第4話 再訪

 軽やかな呼び出し音が、廊下に寒々しく響いた。三〇一号室、トネさんの部屋の前に並ぶわたしたち。


「はい」


 扉を開けて姿を現したトネさんの表情はつらそうだった。左眼の上のガーゼとサージカルテープは、いったいどうしたのだろうか。動揺を抑えながら、わたしは声をかけた。


「朝早くにごめんなさい。連休前のことで、もう少し話を伺いたいんです」


 トネさんは、笑顔を作って聞きながらも、困っているという気持ちを隠せていない。扉の開け具合も、どこか控えめに見えた。


「ちょっと体調が悪くて。熱があるみたいなの。今度にしてもらえると嬉しいわ」


 気だるげな声。顔色は悪く、たしかに体調が悪いのだろう。それでも、律儀に玄関まで出てきて顔を見せてくれるところが、やはりよい人なのだと思う。


「それにお三方だけならまだしも、今回は米村さんまで一緒なのね」


 冷たい視線が米村さんを射抜くが、米村さんは「どうも」と、平然と笑顔でいる。プレッシャーに強くて羨ましい。むしろ、立ち会ってくれている叔父の方がそわそわしている。

 わたしは、困って小野瀬さんを見る。小野瀬さんが見ていたのは尚くんだった。

 尚くんは、じっとトネさんを見つめてから小野瀬さんに一言告げる。


「いるよ」


「そうか。描いてみてくれるか」


「うん」返事をする前から、尚くんはスケッチブックに絵を描きはじめていた。


 小野瀬さんは、トネさんを説得するにあたり、もしかすると多少ひどいことをするかもしれないとも言っていた。いったい何をするつもりなのか。


「トネさん。お体をよくするためにも、われわれの話を聞いてほしいんです。亜沙美さんのためにも必要なことです」


 小野瀬さんが亜沙美さんの名を出したとき、明らかにトネさんの表情が曇った。


「亜沙美の話はもう十分でしょう」トネさんは扉は閉めないまま、ほんの少しだけ後ろに下がった。


「トネさん、頭の怪我はどうなさったんですか」と、小野瀬さんが話を変える。


「ちょうど、みなさんが押しかけてきた翌日かしらね、寝ぼけてどこかにぶつけたみたいで、腫れてしまって」


「その日、何か変わったことがありませんでしたか。いや、何かを見たのではありませんか」


 小野瀬さんの追及めいた言葉に、トネさんは眉間に深く皺を寄せた。


「亜沙美さんを見たんですか」


「夢を……少し見ただけ」


「この子の描いているものを見てもらえますか。見覚えがおありでは」小野瀬さんは、尚くんが床に広げた描きかけのスケッチブックに片手を差し出す。


「え」と声を出し、そのスケッチブックを見て固まるトネさん。


 わたしにもわかった。拙い絵だが、トネさんと、そして、トネさんに両手をかけて抱きつくもの。首が長く蛇のようにトネさんの身体に巻き付き、首の先には、髪が長い小さい頭が、トネさんの左肩の上に位置し、口は裂けるかのように笑っている。

 絵に引き込まれそうな感覚を覚えた瞬間、小野瀬さんがスケッチブックを閉じた。


「これが今の亜沙美さんですよ。貴方も見たのではないですか。なぜ亜沙美さんがこんな姿なのか、我々が説明できると思いますよ」


 トネさんの手は微かに震えており、ぼそぼそと独り言を呟く。


「あれは夢。亜沙美がこんな姿になるはずない」


「やはり見たのですね。このままでは、あなたのお体にも危険があります。亜沙美さんを救うことにも繋がることですから、まずは話を聞いてほしいのですよ」


「あれは、亜沙美じゃないわ。あなたたち、亜沙美をそんなに悪者にしたいの?みんな、間違ってる。亜沙美はそんな子じゃないのよ」


「貴方が見たのは亜沙美さんですよ。ご自分でもわかったんでしょう。とはいえ、亜沙美さんが悪いというわけでもないのです。何が起こっているか、亜沙美さんはどんな状況なのか、あなたには知る義務があると思うんです。亜沙美さんを鎮めて、休ませてあげませんか」


「亜沙美を休ませる……」


「そうですよ。亜沙美さんは迷ってるんです。亜沙美さんを救うための行動が必要なんですよ」


 小野瀬さんは、一貫して優しく語りかける。

 トネさんは俯いて、何か考えていた。そして、尚くんのスケッチブックに視線を向け、顔をあげると、「上がりなさいな」と、私たちを部屋に案内してくれた。

 トネさんは、冷蔵庫から冷たい麦茶を出して、コップに注ごうとする。

「おかまいなく」と言っても、「お客様にお茶も出さないなんて、そんなことはできません」と言う。「やりますよ」と、わたしが並んだ三人分のコップに慌ててお茶を注いだ。尚くんには少し小さいカップに、それから思いついてもう一杯コップに注ぎ、それは亜沙美さんの仏壇に供えて、手を合わせた。

 小野瀬さんと尚くんもそれに続いたので、順番に、米村さんと叔父さんも手を合わせる。

 わたしの目は自然と、コシロサマのあったスペースに引き寄せられる。ここにあった人形が、今、米村さんの黒いリュックに入っているのだと考えると、トネさんを騙しているような罪悪感と、バレたらまずいという緊張感に、呼吸が浅くなる。

 わたしの様子に気づく様子もなく、トネさんは自らコシロサマの話を持ち出した。


「気づいたでしょ。コシロサマ、いなくなったのよ。みなさんがお話に来た次の日の夜、夢だとは思うけど亜沙美が恐ろしい姿で現れて、起きたら、頭に怪我をしていたの。それから何日かして、コシロサマがいなくなっていたのよ。

――わたしの地元では、オシラサマが家を渡ることはあって、それは、祀り方が悪かった証……家に不幸が起こる前触れでもある。だから、わたしの祀り方が間違っていて、そのせいで亜沙美があんな風に現れたのかと不安になっていたの。

 あなた達が今日来たことで、わたしの不手際を糾弾されるような気持ちになってしまった。小野瀬さんは、今の状況について何かわかることがあるというのよね。聞かせてほしいわ」


 トネさんは、座椅子に腰掛け、「ごめんなさいね。少し楽な体勢を取らせてもらうわ」と言って姿勢を直し、息をついた。

 わたしたちは低いテーブルを挟んでトネさんと向かい合って座布団に座った。

 小野瀬さんが中央、右に私、左に米村さんが座る。叔父は調停者あるいは傍観者のように、少し離れて座る。

 尚くんは、小野瀬さんの後ろで絵を書いていることにしたようだ。

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