第29話 神威顕現・序
カン、コン。
無機質な音が、静かな夜の旅館に響く。
プラスチック製の簡素なラケットで打ち返されたピンポン球は、俺のコートで力なく二度バウンドした。
「あー! もう一回お願いします!」
ネットの向こう側で、天宮ひなたが悔しそうに頬を膨らませる。
会社の研修旅行。その初日の夜。
湯煙立ちのぼる温泉街の一角にある、いかにも「研修向け」といった風情の大きな旅館。その娯楽室で、俺はなぜかひなたと卓球に興じていた。
夕食の大広間での宴会。当たり障りのない挨拶と、上司のどうでもいい武勇伝。それを適当にやり過ごし、さっさと部屋に引き上げて寝てしまおうと思っていた。
だが、宴会が終わってぞろぞろと廊下に出たところで、ひなたに袖を引かれたのだ。
「八木さん、この後どうします? せっかくですし、ちょっとだけ卓球しませんか?」
有無を言わさない笑顔だった。
断る理由を頭の中で検索したが、適切な言葉が見つかる前に、俺の手にはラケットが握らされていた。
東京から遠く離れたこの土地の空気は、湿り気を帯びていて重い。だが、それは決して不快なものではなかった。
むしろ、あの息の詰まるような都会の喧騒から物理的に隔離されたことが、俺の精神を奇妙なほど落ち着かせていた。
ひなたとの関係も、ぎこちないながら、ほんの少しだけマシになった気がする。
少なくとも、彼女が隣にいることに、以前のような針の筵に座らされているような息苦しさは感じなくなっていた。
「それっ!」
ひなたが打った球が、今度はあらぬ方向へ飛んでいく。コロコロと床を転がる白い球を、俺はゆっくりと拾い上げた。
「……もう、やめないか」
「えー、まだいけますよ! 八木さん、手加減しすぎです!」
「してない。これが実力だ」
「嘘だあ」
彼女は屈託なく笑う。
その笑顔を見ていると、自分がかつてどんな人間であったか、そして今も何であるか、その境界が曖昧になっていくようだった。
目立たず、誰とも関わらず、ただ平穏に日々が過ぎるのを待つそのつもりだった。
だが、この数ヶ月、ひなたという存在が俺の日常に強引に入り込んできた。
面倒だと思っていたはずが、いつの間にか、この何でもないやり取りが「失いたくないもの」に分類されかけていることに、俺自身が戸惑っていた。
束の間の平穏。
この研修旅行が終われば、またあの日常に戻る。だが、今はそれでいいと思えた。
三十分ほど汗を流し、ようやく解放された俺たちは、風呂上がりの定番を求めてロビーの自動販売機に向かった。
ひなたは迷わずコーヒー牛乳。俺は冷たい緑茶を選んだ。
「ぷはーっ。やっぱりこれですよね!」
腰に手を当てて瓶を一気に飲み干すひなたを見て、俺は小さく息を吐いた。
「おっさんみたいだぞ」
「いいんです。これが様式美ですから」
ロビーに設置された、無駄に大きな革張りのソファに二人で並んで腰掛ける。
他の社員たちは、まだ宴会の二次会で騒いでいるか、あるいはすでに部屋に戻ったのか。広いロビーには、俺たち以外に数人の一般客が談笑しているだけだった。
壁にかけられた大型テレビが、当たり障りのない旅番組を流している。
「明日って、あの面倒なグループワークからでしたっけ」
「ああ。午前中いっぱい、だったか」
「気が重いなあ。八木さんと同じグループだったらいいのに」
「俺は遠慮する。どうせ何も発言しないぞ」
「知ってます。私が八木さんの分まで喋りますから」
本当にそうしそうだから厄介だ。
俺は残りの茶を喉に流し込む。ぬるい静寂が心地よかった。このまま時間が止まってくれればいいとさえ思う。
ひなたが「あ、そういえば」と何かを言いかけた、その時だった。
ピーンポーン。
甲高いチャイムの音。
旅番組の映像が、黒い背景に赤い文字が踊る画面に切り替わった。
『緊急速報』
ロビーにいた全員の視線が、一斉にテレビへと注がれる。
緊迫した声のアナウンサーが、信じられない言葉を口にした。
「たった今、東京・新宿上空に、原因不明の、巨大な『目』のような現象が出現したとの情報が入りました。繰り返します――」
新宿。
その単語だけで、俺の背筋に冷たいものが走った。
「え……?」
ひなたが間の抜けた声を漏らす。
画面が切り替わる。新宿の高層ビル群の屋上から撮影された、夜空の映像。
それは、CGでもなければ、何かの見間違いでもなかった。
漆黒の空を引き裂いて、そこにあるはずのない「何か」が浮かんでいた。
雲が渦を巻き、その中心で、紫電が絡み合っている。
それは「目」というより、もっと禍々しい……紋章だった。
幾何学的な、しかし生物的な脈動を感じさせる、「雷の紋章」。
「な、なんだあれ……」
「映画の撮影か?」
「いや、でも、あの速報の入り方は……」
ロビーが騒然とし始める。
他の宿泊客たちがテレビの前に集まり、不安げに画面を指差している。誰もが現実感を失い、目の前の光景を理解しようと必死になっていた。
だが、俺だけは違った。
俺は、あの紋章が何であるかを、本能で理解してしまった。
あれは、人間の技術が生み出せるものではない。
あれは、神の仕業だ。
ジジッ。
映像が一瞬、ほんのわずかに乱れた。
俺の耳にだけ、ノイズが突き刺さる。
それは単なる電波障害ではなかった。強大すぎる力が、物理法則を捻じ曲げ、その余波がデジタル信号に干渉している音だった。
映像越しだというのに、肌が粟立つのを感じる。
遠く離れたこの土地まで届く、圧倒的な神気。
それは、これまで俺が遭遇したどの神とも比べ物にならない、まさしく「格」が違う力だった。
建川剣斗。タケミカヅチ。
あの男の仕業か? いや、だとしても、これはあまりにも――。
「……八木さん?」
ひなたが、不安そうな声で俺の顔を覗き込む。
時計が、まるで共鳴するかのように、鈍い熱を持っている。
「八木さん、顔が真っ青ですよ……?」
ひなたの声が遠い。
俺は彼女に何と答えることもできず、ただ画面に釘付けになっていた。
テレビの中では、雷の紋章がさらにその輝きを増し、地上で何かが起きているのか、ヘリコプターのカメラが激しく揺れ始めた。
アナウンサーの絶叫に近い声が、ロビーに響き渡る。
「あ……」
ひなたが小さく息を呑んだ。
彼女は、非現実的な映像そのものよりも、それを見つめる俺の深刻な表情に、これから始まる「何か」の予感を嗅ぎ取り、怯えている。
守らなければ。
その意識が頭をもたげるより早く、強烈な焦燥感が俺の全身を焼き尽くしていた。
終わった。
いや、始まってしまった。
俺がようやく手に入れかけた、ささやかで退屈な平穏は、今この瞬間、遠い東京の空で、あの雷によって完膚なきまでに打ち砕かれたのだ。
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