ルームメイトが推しの配信者だった。

桃神かぐら

第1話 星の音、壁の薄さ

 その夜、壁は薄く、夜はやさしかった。


 午前一時五十八分。講義のスライドはどこかに消えて、枕元のスマホだけが小さく光っている。イヤホンを片耳だけに差し込み、もう片方は外して、壁の向こう側の気配を薄く拾う。


 《星影ハル》──深夜向けの声。砂糖水みたいに薄い甘さで、喉の奥だけ温度がある。俺はこの声を、地方の高校二年の冬からずっと聴いてきた。雪かきの翌朝、ストーブの前で固まっているときも、受験前夜に自習室で眠くなったときも。


 今日も、咳払いが最初の合図だ。


「ん、……こほん。今日も来てくれて、ありがとう」


 耳に馴染んだ“こほん”。同じ瞬間、左の壁の向こうで、紙袋の端が擦れるような音がした。椅子を少し引く音。続けて──ほんの、爪の先ほどの間を置いて、“こほん”。


 俺は一度配信を止めた。部屋の空気が、急に濃くなる。壁はうっすらグレーで、石膏ボードの継ぎ目が月のクレーターみたいに四角い。べつに特別なものは何もないのに、そこだけ意味を持って見える。


 やめとけ、と思う。考えるのは。世界は広い。似た声なんていくらでもある。深夜帯のVなんて、咳払いのタイミングが被ることくらいある。そう言い聞かせて、再生を押す。


 再び、あの“いちばん好きな瞬間”が来る。


「それじゃ、今日も君の夜に、星を」


 壁の向こうでも、まったく同じ呼気で、同じ高さで、同じ言い方で。


 背中に冷たいものが走った。指先の血が引く。スマホを伏せると、画面の光が布団に吸われて消える。代わりに、心臓の音がやけに大きくなる。


 ──推しと、ルームメイトの春斗の声が、同じだ。


 “同じ”という言葉は、たぶんあまり信用できない。世界のどこかにいる誰かと、誰かの手相が似ているみたいな話で、証明が難しい。だけど、決め台詞のあの脱力、出だしで喉を一度だけ鳴らす癖。笑う直前に息が少し漏れる位置。ぜんぶ、知っている。知っている自分を、わかってしまっている。


 机に置いてる星柄のマグカップが、夜の冷気を吸ってひんやりしていた。白い陶器の、金の線で描かれた星座。配信のサムネ端にたまに映るそれと、柄の欠けの位置まで、同じだ。


 翌朝、三限に間に合う程度に目覚ましをかけ、小さなフライパンで目玉焼きを作る。油が鳴る音。黄身が中央から少しズレて落ちる。コショウを二振り。トーストが上がる音に、春斗が寝室の扉を押した。


 黒いスウェット、少しはねた前髪。眠たげでも、挨拶はぶれない。


「おはよう」

「……おはよう」


 喉飴の包みを片手で開ける癖は、いつ見ても器用だ。飴が舌に乗る瞬間に一度だけ顎が動く。俺は二人分の皿を出しながら、目線を皿の白に落として、呼吸を整える。


「今日、三限だけ?」

「うん。レポート、出さないと」

「そっか」


 会話は、いつもこんな具合だ。必要分だけで、引っかからない。ルームシェアを始めるとき紙で交わしたルールが頭の隅に浮かぶ。


 一、私物に触れない。

 二、部屋には入らない。

 三、互いの“夜”には干渉しない。


 三つ目の行が、今はやけに太字に見える。


 大学へ向かう電車の中、つり革につかまりながらタイムラインを遡る。流速の早い世界で、昨夜の切り抜きがもう複数上がっている。『ハルの“こほん”集めてみた』。勝手に編集するなよ、と思いながら、でも再生は押してしまう。寄せ集められた“こほん”が小刻みに並んで、俺の心拍もつられて速くなる。


 講義の最後で教授が冗談を言っても、笑いのタイミングが一拍遅れる。昼休み、七海に呼び止められた。


「颯太、昼」

「いいや。学食混むし」

「またコンビニ梅?」

「うん。落ち着く」


 七海は紙パックの麦茶を吸いながら、俺の顔を覗き込む。目ざとい。


「寝てない顔してる。推しが長引いた?」

「……まあ」

「ハルくん、昨日もよかったね。“星の音”拾う話」

「聞いたの?」

「当たり前。わたしの推し活、甘く見るな」


 七海はそう言って笑った。俺は笑えなくて、口角だけ動かした。胸の中に眠っている言葉を、まだ空気に触れさせたくなかった。


 帰宅は夕方。玄関で靴を揃えると、星柄のマグカップが二つ、箱のまま置かれていた。値札が付いたまま。俺は指で値札の角をなぞって、台所に持っていく。


「……買いすぎじゃない?」

 背後から足音。春斗が、いつもの調子で言う。

「割れたから、ついでに」


 声は淡々としているのに、どこか少しだけ、肩の力が抜けていた。新しいマグを流しで一度だけすすぎ、布で水気を拭いて棚にしまう。指先に陶器のひんやりが移る。


 その夜は、風が強かった。薄いカーテンが窓の内側でふわりと持ち上がる。二十四時を越え、二十五時に近づくと、壁の向こうでマイクがオンになる“ちいさな音”がした。俺はスマホを伏せ、イヤホンを外す。直接、壁ごしに聴きたかった。


 呼吸の整え方、椅子のきしみ、遠くで湯沸かしポットが“コト”と鳴る音。ぜんぶ、画面で見える音と、見えない距離で重なる。


「ん、……こほん。今日も来てくれて、ありがとう」


 声が部屋の空気を撫でる。俺は天井を見て、数を数えた。一、二、三。涙は出ない。でも、胸の真ん中がじんわり濡れるみたいに、温度だけが増える。


 配信が終わる少し前、台所で鍋に水を張り、塩ラーメンを作る。ネギを少しだけ刻んで、卵を落とす。夜の塩分は、明日の自分で払う。


「……食べる?」

 扉の向こうに向かって、声をできるだけ平らにして投げる。


 すぐに扉が少しだけ開いて、春斗が顔を出す。配信のテンションは完全に切れていて、目の奥に眠気が少しだけ溜まっている。


「いいの?」

「うん。喉、酷使してそうだし」


 テーブルにラーメンを二つ。湯気が上がる。春斗は両手で星柄のマグに白湯を持ち、口を近づけてから、そっと置いた。湯気越しの輪郭は柔らかい。俺は箸で麺を一度だけすくって、すぐ戻す。食欲より、会話のタイミングが気になっている。


「今日、停電しそうな風だね」

「ブレーカー、古いからね」

「うん」


 そこで会話が切れる。切れた先をどう繋ぐか、わからない沈黙がテーブルに落ちる。俺は自分の手の甲を見た。高校のときのバイトで、レジ袋の角が擦れて薄く残った線。たいした傷じゃないのに、こういうときだけ目につく。


 先に動いたのは春斗だった。


「……加湿器、もう一台、買おうかな」

「うん。乾燥、敵だし」

「明日、昼、電気屋」

「講義のあとなら、行ける」


 ほんの少し、目が合った。目が合うだけのことが、こんなに体温を上げるなんて、上京する前は知らなかった。


 片付けをして、シンクにマグを伏せる。水が底に丸く残って、キッチンの蛍光灯がそこに揺れる。皿を拭いていると、背中に視線が落ちた気がした。振り返ると、春斗が立っている。喉飴の包みを一つ、俺に差し出した。


「……ありがと」

「ううん」


 飴を舌に乗せる。ほんの少しミントが強い。息のとおりが良くなる。夜はさらに静かになる。


 部屋に戻ると、布団に倒れて、スマホを見ない。目を閉じると、声だけが残る。“こほん”。「それじゃ、今日も君の夜に、星を」。薄い壁。三つのルール。その三つ目が、胸の中で何度も読み上げられる。


 翌日は、小雨。大学のバス停の屋根に水が弾いて、街の音を柔らかくする。三限が終わったあと、駅前の電気屋で加湿器を見た。白、白、白。円柱、箱、球体。春斗は見た目よりスペックを見るタイプらしく、タンク容量と連続稼働時間を真面目に比べていた。俺は、静音とお手入れのしやすさを重視する。二人で同時に「これ」と指を差して、少しだけ笑う。


 帰りの袋の角が指に食い込む。マンションの階段を上る足音が重なる。扉の前で鍵が重なって、どちらかが少しだけ引く。そうやって、何度か重なり損ねる。


 設置して、コンセントを差すと、青い小さなランプが点いた。湿った空気が、喉の奥にすぐ効く。夜に強い味方。


「助かる」

「こちらこそ」


 夜、配信の時間。俺はいつもより早めにベッドに横になって、壁の向こうの“前準備の音”まで聴いた。マイクを軽く触る音。ポップガードが布に触れる音。テーブルに何かをそっと置く音。ぜんぶ、耳のなかで形になる。耳って、こんなに目になるんだな。


「ん、……こほん。今日も来てくれて、ありがとう。喉は、加湿器が味方です」


 そこで、ほんのコンマ一秒だけ、声に笑いが混じった。知らない人にはわからない、幼い頃の写真にしか写っていない種類の笑い。俺は布団の中で、拳を小さく握る。知らないふり。守るための嘘。自分で自分に言い聞かせる。


 配信の終わり際、突然、蛍光灯が一瞬だけ暗くなった。外の風がさらに強くなって、窓ガラスが鳴る。ブレーカーを疑って、俺はすぐ立ち上がる。玄関の横のボックスを開けて、指でスイッチをそっと押し直す。カチ、と音がして、部屋の明るさが戻る。壁の向こうの声は、何事もなく、最後の挨拶へ滑り込んでいった。


「それじゃ、今日も君の夜に、星を」


 息を吐く。バレてない、たぶん。電気が戻ったことなんて、視聴者は気づかない。気づいたのは、俺と、壁の向こうの彼だけ。


 数分後、廊下の板がきしむ。扉が少し開く。


「……さっき、ブレーカー?」

「うん。勝手に指が動いた」


 自分でも冗談みたいな言い方になった。春斗の口の端が、少しだけ上がる。


「ありがと」

「どういたしまして」


 それで会話は終わってもいいはずなのに、終わらなかった。春斗は廊下に立ったまま、少しだけ迷ってから、俺の部屋の敷居をつま先で軽く踏んだ。入ってはない。境界線に、ほんの先だけ触れる。


「寒い?」

「……ちょっと」

「加湿器、強める?」

「ううん」


 俺はベッドから半身を起こして、手を伸ばした。指先が空中で迷って、結局、春斗の袖口に触れる。厚手のコットンの感触。


「大丈夫?」

「うん」


 袖口のなかの手首に、脈が触れた。触れて、すぐ離した。長く触れるのは、たぶんルール違反だ。わかってる。わかってるけど、温度は移る。移ってしまう。


「……ハーブティー、淹れようか」

「白湯でいい」

「了解」


 台所で湯を沸かして、星柄のマグに注ぐ。戻ってくると、春斗は敷居のところに立ったまま、視線を落としていた。俺はマグを両手で差し出す。彼の指が重なる。熱い。指の節と節が、瞬間だけ擦れた。


「ありがと」

「どういたしまして」


 マグを持ったまま、彼は何か言い淀んで、それから短く息を吸った。


「……見てた?」

 心臓が、一度だけ大きく打つ。壁、薄い。夜、やさしい。俺は、どの“見てた”に答えるのが正しいのか一瞬考えて、首を小さく縦に振る。


「うん。……良かった」


 “ファンの名前”を、わざと出さなかった。古参です、なんて言葉で、二人の間の温度を急に変えたくなかった。近づきすぎた手を一度戻して、かわりに、ベッドの上の毛布の端を彼のほうへ滑らせる。


「寒いなら、少し座れば?」

「いや……」


 いや、のあとで、ほんの少しだけ躊躇して、春斗は部屋の境界をゆっくりまたいだ。ベッドの端に腰を下ろす。マグから湯気が上がって、二人の間に薄い白い壁を作る。俺はその壁を壊さないように、同じ速度で座る。


 距離は、拳二つ分。触れない。触れないけど、触れたときの温度が、たぶんもう知らないものじゃない。


「……ルール、あるからさ」

「うん。知ってる」


 知らないふりと、知ってるの折衷案みたいな会話。春斗は湯気の向こうでまばたきを一度だけして、喉をそっと鳴らした。配信の声より、少しだけ低い、家の声。


「でも、ありがとう。ブレーカー」

「偶然」


 偶然を、二人でうなずく。偶然にしておく。今はまだ。


 しばらく、何も喋らずに、湯気の動きを見る。窓の外で風が鳴り、部屋の中は静かで、加湿器が低く唸る。春斗がマグをテーブルに置いたあと、わずかに俺の肩に重心が寄った。ほんの、服が触れても触れなくてもいい程度の距離。俺は逃げない。逃げないけれど、追いもしない。追ってしまったら、世界の線が変わる気がしたから。


 それでも、眠気は容赦なく降りてくる。深夜の重力。春斗が少しだけ目を閉じる。首が前に落ちかけるのを、反射的に支えた。肩に、額が触れた。


 時間が、薄くのびる。


「……ごめん」

「いいよ。眠いときは、眠い」


 冬の終わりみたいな息が、シャツの襟元に触れる。俺の手は、彼の肩に添えたまま、力を入れずにいる。押さえつけない。離れもしない。迷っている手の、ちょうど中間。


 春斗がゆっくり目を上げた。距離、近い。近いけれど、逃げる選択肢は、どこにも浮かばない。彼は小さく笑って、囁く。


「……加湿器、効いてる」


 くだらない。くだらないのに、喉の奥があたたかくなる。笑い返すと、唇の端が自然に上がった。手が、もう一度だけ迷った末に、彼の指先に触れて、すぐ離れる。触れて、離れる。練習みたいな、反復の二回。


 そのまま、部屋の灯りを少しだけ落とした。暗くしすぎない。境界が見えなくなるほどは。春斗が布団の端に体重を預け、俺もゆっくり横になる。拳一つ分だった距離が、半分になる。触れない。けれど、呼吸の拍だけが、同じ速度になる。


 手の甲が、布の上で、偶然ふれた。ふれて、今度は離さない。強くは握らない。確かめるみたいに、節と節だけを合わせる。


 夜は、やさしい。壁は、薄い。ルールは、まだそこにある。越えない、ぎりぎりのところで、目を閉じる。星柄のマグが、テーブルの上で静かに冷える。


 「それじゃ、今日も君の夜に、星を」


 小さく、誰にも届かない声で、決まり文句を真似た。隣の呼吸が、一度だけ笑いのリズムに揺れて、それから眠りに落ちた。


 灯りは、そこでゆっくり暗くなる。


 ──夜は続く。けれど、線はまだ越えない。越えないかわりに、同じ布のしわと、同じ呼吸を分け合う。


(つづく)

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