぬことが起きたという表情だ。そのことが余計にフユカを苛立たせ、彼女の瞳は熱した鉄のような色を帯びた。

「知識欲に負けて倫理観を捨てがちな調査員はたしかにいますが、全員が全員、枕営業をしているわけではありません。……わたしがこちらに滞在するあいだは、その認識を改めていただくことを要求するわ」


 翌日。

 幸いなことに宿から飼育場までの地図は事前入手していたので、昨晩の忌々しい調教師へ連絡せずに済んだ。どうせすぐ会う羽目にはなるのだが、このタイミングで「道を尋ねる」といった借りを作るような真似はしたくなかった。

 夜明け前に起床したフユカは、勇み足で天空の更衣をかきわけ、愛車に乗り込み石たちの楽園へと赴く。

 これが重要な仕事と理解していながらイズクがあの女と朝まで快楽に耽ったのなら、重役出勤してくる彼に苦情の一つくらい言ってやろうという思いだった。

 暗澹とした山林の悪路を――どのくらい登っただろうか、ふいに光の筋が差し込み、直後に視界がひらけた。

 それを目にして、思わず感嘆のため息が溢れる。

 車から降りたフユカを迎えたのは、訓練された石たちの敬礼でも、フユカの持つ色に反応した賛美でもなかったのだ。

 石が、のびのびとしている。

 最初に浮かんだのはそのような感想で、それから、気持ちよさそうにあくびをする朝方の喜びや、明色をまといだした天空と戯れる安らぎ、それから興味津々といったようすで見知らぬ訪問者を迎える白斑の石たちの姿に、得がたい幸福を感じる。

 そう、こういうのを求めていた。彼らはここで、雁字搦めになってを教え込まれているわけではない。

 ここでようやく調査員としての真の業務を遂行できると、フユカはうち震えた。

 飼育中の石を囲う柵がないのだと、この理想的な自由さを感じる要因に気づいたのは、永遠に続くと思われた夢心地の隙間に、人の気配を察したからだ。

 心を現実に戻したフユカは、この飼育場がこれからしばらくの調査対象となる職場であり、その管理者が奔放な調教師であることを思い出す。


 積みあがった石の山の頂上には、この美しい世界に君臨した支配者のごとく、男が一人、鎮座していた。

 天空がなびかせる紅の装いに包まれて、昨日はくすんで見えた金髪は淡い暖色に染まっている。こちらに向けた背が語るのは深い慈しみの情。やわらかく石を撫でるその姿は、フユカに畏怖の念を抱かせた。

 絵画的で、あまりの荘厳さに気後れしたフユカが後ずさったことを、彼はいかようにして知ったのか。まさか背後に目がついているわけではあるまい。

 幕を引くようにフユカを振り返った調教師の男は、昨晩と変わらぬ甘い笑みを口もとに浮かべる。

「おはよ。早いな?」

 そんな、わざとらしい皮肉の言葉とともに。


       *


 あの朝の光景と、男の愉快そうな表情の対比を、フユカは一生忘れないだろう。

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