第6話 祈りの残照

 トネさんの話はこうだ。

 五年前のこと。船戸亜沙美さんは、当時大学生で一人暮らしをはじめた。わたしと同じ大学に合格し、知り合いがいると安心だろうと叔母であるトネさんの隣の部屋に引っ越してきたのだという。

 トネさんは、子どもがおらず、夫も何年か前に亡くなっており一人暮らし、年の離れた妹の娘にあたる亜沙美さんを、自分の孫のようにかわいがっていたそうだ。

 その亜沙美さんの隣の三〇三号室に暮らしていたのが、同じ大学で留年中の先輩で、作家志望の澤田卓二だった。顔はいいが弱腰で自信のない男で、トネさんは気に入らなかったが、姉御肌の亜沙美さんとは相性がよかったようで、いつのまにか二人は付き合っていた。

 卓二がきちんと卒業し定職を真面目に探すということで、トネさんも二人の仲を渋々ながら認めていたのだそうだ。

 そして事件が起こった。

 亜沙美さんは友人らとの日帰り旅行に行った日。夜中に友人の車で送られ、自分の部屋に入ったところ、空き巣に遭遇してしまったのだという。空き巣は、近所でも女性への声がけで不審者扱いされていた若い男性だった。亜沙美さんが一泊の旅行に出ると思っていたらしい。器用にも三階のベランダまでよじ登り、窓を割って部屋に入り亜沙美さんの部屋を物色していた。そこに、亜沙美さんがタイミング悪く帰ってきてしまった。犯人は、玄関で亜沙美さんの腹部をナイフでひと突きしたあと、自分の痕跡を隠そうとして部屋の中に戻った。亜沙美さんはそのときまだ生きており部屋を抜け出し廊下を這って、三〇三号室の卓二に助けを求めた。しかし、卓二の部屋の扉は開かなかった。空き巣は、亜沙美さんがまだ生きていることに気がつき、廊下まで出てきてとどめを刺したのだ。

 トネさんは、自宅で寝ており、救急車が来るまで事件に気づかなかったのだという。


「あいつは、澤田卓二はねえ……あいつは亜沙美が助けを求めにきたことにちゃんと気がついていたの。だけど、一度扉を開けて、亜沙美が血だらけで、空き巣がナイフを持って廊下に出てきたのを見て、怯えて扉を閉じた。救急車は呼んでくれたけど、せめて亜沙美を部屋に入れてくれていれば、命は助かったのに。澤田は挨拶もなく、どこかに引っ越していった」


 どんと音を立てて、トネさんはテーブルにコップを置いた。水が数滴テーブルに飛ぶ。

 澤田卓二のことを語るトネさんの顔は、目が見開かれ、頬は引きつっている。澤田卓二を怨んでいるのだということが、ひしひしと伝わってくる。


「亜沙美の幽霊が出るというなら、きっと今でも澤田を恨んでいるのよ」


「さぞ無念だったことでしょうね」


 小野瀬さんの眉間の皺が深まっていた。


「そうね。無念だったはずよ」


 亜沙美さんの話を聞いていると、わたしの胸もざわつく。感じる必要のないはずの罪悪感。なんとなく引っ越してきた境遇が似ているせいか。

 だから、トネさんは引っ越してきたわたしに優しくしてくれていたのかもしれない。


「氷川さんと学部も同じだったのよ。本が好きでね」


 笑顔を作って話すトネさんの表情に他意はないのだろうが、それでも居心地の悪さを感じてしまう。

 引っ越してからの何度かの雑談で大学のこともかなり話していた。もし先に亜沙美さんのことを知っていたら、あまり楽しそうに大学の話なんてしなかっただろうに。引っ越してきた女性が、亡くなった亜沙美さんと同じくらいの年齢で大学生活を始めると知ったとき、きっとトネさんは亜沙美さんの無念を思わずにはいられなかったに違いない。なぜ亜沙美さんだけが不幸な目にあったのかと、世の理不尽を恨んだのではないか。

 そして、はっと気がつく。亜沙美さんだって、同じように思うはずだ。なんで自分ばかりが酷い目にあって、わたしだけが生きてるのかって、そう思うはず。だから、わたしのもとに現れるのではないだろうか。

 なんだか、背中にずしりと重いものを背負ったような感覚を覚える。部屋全体の空気が重く感じられる。仏壇の周りに闇が覆いかぶさるような錯覚を覚える。

 少しのあいだの沈黙のあと、小野瀬さんが口を開き、トネさんに問うた。


「これまで大家……高橋さんが、お祓い頼んでいるそうですが、この部屋でも受け入れておりましたか」


「そうね、お祓いと言われると嫌だけど供養だと言うなら仕方なくね。大家の立場なら、しょうがないと思うし。でも、結局、亜沙美はまだ出ると皆が言う。亜沙美が消えないなら、まだ怨みが消えてないってことなのかもしれないわね」


 ああ、この人はとっくに亜沙美さんの幽霊が出てくることは肯定しているんだ。そして、亜沙美さんの怨みも肯定している。


 テーブルの上には、誰も手をつけていない房のままのぶどうが置かれていた。

 暗い雰囲気を消し飛ばそうと、テーブルに盛られたぶどうに手を伸ばし、少し大きめの声で話す。


「これおいしいですね。立派なぶどう、どこで買ったんですか」


「駅前のイナガキよ。市場の方が安いけど、イナガキは高いかわりに外れがないから、フラワーアレンジメントの教室の近くだし、よく行くのよ」


「講師をしてるって聞きました。すごいですね」


 それから少し雑談してお茶も飲み干すと、トネさんは、わたしにばかりすぐにお茶を注ごうとする。結局お茶を三杯いただいてしまう。うちのおばあちゃんと同じだ。なぜか、若者にはたくさん食べさせようとするんだよね。

 尚くんが小野瀬さんに描いた絵を見せに来た。小野瀬さんは、それを見て仏壇をじっと見つめた。

 小野瀬さんが姿勢を正してトネさんに問う。


「お話聞かせていただいてありがとうございました。わたしから姪御さんの供養のため祈祷をさせてもらってよろしいですか。田舎の拝み屋なもので、こちらの宗派に合わないとは思いますが」


「ぜひお願いします」トネさんが頭を下げる。


 小野瀬さんは、鞄から、大きめの鈴のような道具を取り出すと、仏壇の前に座る。


「みなさんも、船戸亜沙美さんの冥福を祈っていただきたい」


 鈴でしゃんしゃんとリズムを取りながら、朗々とした声で呪文のような言葉を唱え出す。

 空気が引き締まった。

 お経とは違う、祝詞というものだろうか。作法がよくわからないが、手を合わせて、亜沙美さんが成仏するようにと祈る。楽になってほしいと願う。

 叔父も真剣な表情。トネさんは目が潤んでいた。

 小野瀬さんの祈祷が終わると、もう六時を回っていた。

 トネさんにお礼を言って立ち上がる。

 部屋の奥の仏壇と写真が視界に入った。亜沙美さん、悔しかったんだろうな。なんだか、また目元が熱くなり、仏壇に向かい手を合わせて礼をした。

 顔を上げた瞬間だ。祀ってあるコシロサマと目が合った。目鼻立ちも判別できない小さな顔が、亜沙美さんに見えた。に思え、吸い込まれそうな感覚を覚え、全力で視線を逸らす。

 もう一度コシロサマを見ると、もとどおりの人形の顔になっていた。

 もう日没に近い時間だ。差し込む夕日のせいだったのかもしれない。自分の見たものに自信が持てないまま、足取り重く、部屋を出た。

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