第八話:『聖女の盾』

絶望。

思考が、焼けた聖樹のように炭化していく。

俺、アレンのすべては、この瞬間に終わった。

仕組まれた追放、与えられた偽りの希望、そして、今、家畜以下の「培養器」として連行されようとしている。

俺が夢見たスローライフは、悪趣味な劇の第一幕に過ぎなかった。


「……何を呆けている。拘束しろ」


ザグラムが冷ややかに命じ、魔王軍の兵士二人が、俺の抜け殻のようになった身体の両腕を掴んだ。

抵抗する力など、残っていなかった。

リナのこと、聖樹のこと、すべてが、もうどうでもよくなっていた。


「―――その汚れた手で、その人に、触れるなっ!!」


甲高い、しかし鋼のような意志を宿した声が響き渡った。

その瞬間。

俺の身体を掴もうとした兵士二人が、凄まじい圧力を伴った「光」に弾き飛ばされ、地面を転がった。


「!?」


ザグラムの冷たい目に、初めて「驚愕」の色が浮かんだ。

俺は、ゆっくりと顔を上げる。

そこには、震えながらも、俺の前に立ちはだかる、リナの姿があった。

彼女の身体からは、今にも爆発しそうなほどの、眩い「聖力」のオーラが立ち上っている。それは、この農園の聖樹の力と、彼女自身の回復した力が共鳴し、さらに増幅されたかのような、神々しいまでの黄金の光だった。


「……聖女リナ」

ザグラムは、忌々しげにその名を呟いた。


「なるほど。私が立てた計画の中で、唯一の想定していなかった『イレギュラー』か。報告にはあったが、この「培養器」とそこまで親密になっていたとは」

ザグラムは舌打ちする。


「どうりで、聖樹の結界がこちらの予想以上に強化されていたわけだ。お前がその聖力を、ここで回復させていたのだな」


「……あなたは、道具なんかじゃない」

リナは、俺の背中を守るように立ちながら、震える声で言った。


「あなたは、私を……『聖女』としてではなく、『リナ』として見てくれた。泥だらけになっても、ただ笑ってくれた。私に、生きる場所をくれた、たった一人の人……」


彼女は、ザグラムに向き直る。

その瞳に、もう怯えはなかった。あるのは、すべてを焼き尽くすほどの、静かな怒りだった。


「この人だけは! 私がこの場所で取り戻した、私の光だけは、あなたなんかに奪わせません!」

「光、だと?」


ザグラムは、心底おかしいというように肩をすくめた。


「聖女よ。その男は、我々が聖魔融合を試すための『道具』だ。そして、お前もまた、人間どもに祈りを捧げさせる便利な『道具』に過ぎん。道具が道具を守ろうとは、滑稽の極みだな」


「黙りなさい!!」

リナの絶叫と同時に、聖力が爆発した。


彼女が、自らの命を削って奇跡を起こす時にしか使わないという、最大位階の聖魔法。

【ホーリー・ジャッジメント】

天から降り注いだ光の槍が、浄化の嵐となって魔王軍の兵士たちを薙ぎ払う。


「ぐあっ!」

「な、聖女がこれほどの力を……!? 枯渇症だったのでは!?」


兵士たちは、聖なる光に焼かれて次々と倒れていく。

それは、俺が知る「お茶を飲んで微笑むリナ」とは、別人の姿だった。

彼女は、本気で命を捨てて、俺を守ろうとしていた。

俺の農園で、俺の聖樹のお茶で回復した、その全ての聖力を、今、俺のために解放している。


「……リナ、やめろ……! 無駄だ!」


俺は叫んだ。

相手は、このすべてを仕組んだ魔王軍の幹部だ。ただの兵士とは違う。


「面白い」


ザグラムは、光の槍を、右腕に展開した「闇の障壁」でたやすく受け止めながら言った。


「確かに、全盛期のお前の力は、並の幹部なら倒せただろう。だが……」


ザグラムの纏う魔力が、その質を変える。

それは、俺が育てた聖魔茸のような純粋な魔力ではない。

触れるものすべてを腐らせ、光さえも飲み込むような、純粋な「悪意」と「闇」。


「俺の魔力は、『アンチ・ホーリー(対聖性)』。聖女、お前は、お前にとって最悪の相手を選んだぞ」


ザグラムの手のひらに、闇が渦巻き、一本の黒い「槍」が形成されていく。

空気が歪み、聖樹の残骸から上がっていた煙さえもが、その槍に吸い込まれていく。


「リナ! 逃げろ!」


俺が叫ぶのと、ザグラムが槍を放つのは、ほぼ同時だった。


「消えろ、イレギュラー」


黒い閃光。

リナは、残った最後の力を振り絞り、自分の前に最大の聖なる盾【セレスティアル・ウォール】を展開する。


だが。

パリン、と。


まるで薄いガラスが割れるような音を立てて、聖女の最強の防御は、いとも容易く打ち破られた。


「…………え」


そして、黒い槍は。

音もなく、リナの、薄い胸を貫いていた。

時が、止まった。

ゆっくりと、スローモーションのように。

リナの身体が、俺の方へと傾いてくる。

俺は、麻痺していた身体を必死で動かし、崩れ落ちる彼女の身体を、震える腕で抱きとめた。


「……あ……アレン、さん……」


口から、ごふ、と赤い血が溢れ出す。

俺の腕の中に、温かい彼女の血が広がっていく。

真っ白だった彼女の服が、俺が育てたトマトのように、真っ赤に染まっていく。


「リナ……? なんで……なんで、俺なんかを……」

「……よかっ、た……」


リナは、血を流しながら、笑っていた。

あの、農園で笑っていたのと、同じ顔で。


「……私、ちゃんと……『道具』じゃなく……『リナ』として……あなたを、守れた……みたい……」

「リナ! リナ! 死ぬな! 俺のスキルで……そうだ、【庭園管理】で……!」


俺は慌ててスキルを発動しようとするが、リナは弱々しく首を振った。


「……ううん……もう、いいんです……」

「アレンさん……あなたは、生きて……。あなただけは……」


彼女は、最後の力を振り絞り、血に濡れた手を、俺の胸にそっと当てた。

彼女の手から、信じられないほど温かい、最後の聖力が流れ込んでくる。

それは、回復魔法であり、そして、彼女の命そのものを分け与える「祝福」だった。

俺の傷ついた心と、絶望に凍り付いた魂を、無理やり溶かしていく。


「……私の……『居場所』……。あなたのそばが……私の、本当の……居場所でした……」


彼女は、俺の頬に触れようとして、


「あい――」


それが、最後の言葉だった。

俺の胸に当てられた手から、力が抜け落ちる。

彼女の瞳から、光が消えた。


「……………………」


静かだった。

俺の頭の中で、ザグラムの言葉が反響する。

『イレギュラー』。

『この培養器とそこまで親密になっていたとは』。


……待て。

じゃあ、リナの、あの笑顔は?

泥だらけになって、俺の冗談に頬を膨らませた、あの時間は?

俺の野菜を「美味しい」と食べたあの顔も、俺に「そばにいたい」と言ったあの告白も。

それすらも、仕組まれていたのか?

俺を『培養器』として安定させるための、ザグラムが用意した、もう一つの「餌」だったのか?


いや、違う。

違う。


ザグラムは『想定していなかった』と言った。

そうだ。

リナの想いだけは、本物だった。

この地獄のような、仕組まれた劇の中で、たった一つだけ、本物の、俺の「居場所」だった。


そして、俺は。

その、たった一つの本物すら。

守れなかった。

俺のせいで。俺が「道具」だったせいで、彼女は死んだんだ。

蹂虙された農園。

焼け焦げた聖樹の残骸。

そして、俺の腕の中で、冷たくなっていく、唯一、愛してくれた女性。


「……ああああああああああああああああああっ!!」


俺の絶叫が、夕暮れの空に響き渡った。


「……ふん。余計な手間をかけさせおって」

ザグラムは、冷たく吐き捨てた。


「聖女というサンプルを一つ失ったのは痛いが、まあいい。本命さえ手に入れば」


ザグラムは、部下に顎をしゃくった。


「何をぼんやりしている。さっさと『それ』を回収しろ。今度こそ、抵抗はできまい」


俺は、リナの亡骸を抱きしめたまま、動けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る