異世界召喚防衛機構が起動しました《改訂版》

味噌煮込みポン酢

異世界召喚防衛機構が起動しました 《改訂版》

「本当に来るのか? 異界の勇者などという存在が」


王は低くつぶやいた。疑念というより、長い年月の儀礼を前にした畏れのような声音だった。


姫は金糸の扇をゆるやかに開き、落ち着き払った声で答える。


「ご安心ください、陛下。過去に召喚された勇者様は、性別も年齢も問わず、この世界へ来たときに素晴らしい力を授かったと、古き記録には記されています。

 それは神々の定めた手順であり、歴史のたびに繰り返されてきた約束なのです」


王は小さく頷き、沈黙ののち、重々しく命じた。


「よかろう。では、始めよ。――」



――鐘が七度、鳴った。



大理石の床に描かれた魔法陣は聖なる光で満ち、空気は香の甘さでむせ返る。王は階段上の玉座から人々のざわめきを見下ろし、金髪の姫は袖に隠した指先でほくそ笑んだ。騎士たちの甲冑は油に濡れたように鈍く、神官は虚飾めいた言葉で祝詞を連ねる。


「――勇者召喚、成就せり!」


白い光の中心に、少女が立っていた。


女子高生らしい紺色のブレザー、膝丈のスカート。造作は整っているのに、視線が引っかからない。まるで意図的に背景へと溶け込むために設計されたかのような静けさ――その存在が、ここに属していないと告げていた。


「おお、勇者よ! この世界は魔王軍の脅威に晒されている。力を貸してほしい!」


王が腕を広げる。身振りは大仰で、言葉は整っている。


少女は何も言わなかった。呼びかけにも、目の前の景色にも特別な反応を示さず、ただ静かに立っているだけだった。その沈黙が、広間の空気をわずかにざわつかせる。


姫は一歩前に出て、金糸の扇をひらりと開き、笑みを崩さぬまま口元を隠した。


「……あなただけが世界の希望です。我らの願いをお聞き届けください」


少女は周囲をぐるりと見た。天井のフレスコ、燭台、剣、礼装、祈祷――そして薄い息を吐いた。


「……ここも、同じですか」


玉座の間に、奇妙な沈黙が降りた。


王の眉間には深い皺。姫は笑みを保ちつつ、指先をぎゅっと握り込む。


最初に破裂したのは騎士の怒鳴り声だった。


「無礼者! 陛下に向かってその口は――!」


踏み込んだ騎士の銀の剣先が、少女の喉許に伸びる。


少女は左手を軽く上げた。


剣先が触れる寸前、彼女の人差し指と親指が刃を摘み、音もなく止める。


驚愕の表情を浮かべた騎士が、気を取り直し渾身の力で押し込む。


少女は目線すら動かさず、爪先で小枝を折るみたいに、【ポキリ】と刃を折った。


乾いた金属片が床で跳ねる。


騎士の頬が怒りで朱に染まる。


「貴様ぁ!」


叫ぶより早く、横薙ぎの一閃が走った。折れてもなお鋭い刃が、制服の肩口を斜めに走った。


衝撃は確かに彼女の肉体を叩いた。だが、それだけだった。


――刃は布を揺らしただけで、傷一つつかない。


少女は肩を払う仕草すらしない。


「その程度で殺せる存在を呼んだつもりなら、そもそも召喚なんてしない方がよかったですね。コストに見合っていません」


姫の目がわずかに細くなる。


王は威厳を取り戻そうと、喉の深いところで声を整えた。


「我らは勇者に願っているのだ。共に歩んでほしい。世界は滅亡の淵にある――」


「【自国拡大】のための徴発戦力として、ですよね?」


少女は、光沢ある床に映る王の姿を眺め、鏡像に話しかけるような調子で続けた。


「帰還という鎖も握れる。――帰さないという脅しは、最も安価で強力です。功は召喚主の手柄に、失は【異世界の者】の責に――便利ですよね、他所から連れてきた手駒は」


神官の口から祝詞が消える。


姫は笑みを切り紙のように保ったまま、ほんの僅かに身構えた。


「――あなたは勘違いしているわ」


声は落ち着き払っていて、なおかつ熱を帯びていた。姫はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「これはただの戦略ではありません。――わたしたちは歴史の末端に立っている。数百年を超える戦いの果てに、王国が滅ぶか、世界が救われるか――その岐路です。異界の力を借りるのは、最初から神々が定めた手順なのです」


少女は首を傾げる。


「手順、ですか」


「ええ。正義に形などありません。血で書かれた歴史こそがそれを証明します。召喚が誘拐? 強制? その程度で揺らぐなら、我々の築いてきた文明はとうに崩れているでしょう」


姫はゆるやかに扇を閉じ、胸元の前で指を組んだ。


「国とは、人の願いの総和です。我々はその願いを現実に変える手足であり、異界の力もその一部にすぎません。救済とは、そうやってしか成し遂げられないのです」


少女は首をわずかに傾げた。


「理屈は伺いました。結論から言いましょう。――他世界を巻き込むこの世界は、迷惑なので、【消去】させていただきます」


言葉の最後の音が空気に溶けるのと同時に、床の紋がほどけた。

石が粉になるのでも、炎に燃えるのでもない。

元々存在しなかったかのように、粒子へとほどけていく。


騎士の甲冑が、関節から順に白い粒となり、空中で消滅した。

神官の手の聖典の文字は、一文字ずつ光点に変わって舞い上がる。

王の口が命令を形にしようと開く直前、その王家の蒼のマントが、襞のひとつまで丁寧に分解され、王自身もまた、声を残すことなく光へ還った。


「陛下――!」


声をかけたものも消滅し、姫だけが、残った。

彼女の足元も、もはや床ではない。ただの【無】が、彼女の足をかろうじて支えているふりをしていた。


「待って、話は――」


少女は姫の瞳孔に映る自分の小さな姿を見やった。


「あなたが黒幕ですね。召喚を政策に組み込み、ただの誘拐を勇者召喚という宗教儀礼で包装した。上出来です。――あなたたちの都合だけで見れば、ですが。」


姫は少し表情をこわばらせたが、笑みを崩さない。


「救済に形は求めません。誰が何を言おうと、結果が全てです。あなたのような者に、それが理解できるとは思いませんが――」


「あなたのような者、ですか」


少女はふっと息を笑いにした。


「よく言われます」


眼差しは少しだけ優しかった。


「確認してもらうことが三つ。

 一つ。先に手を出したのは、あなたたちです。

 二つ。これは報復です――あなた方には、文句を言う資格がありません。

 三つ。これはただの処理です」


玉座の間は、もうどこにも存在しなかった。

代わりに広がるのは、音も温度も方向もない【無】。

その【無】のうちに、ただ二つの存在――少女と姫――だけが、仮置きのカーソルのように点滅していた。


その時、【無】に光が生まれた。


眩い金色が、もうどちらかもわからなくなった天のほうから滝のように降りる。

壮麗な衣をまとい、王の冠など児戯に見える威容を湛えた存在が、まさに【顕現】した。


『止めよ』


声は、祈祷の起源みたいな重みを持って世界のない空間に響いた。

姫が安堵に膝を折る。


「神よ!」


「……この世界の神、ですか」


少女は一度だけ瞬きをした。退屈を紛らわせるみたいに指先を揺らし、髪の乱れを直すようにスカートの裾を摘まむ。

神はその間に宣告を始めていた。


『他世界の存在よ。ここは我が恩寵の地。我が名のもとに命は芽吹き、力は授けられる。神の意志を越えて振る舞うことは、許されぬ』


「連れてきたのはそちらです。」


少女は丁寧に告げる。

神の眉がわずかに動く。


『世界は、強き意志が形作るものだ! 意志弱きものは、意志強きものに従う。それが摂理!』


「摂理なら、こちらにもあります」


少女の声は、静かで、ひどく遠かった。


「私たちは、自分の世界を守るという摂理に従っているだけです。

 そしてその結果、あなたの存在理由は今、消去の過程にあります」


神は掌に光を集めた。星が生まれ、山が隆起し、海がうねり、歴史の背骨が再構成されようとする。

だが、そのすべては生まれる前に、意味を与えられる前に、粒子として拡散した。


『な、なぜだ……? 我は、この世界の――』


「【この世界】という前提は消滅しました」


少女の瞳が静かに神を射抜く。


「前提が失われれば、権能もまた行使されません。

 あなたは今、アンインストールされた後に残る、宙づりのショートカットです」


神は一歩、踏み出そうとした。

足場はない。踏み出した足は、存在の重みをかける前に光へ分解された。


『待て。誰だ、お前は何だ。何が、我が世界に――』


少女は初めて、彼を正面から見た。

その眼差しは、悲しみも怒りも携えていない。ただ、清潔だった。


「別世界の神々が設置した【対召喚防衛機構】。その実行体です。

 最近、本当に多いんですよね――異世界誘拐」


神の顔に、理解と恐怖が同時に走り、そして遅れて屈辱が続いた。


『誘拐…わが世界の他に、意味など!』


「それはこちらも同じこと」


少女は微笑った。それはやさしさに似ていたが、許しではない。


「何度も言いますが、先に始めたのはこちらではありません。勇者だの異界からの反応だの、美しい言葉で包装しても、やっていることは人さらいです。

 我々は、人さらいに対する自衛報復を講じているだけです」


神はなおも口を開こうとした。

しかし、その口が言葉を持つ口であるための定義が、削れた。

顎が、顔が、光の編み目になり、ほどけていく。


「ま、まて、私は――私の世界が、私――」


最後の音は、最後という形を与えられる前に消えた。

世界の神は、跡形もなく、いなかったことになった。


姫だけが残っていた。

彼女は、【無】に浮かぶ小舟のように、かろうじて存在しているふりを保っている。

そのふりすら、もう長くはもたない。


「理解できましたか?」


少女は静かに問い、姫の顔を見た。

姫の唇が、ようやく形を成した。


「あなたは――正義だとでも?」


「正義、ですか」


少女は一拍考え、首を横に振った。


「衛生管理です。迷惑行為の除去。

 あなた方が別世界の人間を資源として扱い、世界ごと私物化した。その結果が、これです。世界ごと責任をとってもらう。単純でしょう?」


姫の表情から、張り付いた笑みが剥がれた。

彼女は初めて、年相応の若さで、恐怖を露わにした。


「待って、私は――私は国のために――」


「国のためなら国と共に消えるべきですね」


少女は淡々と言い、指先で【無】をすくう。

掬われたはずの何もないものが、白い火花になって散った。


「ここまで定型の反応だと、少しだけ笑えます」


姫の輪郭が、肩からほどけた。

髪が、瞳が、最後に唇の形が、抵抗するように震え、光に解ける。


「私が……国……」


その名を言い切る前に、言うべき相手も、呼ぶべき世界も、彼女を支持しなくなっていた。


――静寂。


――温度のない、無色の【無】。


少女はふと立ち止まった。


どこからともなく、か細い声が届く。


「……あの、ありがとう、ございました!」


声の主は、少女と入れ替わったひとりの少女。


召喚術式が作動した瞬間、彼女には信号無視して突っ込んできたトラックに轢かれて死亡したという結果が、強制的に押し付けられた。

それは、この召喚体系が召喚される側に支払わせる代償として幾度となく用いてきたものだった。


多くの召喚体系が代償として「死」という形式を選び続けてきた理由――それは、召喚を成立させるための最も効率的な条件であると同時に、残された者たちの「探す」という思念が異界へ干渉する可能性を断つためでもあった。

魂が肉体を離れ、別の世界で肉体を再構成されるとき、異なる法則の摩擦は大きな余剰エネルギーを生み出す。それは奇跡でも祝福でもなく、単なる召喚術式の副作用だ。理由なき力を人は恐れ、そこに神の意志を見る――人々が「勇者の力」と呼んできたものは、召喚という侵入行為の過程で生じる損耗の残滓にすぎない。


しかし、介入した防衛システムはその事実を即座に検知し、召喚の代わりに救出と状況説明を行った。

その結果、彼女は今、こうして安全な場所から感謝の言葉を送っている。


「私、子供のころからの目標の学校に合格できたんです。

 新しい生活が始まって、家族と写真を撮って、友達と笑い合って―― そういう未来が、全部、なくなるなんて、絶対に嫌です。

 本当に……本当にありがとうございました」


少女は答えなかった。答える必要はなかった。


ただ、その声の向こうに未来が確かに息づいていると感じて、ほんのわずかに頬が柔らかく緩んだ気がした。


「……それだけで充分です」


「明日、入学式なんです! 頑張ります!」


声が消えるとともに、やわらかな光が、あちこちに灯る。

輪郭を持たない輝きが、少女の周りを囲んだ。数を数える意味はない。

彼らは、声のないやり取りで、何かを確認しあった。


少女は頷いた。


「はい。記録は送っておきます。今回も召喚反応検知からの介入で問題はありませんでした。

 彼らの神の権能は、予定通り【基盤世界の消滅】とともに無効化。

 例外処理は発生せず。

 召喚対象には結末は知らせずに。

 責の発生条件はありません。」


報告が終わると、少女を囲んでいた光たちは、ゆるやかに姿を変え始めた。

やがてそれらは細く、まっすぐに天へと伸びる柱となり、静かに空間へと根を下ろしていく。


それは、かつて召喚の干渉によって消滅した世界や、神々の実験で文明が崩壊した世界、あるいは「調整」と称して矯正された法則たちの残滓だった。

けれど、それらは墓標ではない。滅びた神々、終わった文明、壊れた理――一つや二つではない。無数のそれらが今はこの防衛機構の一部として編み込まれているのだ。


怨嗟も、叡智も、記録も、やがては柱となって連なり、「対召喚防衛機構」という巨大な意思を支える骨格となった。


やがて、ほとんどが構造へと還元された後も、わずかに残った光のひとつが微かに震えた。


「……承認。報告終了。次の監視へ」


少女は、【無】の中で一息つく。


眉間に影はなく、微笑みもない。ただ、疲労のない倦怠がかすかに漂う。


「……しかし、本当に増えましたね」


独り言のように、彼女は言った。


「【魔王が攻めてくるから勇者を呼ぶ】――古い時代の神話を、政策の隠れ蓑にするなんて。

 人間は賢い。そのうえ賢いふりをして他所に責任を押し出すのも上手い」


光は、静かに薄れた。


制服は、何かに耐えた跡も、光に晒された痕も、何も映していない。


最初から最後まで、ただの制服だった。


「怒っているのか、とよく訊かれます」


誰にともなく、彼女は続けた。


「違います。怒りは処理を歪める。これは感情ではなく、ただの返答です。

 ――私たちは、自分の人間を、二度とさらわせない。それだけです」


光は、完全に消えた。


【無】は、目的を失った紙の余白のように、やがて折り畳まれ、閉じた。


次の瞬間、彼女はどこでもない場所に立っていた。


それは大気の匂いを持たず、時間のきしみもない。


ただ、次の呼び声が、遠い遠い地平の向こうで、まだ生まれてもいない未来の喉で、微かに喉を鳴らしている気配だけがあった。


少女は小さく肩を回し、空を見上げるでもなく、足元を見るでもなく、ただ前に視線を置いた。


皮肉で、冷静で、どこか執務的な声が、独白の形を取る。


「……さて。次は、どこの世界が【正義】を名乗って人をさらうのでしょうね」

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