放課後、恋の勝負

神田 双月

放課後、恋の勝負

 五月の放課後。

 教室には、まだ夕陽が差し込んでいた。窓から入り込む光が黒板をオレンジ色に染め、僕の机の上にも淡い影を落とす。


 「なあ、今日もあいつ来ると思う?」


 隣の席のユウが、僕に肘で小突きながらニヤついた。

 僕――佐伯悠斗は、教室のドアの方にちらりと目を向ける。


 「あいつって……別に俺とは関係ないだろ」

 「いやいや、あるある。だってさ、あの風紀委員のクール美少女が、お前のところばっか来るんだぞ?」


 ユウの言う「あいつ」とは、風紀委員のエース、

 ――水瀬桜。


 成績優秀・容姿端麗・運動神経も抜群。

 さらに言えば、無表情で有名な「鉄壁の女」として、男子の中では半ば伝説の存在だ。


 そんな彼女が、なぜかこの一週間、僕の席まで毎日やってくるのだ。

 理由は簡単。「校則違反の取り締まり」。


 僕が「ネクタイをちゃんと結んでいない」「靴下が短い」「髪がちょっと長い」などの理由で、いちいち注意しに来るのである。


 「お前、実はわざとやってんじゃね?」

 「やるわけないだろ……」

 「いや、そうじゃなきゃ、あの鉄仮面が毎日通うわけないって!」


 「鉄仮面」という呼び名は、もちろん水瀬桜のことだ。

 笑った顔を見たという人間はほとんどいない。僕も、見たことはない。


 と、ちょうどその時――


 「佐伯くん」


 きた。

 まるで呼び出しベルが鳴ったかのようなタイミングで、澄んだ声が教室に響く。


 ドアの前に立っていたのは、水瀬桜本人だった。


 相変わらず背筋をぴしっと伸ばしていて、制服の着こなしは模範生そのもの。

 前髪も乱れなく、靴のかかとまで完璧。

 あまりに絵になる光景に、数人の男子がひそひそと騒ぎ始める。


 「やっぱ今日も来た……」「マジで毎日じゃん……」「羨ましすぎるだろ……!」


 ユウが小声で言う。

 「な? これ、もう恋だろ」


 「うるさい」


 僕は立ち上がり、水瀬の方を見た。


 「……何か用?」

 「あなた、またネクタイ緩んでる」

 「え、あ、あー……」


 そういえば、昼休みに暑くてちょっと緩めたんだった。


 水瀬はすたすたと僕の方へ歩いてくる。

 そして――


 「ほら、動かないで」


 目の前に立つと、彼女は躊躇なく僕の胸元に手を伸ばし、ネクタイをぐいっと締め直した。


 至近距離。

 長い黒髪がふわりと揺れて、僕の鼻先にかすかなシャンプーの香りが届く。


 心臓が、跳ねた。


 「……はい、これでいい」

 「あ、う、うん……」


 「ほらな!」と後ろからユウが小声で叫ぶ。「もう完全にヒロインムーブじゃん!」


 僕は内心で「うるさい」と念じつつ、水瀬の表情を見た。

 いつも通り、まったく感情を感じさせない真顔だ。


 「校則は守ってください。生徒会でも注意されているので」

 「あ、ああ、うん」


 そう言い残して踵を返す彼女――のはずだったが。


 「あの、ちょっと」


 僕の口が、勝手に動いた。


 水瀬が振り返る。

 「何?」


 「えっと……毎日注意されるの、さすがにちょっと恥ずかしいし……」

 「はい。だから守ってください」

 「いや、それは分かってるけど!」


 彼女の冷静なツッコミに、クラスの数人がクスクスと笑った。

 でも――僕は引き下がらなかった。


 「……その、なんで俺ばっか狙うんだ?」


 「狙う?」


 水瀬は目をぱちぱちと瞬かせた。少しだけ意外そうだ。

 「別に、あなたばかりを狙っているわけじゃ……」


 「じゃあ、他のやつにも同じように言ってる?」

 「え、それは……」


 水瀬がほんの一瞬、言葉を詰まらせた。

 その様子を見て、僕は確信する。


 ――やっぱり、僕ばっかだ。


 教室が一瞬ざわついた。

 ユウが「おいおい、これは……!」と机を叩いて興奮している。


 水瀬は少し目線を落とし、口を結んだ。


 「……あなたは、特に、目立つから」

 「目立つ?」


 「髪がちょっと長くて、制服も少しだらしなくて……なんというか、こういうのを放っておくと、他の人も真似するので」


 「……それ、本音?」


 「え?」


 僕はじっと彼女の目を見つめた。

 彼女はほんの少しだけ、頬を赤らめたように見えた。――気のせいかもしれない。


 「……なんでそんな顔するの」

 「いや、なんか今日、珍しく詰まったから」

 「別に……詰まってない」


 彼女は小さく息を吸って、顔を上げた。

 そして――意を決したように、はっきりと僕を見た。


 「……佐伯くんが、気になるからです」


 教室中が、静まり返った。


 僕も一瞬、時が止まったかのようだった。


 「え、い、今なんて……?」

 「だから、あなたが、気になるんです。悪目立ちするタイプで、放っておけないし……」


 水瀬はさらに小声になって、

 「……あと、ちょっと、かっこいいから」


 バンッ!!


 教室の後ろでユウが机を叩いて立ち上がった。

 「でたああああ!! 鉄仮面の告白ターン!!」


 「ユウうるさい!!」


 「おい桜ちゃん! お前今、“ちょっとかっこいい”って言ったな!? 聞いたぞ!? 俺たち全員聞いたぞ!!」


 水瀬はみるみる顔を真っ赤にして、ぴしゃっと言い返した。

 「ちょ、ちょっと! 言い方が違います!」


 「いやいやいや、まごうことなき恋のフラグじゃん!!」

 「ち、違う、これは校則違反を防ぐためで……!」


 「かっこいい」

 その言葉が、何度も頭の中でリピートされる。


 目の前で必死に言い訳する水瀬が、いつもよりずっと可愛く見えた。


 「……なあ、水瀬」


 「な、何ですか!」


 「じゃあさ、今度の日曜、デートしようぜ」


 「――え?」


 その瞬間、クラス中が爆発したように騒ぎ出した。

 「出たーーーッ!」「悠斗攻めたー!」「伝説の日が来た!!」


 水瀬は呆然と僕を見つめ、頬を真っ赤にしたまま、しばらく口をパクパクさせていた。

 そして――小さな声で、こう言った。


 「……いい、です」


 僕の心臓が、一気に跳ね上がる。

 「まじで?」


 「でも、ちゃんとネクタイは結んでください。髪も整えて」


 「はいはい、分かったよ風紀委員さん」


 「……っ、からかわないでください」


 そう言って彼女が小さくそっぽを向いた瞬間――

 ふと、彼女の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。


 笑った。

 あの鉄仮面が、笑ったのだ。


 ――放課後の教室。

 夕陽が差し込む中、僕の世界は、少しだけ色づいて見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

放課後、恋の勝負 神田 双月 @mantistakesawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ