第22話 二人の距離
あの一件以来、何かが変わった。
いや、正確に言えば、俺の中の何かが変わったのだ。
姫川キラリとの戦いで消耗したはずの体力は、数日のうちに急速に回復した。それどころか、以前よりも体が軽く、頭が冴えている。
原因はわかっている。
天宮ひなた。
彼女が俺に向ける、混じり気のない「信頼」だった。
プレゼン資料の一件で彼女から流れ込んできたあの温かい力は、一度きりのものではなかった。それはまるで、俺の存在の核に繋がれたパイプラインのように、細く、しかし途切れることなく供給され続けている。
キラリが振り回していた、SNSの「いいね」やフォロワー数に由来する力とは、根本的に質が違う。
あれが瞬間的に燃え上がるガソリンだとすれば、彼女の信頼は、静かに、だが確かに熱を放ち続ける上質な炭火のようだ。
その安定した熱源が内側にあるだけで、世界は少し違って見えた。
満員電車の圧迫感も、上司の退屈な朝礼も、昨日までと同じはずなのに、どこか現実味がない。まるで、薄いガラス一枚を隔てて遠くの出来事を眺めているような、奇妙な心の平穏があった。
「……はぁ」
もちろん、面倒事が嫌いな本質は変わらない。
だが、その「面倒事」の範疇が、無意識のうちに少しずつ変化し始めていることに、俺自身はまだ気づいていなかった。
その変化は、些細なことから始まった。
「う、うーんしょ……!」
昼休み明けの午後、ひなたが営業資料の詰まった段ボール箱を抱え、よろよろとフロアを横切っていた。営業二課の連中は、自分のデスクに戻ることに夢中で誰も手を貸そうとしない。
普段の俺なら、間違いなく目をそらしていた。
(関わるな。面倒だ)
そう頭で思うより先に、俺の体が動いていた。
「……貸せ」
「へ? あ、八木先輩!?」
俺はひなたの手から段ボール箱をひったくる。ずしりとした重みが腕にかかるが、先日までの疲労感はなく、むしろ心地よい負荷にすら感じる。
「どこだ。資料室か」
「あ、はい! す、すみません、ありがとうございます!」
俺は無言で歩き出す。背後から、ひなたが小走りでついてくる。
資料室の棚に段ボールを置きながら、俺は自分の行動に内心で舌打ちしていた。
(何をやっている、俺は)
お節介など、俺の信条に反する。
「助かりました! あれ、見た目よりずっと重くて……」
「……別に。お前がそこでひっくり返して、資料をぶちまけられる方が面倒だ」
俺はそう悪態をついて、さっさと資料室を出ようとした。
その時だった。
「やっぱり、先輩は優しいですね!」
背中にかけられた言葉に、俺は思わず足を止める。
振り返ると、ひなたが屈託のない笑顔を向けていた。
その瞬間、まただ。
じんわりと、温かいものが胸の奥から湧き上がってくる。
「……勘違いするな」
俺はそれだけ言い捨て、今度こそその場を離れた。
だが、俺の神体である左手首の腕時計が、微かに、誇らしげに輝きを増したのを、俺は見逃さなかった。
それからというもの、似たようなことが続いた。
ある日は、ひなたが手こずっていたクレーム処理の電話。
俺は受話器を横から奪い取り、威圧感を声に滲ませ(もちろん、社会人として許容される範囲で)相手を黙らせた。
「お、お見事です……」と呆然とするひなたを一瞥し、「次からこう言え」と対応マニュアルを叩きつけた。
またある日は、新規クライアントへの飛び込み営業。
ひなたが担当するはずだった、業界でも特に気難しいことで有名な「明和実業」だ。
朝のミーティングでそのアポ取りに難航していると聞いた俺は、気づけば上司に「その件、俺が行きます。天宮はサポートで」と申し出ていた。
「ええっ!? 八木が自分から?」
「八木先輩、いいんですか……?」
驚く周囲の視線が鬱陶しい。
俺は「こっちの方が効率的だ」とだけ告げた。
嘘ではない。ひなた一人で行かせるより、俺が同行した方が、この厄介な案件は早く片付く。早く片付けば、俺の平穏も早く戻ってくる。
そう、合理的な判断だ。
俺は自分にそう言い聞かせた。
その日の午後、俺とひなたは、明和実業の古びた応接室で、いかにも頑固そうな購買担当部長と向き合っていた。
「……武蔵野フーズさんねぇ。悪いけど、ウチは長年の付き合いがある業者で間に合ってるんだよ」
部長は、俺たちが差し出した資料に目もくれず、そう言い放った。
ひなたが「ですが、弊社の新商品は!」と食い下がろうとするのを、俺は手で制する。
「部長。資料の2ページ目を」
「……ん?」
「そこに記載されているのは、御社の現在の仕入れ先であるA社と、弊社の食材の成分比較表です。特に、ナトリウム含有量にご注目いただきたい」
俺は淡々と、しかし確信を持って言葉を続けた。
不思議と、緊張はなかった。ひなたが隣にいる。それだけで、俺の精神は不気味なほど安定していた。思考はクリアで、相手の僅かな表情の変化から、何を求めているか手に取るようにわかる。
「……A社より20%も低いのか。だが、その分、味も落ちるんだろう」
「いいえ。我々はその課題を、独自の酵母エキスでクリアしました。こちらのサンプルをお試しいただけますか」
俺はひなたに目配せする。彼女は待ってましたとばかりに、持参したサンプルのスープを差し出した。
部長は疑わしげにそれを一口啜り……そして、目を見開いた。
「おぉ……」
結果から言えば、商談は成功だった。
即決とまではいかなかったが、「前向きに検討する」という、この部長にしては最大限の譲歩を引き出した。
会社への帰り道、ひなたは興奮冷めやらぬ様子でまくし立てていた。
「すごいです、八木先輩! まるで全部お見通しみたいでした!」
「……別に。相手が何を欲しがってるか、考えればわかることだ」
「それが難しいんじゃないですか! 私、最初からずっと緊張しちゃって……」
彼女はそこで言葉を切り、自分の頬をぺちぺちと軽く叩いた。
「いけない、いけない。私も頑張らないと」
その癖を見て、俺は思わず口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。
ひなたの存在が、俺の力と精神を安定させる。
そして、その安定した俺が彼女を助けることで、彼女の信頼がさらに深まり、俺の力はより強固になる。
それは、完璧な循環だった。
この頃から、俺たちの関係は、社内でも目に見えて変化していた。
自然と、二人でいる時間が増えた。
昼食は、いつの間にか屋上のベンチで一緒にコンビニ弁当を食べるのが習慣になっていた。
残業も、気づけばフロアには俺たち二人だけ、という日が増えていった。
当然、その変化を周囲が見逃すはずもなかった。
「なぁ、聞いた?」
「聞いた聞いた。営業二課の八木さんと天宮さん」
「やっぱり、付き合ってるらしいよ」
給湯室でコーヒーを淹れていると、そんな噂話が耳に入ってきた。
「だって、あの万年仏頂面の八木さんが、最近よく笑うようになったって」
「天宮さんの前だけらしいけどね」
「この間の飲み会も、八木さん、天宮さんがいるから来たんでしょ? なのに二次会は二人で先に帰っちゃうし」
俺は舌打ちをして、給湯室のドアをわざと大きな音を立てて開けた。
噂話をしていた女性社員たちが、ビクリと肩を震わせて散っていく。
(馬鹿馬鹿しい)
俺は自分のデスクに戻り、冷めたコーヒーをすする。
否定するのも面倒だった。
だが、その噂は、俺の心に小さな棘を刺した。
ひなたは、俺にとって特別な存在になりつつある。それは認めざるを得ない。
だが、それは恋愛などという、生温い感情ではなかった。
もっと切実で、根源的な繋がりだ。
彼女は、俺が「八木雄介」としてこの社会に立つための、精神的な支柱そのものだった。
彼女を失うことは、力を失うことと同義であり、それは俺が「怪物」に戻ることを意味する。
俺の意識は、いつしか「守るべき後輩」から、「俺の平穏のために不可欠な、特別な個人」へと、明確に変質していた。
その微妙な変化を、ひなたも感じ取っているようだった。
彼女は、以前のような無邪気な「お節介」を見せることは減り、代わりに、俺の顔色をうかがうような、どこか遠慮がちな、それでいて熱を帯びた視線を向けることが増えた。
それは、好意と呼ぶにはまだ早く、尊敬と呼ぶにはそれ以上の何かが混じった、複雑な色をしていた。
「……八木先輩」
ある日の夜、二人きりで残業を終え、オフィスビルを出た時だった。
「はい、これ」
ひなたが、自販機で買ったらしい缶コーヒーを差し出してきた。
「お疲れ様です」
「……ああ」
俺はそれを受け取る。ひなたがいつも飲む甘いカフェオレではなく、俺がいつも飲んでいるブラックだった。
そんな些細なことが、ひどくむず痒かった。
並んで夜道を歩く。
不器用な沈黙が続く。
だが、その沈黙は、もはや苦痛ではなかった。
彼女の信頼が、その温かい流れが、物理的な距離を超えて伝わってくる。
俺の力は、今、最高に満ち足りていた。
建川の脅威さえ、今の俺なら対処できるかもしれない。
そんな根拠のない自信すら湧き上がっていた。
「よぉ、お二人さん。お熱いこった」
その時、路地の暗がりから、間の抜けた声がした。
須奈だ。
いつものようにスマートフォンをいじりながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「す、須奈さん!? こんばんは!」
ひなたが驚いて挨拶する。
「うっす。ヤギっち、ちょっとツラ貸せや。そこの公園で」
「……俺は帰る」
「まあまあ、そう言わずに。アンタの『健康診断』だよ」
須奈はそう言うと、ひなたに向き直った。
「ごめんな、天宮さん。コイツ、ちょっと借りてくわ。たぶん、アンタがいないと死んじゃう病気だからさ」
「え? え? どういうことですか?」
「冗談だって。じゃあな」
須奈は俺の腕を掴み、有無を言わさず公園へと引っ張っていく。
俺はひなたに「先に帰れ」と目配せし、ため息をつきながら、この面倒な解説役に従った。
公園のベンチに座るなり、須奈はスマートフォンを俺に向けた。
「……んー、なるほどね」
「何がだ」
「アンタの神気、めちゃくちゃ安定してるわ。前みたいにトゲトゲしてない。丸い。……てか、質が良すぎだろ、これ」
須奈は感心したように呟き、スマホをポケットにしまった。
「あんだけSNSでバズらせようと苦労したのが馬鹿みたいだな。アンタ、とんでもない『優良物件』見つけたもんだ」
「……何が言いたい」
「別にぃ? 効率的なのはいいことだ。LFP……あー、いいねとかの薄っぺらい信仰を何百万人から集めるより、天宮さん一人からのクソ重たい信頼……DFPっつったっけ? ま、そっちの方が、よっぽど燃費がいい」
須奈は自販機で買ったコーラを一口飲むと、不意に、真顔になった。
その目は、いつもの軽薄さの欠片もない、冷徹な分析者のそれだった。
「……なあ、ヤギっち。アンタに、神様の先輩として一つだけ忠告しといてやる」
「……」
「個人からの信頼一本に絞るってのは、悪くない戦略だ。一点豪華主義。ハマれば最強。……だがな」
須奈は指を一本立てる。
「それは、究極の『諸刃の剣』だ。それは、アンタの力じゃない。アンタと、天宮さんっていう『二人の関係性』そのものが、アンタの力になってるってことだ」
須奈の言葉が、妙な重さを持って俺の胸に落ちる。
「つまり、だ。その基盤が揺らいだ瞬間、アンタは終わる」
彼は、まるで未来を予言するかのように、静かに続けた。
「アンタがヘマしてあの子に嫌われるとか、裏切るとか、そんな生易しい話じゃねえ」
「もし、あの子が……天宮さんが、アンタの目の前で事故に遭ったら? 建川みたいな奴に人質に取られたら?」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
「最悪、あの子が死んだら?」
「……やめろ」
「あの子の心が恐怖で折れたら? 信頼が、憎悪や拒絶に変わったら?」
須奈は、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「その瞬間、アンタはゼロになるどころか、マイナスに振り切れる。わかるか? 安定した供給源を失うってのは、そういうことだ」
彼は立ち上がり、空になったコーラの缶をゴミ箱に投げ入れた。
「その子に何かあったら、マジで終わるからな」
軽い口調で放たれたその言葉は、第五章で現実となる、逃れようのない呪いだった。
「……せいぜい、お姫様を守ってやれよ、騎士サマ」
須奈はひらひらと手を振り、夜の闇に消えていった。
俺は一人、ベンチに残された。
ひなたにもらった、とっくに冷え切った缶コーヒーを握りしめる。
須奈の言葉が、脳内で反響していた。
(あの子に、何かあったら)
俺は、左手首の腕時計を見た。
ひなたの信頼によって、温かく、力強く輝いている。
だが、須奈の言葉を聞いた後では、その輝きが、まるで時限爆弾のタイマーの光のようにも思えていた。
俺が手に入れたこの平穏と安定は、天宮ひなたという、たった一人の人間の心の上に築かれた、あまりにも脆い城だったのだ。
(守るしかない)
何があっても。
この日常を、そして、この日常を俺に与えてくれる彼女を。
俺は冷たいコーヒーを一気に飲み干し、決意を新たにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます