——間章1——

 血の匂いが床に広がっていた。

 その廊下を彼女は必死で這っていた。きっと助かると信じて。

 痛みで体に力が入らない。

 廊下に這ったまま、扉を見上げた。

 震える腕で。目の前の扉を力いっぱい叩く。

 彼はまだ起きているはずだった。さっき車から降りてきた時、部屋の明かりがまだ点いていたのを見ていたから。

 その日、彼女は大学のサークルの遠方まで、日帰り旅行に行っていた。旅行先で夕食を取って、遅くても午後10時には帰るはずが、高速道路の事故渋滞でかなり帰宅が遅くなった。

 まさか、帰ってくるなり空き巣と鉢合わせるとは。

 腹部を刃物で刺されたが、まだ意識ははっきりしていた。

 廊下を這って、隣の部屋の前にたどり着いた。


 扉がわずかに開く——鉄の味が口に広がる。後ろには刃を持つ影が追いついてきた。

 扉の隙間から彼と目が合った。助かったと、そう思った。

 彼の目は怯えていた。

 次の瞬間、閂を落とすように扉は閉まった。 

 絶望が彼女を襲った。

 彼に告白されたときの記憶、水族館のデートの記憶、プレゼントを貰った記憶、今日つけている口紅は、先週、彼にもらったばかりのものだった。幸せな記憶が崩れていくのを感じた。

 彼女は廊下に取り残され、刃は追ってきた。

 目の前の扉から、きぃ……内鍵を閉める音が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る