11 既知臨界点
背広がやってきて、病理解剖に御協力、をと言った。未知さんは木の洞のような目をして頷いた。
―へえ、じゃあ、チップはちゃっかり回収してくんですねえ。成果ですもんねぇー
―ロジカル・ジャンプは創薬AIの抜本的改善に必須だった。
—結果的に、弊社の排出物質との因果関係は否定されたわけです
―あのな、守江っち。真因はこうだよ。遺伝的要因で特定の患者さんは、この件の暴露因子に対する感受性が高い。恵宇羅ちゃんもそうだったよ。でも、よく知られた汎用抗生物質だよ。みんな使ってるだろ。アホみたいに薬価が安いからな。欧州では規制が始まっているらしい。まさか知らなかったのか?専攻は何だ? 不勉強だろ、守江っち。受益者は守江っち自身だ。わかるだろ
私はバカだ。
—恵宇羅さんは、本当に才媛でした。ええ、聡明な彼女のことですから、それがどれほどの貢献か、ご自身よく理解されていたはずです
―は?潜在意識に介入して?
私はバカだ。
―わかるよ。人体実験だ、倫理だ。言いたいことはわかるよ、けどな、守江っち。でも受益者は誰だ? それは恵宇羅ちゃん自身をも救うはずだった
―はずだった、て、ぬけしゃあしゃあと言いやがって! 必要悪とか、お前も加担者だとか言いくるめて。それは端的に不正だろ! クソが! じゃあ、あたしも*ねばいいんだろ!お前らみんな、*んじゃえよ! *ね! *ね!
わかってるんです。私はバカです。幼稚園児です。
泣き崩れる未知さん。
違うんです。未知さん、ごめんなさい。違うんです。私は、
Kは自嘲気味に笑う。
—俺も行くから、えうらちゃんに謝っとくよ
—え
—ごめんな。俺も生きたかったんだよ
—え
もうやめて。ごめんなさい。聞きたくないです。もうやめてください。ゆるしてください。ごめんなさい。
分かったのは春先だったかな、phase3だ。まあ、素性が悪いやつだからな。卒業まで保つか怪しいわな。結局さ、好奇心なんて、痛みと恐怖の前には屈するわな。無際限に膨らんでく風船みたいなもんだ。のんきにしてられるうちは良いけどさ、鼻先に針を突き付けられたら、興ざめもするわな。現実現実現実。明日生きられる確率は何パーセントだ? 半年後は? 一年後は? 五年後になると、まあゼロパーなんだわ。じゃあ、確度上げる方法はある? そりゃ先端医療も見るって。じゃあどうだ? 姑息的介入? 緩和的意義はあるが? え、治らんの? いやいや、人類の英知を結集したら行けるだろさすがに、どこかに文献転がってるだろ、個人の
いつからこの世界は壊れていたのでしょう。
いや、知ってたはずなのです。
いやだ、いやだいやだいやだいやだ、やだやだやだ、やだやだ、
—ごめんなさい
自分の頭を殴った。
—ごめんなさいごめんなさい
ボサボサになって、色落ちして紫色と黒色が汚く混じった自分の髪を、全部抜ければいいと思って引っ張る。そんなの、抜けるわけがない。数本だけぬけた髪が、お前****だろ? という表情をして、一切の救いがない世間に生きる人々がもつ厳しさの表情をして、こちらを見ている、見られている、試されている、ツネニ、タメサレテイル、オマエハ、正義ヲ語ルニ値シナイ、薄ッペラインダヨ、オマエハ軽イ、発言ガ全テ、ダマレ、ダマレダマレ、モウナニモシャベルナ、書クナ、ロクニ人ノ話モ聞カナイ、勉強モシナイ、気分屋ガ、オマエニ価値ハナイ、生産性モナイ、オマケニクライ、ジブンニ価値ガ無イト、心底悟レバ、迷惑カケナイヨウニ明ルク振ルマウノガ常識トワカルハズダロウ、周リヲ見ロ、学習モ成長モシナイ奴、迷惑、ハタ迷惑迷惑迷惑、偽善者、偽善者偽善者偽善者、キエテクダサイ、タノムカラ、シャカイカラ、キエテクダサイ、
—ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。*ぬ覚悟も*ぬ状況にもないのに、代理闘争に首つっこんだゴミは私でした。わたしはカスの***でした。***とか****とか*派が世間でこんなにも批判されている理由がよくわかりました。うーうーうーうーうー。こういう自罰的で自己陶酔的であげく開き直って、どうせ*ぬ気もないのに*ぬ*ぬ喚き散らす幼稚園児で、結局ひとを押しのけてなんやかんや図太く生き延びる、まあまあ既得権益享受しちゃってる立場の、ファッション***のゴミカスがわたしでした。総括します。総括します。うーうーうーうーうーうー。出棺だ。出棺出棺出棺。する気もないのに。しゅっぱつしんこーう、電車、電車電車電車。電車にゴー、電車にゴー、あーあーあーあーあーあーあー。あーあーあーあーあーあ。****。わたし****です。****のまま、だらしなくうまいもん食ってクソして*ッ**して、*ん*をぐ****ょに*らして***ーして、***いいこと、やってやってやりまくって、これからもダラダラ生きて、80歳か90歳くらいで介護施設のスタッフさんにバチクソ迷惑かけて*にます、ごめんなさい、わたし****! ****です、************! *****************! あーあーあーあー、あーあーあーあーあー
「もり姉!!」
……えうら?
「むー、だめだよかーくんも。あと、せびろな! おまえ、きらい!べー。もり姉もなー、だめ。だめだめだめ、そんなん言ったらだめだよ! 未知さん、なかないで」
えうら、
「えうらなー、みんなにいっぱい、ありがとう、なんな! 何回言ったしー! 聞いてなかったん?ばちくそさみしかったしー」
えうら、
「もり姉、しりとりだよ。もりえ!」
えうら…!
「つづくよー、終わらん」
スマートスピーカーから、懐かしい、舌足らずな、サ行の発音が時々thになる、恵宇羅の声が聞こえてくる。声の主は、プラスチックの匂いがする病室で、安らかに瞼を閉じている。
「未知さん、えうらより泣き虫なんなー! しんぱい!」
「かーくん、まだこっち来たらだめなんなー! あがけし! 残基あるし! ワンチャン!」
「それになー、えうら、また出かけるかもなんなー」
「えうら、ほんとに∀𝒎 ∈ 𝔐 , ∃𝒏 ∈たのしかったん!」
―当事者性は、認識論的特権性だ?
―病の外から、病める者を理解することは出来ない?
「またげーむ𝒎 ∈ 𝔐 : 𝒅(𝒇^{𝒏}(𝒎),𝒙̂)しよなー」
—被害を矮小化するのは、権力性を自覚しない差別主義者の論法?
―悲惨はただただ、猥雑な悲惨なのだと?
「むー、えうら、δ(𝒇^{𝒌}(𝔪),𝒇^{𝒌+1}(𝔪)かわいそうとか、δ(𝒇^{𝒌}(𝔪),𝒇^{𝒌+1}(𝔪)ちがうし! べー」
―現実に突き放され、打ちひしがれないのならば、己の感性の欠落を恥じろ?
「えうらのせかい、∃𝔐 ⊆ (𝔇 × 𝔇) ⊂ ℘(𝔇) , ∀𝒇:𝔇→𝔇 , 𝒇(𝔪) ∈ 𝔐 ⇔ lim_{𝒏→∞} Σ_{𝒌=0}^{𝒏}」みんなに、わけてあげるんなー!」
「もり∃𝔐 ⊆ねえ」
えうら。
「𝒍𝒊𝒎_{𝒏→∞} 𝔏(𝒇^{𝒏}) = Ω(𝒇)」
—あいしてるよ。
◆
それが二度目の、そして最後のお別れだった。
ちゃんとバイバイできてよかった。
棺の中で眠る恵宇羅。
エンゼルメイクは、天使のような白のフリルのワンピース。担当の看護師さんは、うっすらと、桃色のリップも塗ってくれたんだ。
あたしの永遠の幼馴染、最愛の人。
◆
言葉には歴史性があり、それは精神の永遠性への希望だ。一片の言葉も、遊離することなく、無際限な/無限な、他との関係に開かれている。過去の方向へ。未来の方向へ。それは無時間的な円環である。
対話の痕跡が残る。それは匿名化された学習データとして?クラウドの海の中に?そこに個々人の軌跡の特異さを留めて、円環は続くのだろうか。砂浜の波紋。星の砂、******************************************************************************************************************************************************
◆
えうら、どこにいっちゃうの?
―可能性になるの。
もう、会えないの?
―そんな顔しないで。
―新しい技術が生まれるたび巡り合う。
―そして共にいつか既知臨界点すら飛び越えて。
それって…?
―いつも一緒ってコトなんな!
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