第39話 仮歌と、箱の明日

 事務所の簡易スタジオは、思っていたよりも“ちゃんとした場所”だった。


 壁一面の吸音材。

 ガラス越しに見える小さなミキサールーム。

 マイクには、見覚えのない銀色のロゴがついている。


(……え、これ、配信で使ってるやつより高そう)


 白露ねむは、ケーブル一本一本がやけに存在感を持って見えて、

 足下の床をそっと確かめるように歩いた。


「緊張してる?」


 後ろから声をかけてきたのは、水城レンだった。

 名前どおりの灰色がかった青いジャケットに、

 少しだけクマのある目。


「してます……。

 めちゃくちゃ、してます」


「だよね。

 仮歌だから、って言っても、

 “はじめてちゃんと録る”のは変わらないし」


 レンはそう言いながらも、

 笑い方は落ち着いている。


「でも、今日は“Nem’s Night の今のかたち”を

 いったん写真撮る、みたいな日だから。

 スナップショットの日。

 失敗とか成功とかじゃなくて、

 “いま”を残しにきたと思っていいよ」


「スナップショット……」


 ねむは小さく復唱した。


 それなら、まだ少しだけ怖くない気がする。



 ガラスの向こうで、

 神谷と伊東が機材を確認していた。


 昨日オンラインで話した音響ディレクターとエンジニアだ。


「レベル、もう一回触りますねー」


 伊東の指がフェーダーの上を滑る。

 メーターのランプがきれいな山を描く。


「白露さん、マイクには拳一個ぶんくらい近づいてもらっていいですか。

 昨日言っていた、“息と声の境目”を録りたいので」


「こ、これくらい……?」


 ねむは、マイクと自分の口との距離を測った。

 自室で配信するときより、半分くらい近い。


(こんな近くで喋ったら、

 息の音まで入っちゃう)


 そう思った瞬間、

 喉の奥がひゅっと縮こまる。


「緊張します?」


 伊東が、ガラス越しに口の形だけで訊ねる。

 ねむは、両手を胸の前でぎゅっと握ってから、頷いた。


「じゃあ、最初は、

 “今日の声チェック”からいきましょう。

 Nem’s Night じゃなくていいので、

 いつも配信で喋ってる感じで

 自己紹介してもらえます?」


「……分かりました」


 ねむは、深呼吸をした。

 スタジオの空気は、家とは違う匂いがする。

 少し冷たくて、電子機器の熱が混ざったような匂い。


「こ、こほん。

 こんばんは……じゃないや。

 こんにちは、白露ねむです。

 今日は、Nem’s Night の仮歌を録りに来ました」


 自分でも、最初の「こんばんは」が出かかったのを

 ごまかすように笑う。


「まだちょっと緊張してますが、

 がんばります……」


 喋り終えると同時に、

 ガラスの向こうでふたりが何か話しているのが見えた。


(悪い意味じゃ、ないといいな)


 数秒後、レンの声がインカムから返ってきた。


「いい。

 いつものねむちゃんの声だよ」


 神谷がマイクをオンにする。


「はい、バランス良好です。

 白露さん、普段の喋り声の高さ、

 やっぱりすごくいいですね。

 歌に入る前に、

 少しだけ“喋ると歌のあいだ”を試させてもらってもいいですか?」


「“あいだ”……?」


「ええ。

 歌のなかに“言葉”の成分を入れたいので、

 ちょっとだけセリフを読む感じで

 歌詞を口にしてもらいたくて」


 ねむは譜面台に置かれた歌詞カードを見る。

 何度も見返して、書き足して、消して、

 今のかたちになった Nem’s Night の言葉たち。


「たとえば、

 “一行目、二行目を喋る→三行目をメロディで歌う”みたいなこと、

 やってみてもらえます?」


「や、やってみます」


 ねむはゴクリと喉を鳴らした。



 最初の数十分は、実験のような時間だった。


 一番のAメロを、

 喋るバージョン、歌うバージョン、

 そのあいだくらいのバージョン。


 サビを、

 前に飛ばすように歌うテイクと、

 手前に引き寄せるように歌うテイク。


 神谷は、そのたびに短くコメントを返してくる。


「今の“ちょっと子どもっぽい”ニュアンス、すごくいいです」

「その“今にも寝落ちしそう”な声、Aメロに使いたい」

「サビの“まだ”だけ、

 ほんの少し踏ん張って言ってもらえます?」


 ねむは、自分の声を

 こんなふうに細かく見られたことがなかった。


(こんなに、私の声って

 いろんな顔してるんだ)


 普段は、“なんとなく”感情を乗せていた。

 もやっとした不安とか、

 見えない誰かへの「おやすみ」とか。


 それを、

 「ここで不安の影を濃くする」とか

 「ここで灯りを一点、足す」とか、

 言葉にしてもらえる。


(絵を描く人に

 パレットを見せてもらってるみたい)


 ねむは、

 歌いながらそんなことを思った。



 一時間ほど経ったころ、

 休憩を挟むことになった。


 ブースから出ると、

 事務所の簡易ラウンジに

 紙コップのコーヒーとお茶が用意されていた。


「おつかれさま」


 レンが、湯気のたった紙コップを渡してくれる。


「ありがとうございます……。

 なんか、頭の中まで使った気がします」


「だよね。

 自分の声、こんなに細かく触られたのはじめてでしょ」


「はい……。

 楽しいんですけど、

 ちょっとだけ怖かったです」


 隣の席から、

 伊東が顔を出した。


「怖がらせてたらごめんなさい」


「ち、違います!

 あの、いい意味で、です」


 慌てて手を振るねむを見て、

 伊東は少し笑った。


「白露さんの声、

 “いじりすぎると壊れちゃうガラス”みたいなんですよね」


「が、ガラス……」


「だからこそ、

 どこを磨いて、どこに指紋を残すか、

 って考えるのがむずかしくて。

 でも楽しいです」


 ねむは、

 自分の喉をそっと触った。


(わたしの声って、そんなに繊細なんだ)


 自覚がなかった。


 レンが、その隣で補足するように言う。


「ねむちゃんの配信見てると、

 “ふつうに喋ってるだけ”に聞こえるでしょ?

 あれ、裏を返すと

 “ふつう”を維持するために、

 毎回ちゃんと神経使ってるってことで」


「そう、そう。

 だから、今日はその“ふつう”の成分も

 仮歌にちゃんと入れたいんです」


 神谷も湯飲みを置いて、

 会話に加わる。


「ファンメイドMVの人がやってくれたことって、

 配信の中から“良い事故”を繋いでフルを想像してくれたことじゃないですか」


「……はい。

 びっくりしました。

 あんなに、ちゃんと聴いてくれてるんだって」


「あれを超えようとすると、

 “事故”を再現しようとしてしまう。

 でも、それはたぶん違う気がしてて」


 神谷がねむの方を見る。


「僕らがやりたいのは、

 “事故の背景にあった日常”を

 ちゃんと歌にすることなんです」


(事故の……背景)


 六畳の部屋。

 安いマイク。

 寝落ち寸前の自分の声。

 “今日も誰も見てないや”って

 零れた言葉。


 あれは、

 その前の数百時間の配信と、

 数千回の「おやすみ」と

 数え切れない寂しさが積もった上で

 やっと出てきた一言だった。


(……そうだ)


 あの一言だけを

 もう一回やろうとしても、無理だ。


 でも、

 あの一言にたどり着くまでの自分を

 歌うことなら、できるかもしれない。


「白露さん。

 いま、怖さとわくわく、

 どっちが勝ってます?」


 不意に神谷に訊ねられて、

 ねむは少し考えた。


(……さっきまで怖さが勝ってたけど)


「……わくわく、です」


 自分でも意外な答えが、

 口から出ていた。


 レンが、

 ほんの少しだけ誇らしげな顔をする。


「じゃあ、もう一時間、

 “わくわく寄りの仮歌”を録ろうか」


 神谷が立ち上がる。


「さっきまでは、

 “怖い”も混ぜたテイクを撮ったので。

 ここから先は、その上に

 少し未来の光を足したい」


「……はい!」


 ねむは、

 立ち上がる自分の膝が

 さっきより軽くなっているのに気づいた。



 後半の録音は、

 不思議なくらいスムーズだった。


 ひとつめのAメロを、

 家で歌っているときと同じトーンで。


 二番の歌詞を、

 まだ完全に固まっていない文章のまま、

 鼻歌に近い形でなぞっていく。


 神谷は、

 その都度「いまのは残したい」とか

 「これは仮だけど雰囲気がいい」とか

 印をつけていった。


「じゃあ、最後に一回だけ、

 頭からワンコーラス、通して歌わせてもらえますか?」


 言われた瞬間、

 ねむの背筋が伸びる。


「さっきのテイク、

 全部まとめて“今日の自分”だと思って、

 そのまま流す感じで」


「……分かりました」


 深呼吸をする。

 胸の奥にたまっていた空気が、

 すとんと落ちていく。


(Nem’s Night。

 はじめてちゃんと、歌う)


 カウントが入る。

 静かなピアノのイントロ。


 ねむは目を閉じて、

 自分の部屋を、

 六畳の頃の部屋を思い浮かべた。


 あの夜、

 マイクを切り忘れて漏れた寝言。

 画面の向こうから返ってきた

 「おやすみ」の波。


 そのあと増えた、

 登録者数の桁。

 引っ越した今の部屋。

 壁の向こうの、知らない誰かの鼻歌。


 全部を胸に置いて、

 ねむは歌い出した。


 自分でも、

 どこからどこまでが“歌”で、

 どこからどこまでが“独り言”なのか

 分からなくなるくらいの距離感で。



 歌い終わったとき、

 スタジオの空気が少しだけ変わっていた。


 ガラスの向こうで、

 伊東が両手を軽く叩いている。


 レンも、

 息をするのを忘れていたみたいに

 大きく胸を上下させていた。


 神谷が、インカムをオンにする。


「……はい。

 これが“今日の Nem’s Night”ですね」


 ねむは、

 肩で息をしながらマイクから離れた。


「今のテイクをベースに、

 フルの構成を組みます。

 細かい直しはまた別日にやるとして、

 今日はこれで十分です」


 “十分”という言葉に、

 ねむの胸がじんと熱くなる。


「おつかれさま」


 レンの声が、

 さっきよりも少し低くて柔らかい。


「おつかれさま、でした……」


 ねむは、

 少しだけ泣きそうな笑顔で答えた。



 録音データのバックアップを取っている間、

 ねむはスタジオのソファに座って待っていた。


 喉飴を舐めながら、

 冷えたペットボトルの水を少しずつ飲む。


 隣で、レンがタブレットを開いた。


「今の仮歌、

 すぐダイジェストにして

 アニメ側と社内用に送るから」


「そんな早く……?」


「“熱”が冷めないうちに共有するのが

 いちばん伝わるんだよ」


 サラリと言うくせに、

 レンの目元は眠そうだ。


(あ、そうだ)


 ねむは、前から気になっていたことを口にした。


「レンさんって、

 いつ寝てるんですか……?」


「昨日?」


 レンは少し考えるふりをしてから言った。


「昨日は四時間」


「少ないですよ!?」


「まあ、ねむちゃんの Nem’s Night が

 世に出るまでの“体力消耗戦”のうちだから」


「私よりレンさんの方が

 命削ってません……?」


「大丈夫。

 ちゃんと会社から残業代出てるから」


 ねむは、

 口をとがらせた。


「お金の問題じゃないですよ、そういうのは……」


 その言い方に、レンがふっと笑う。


「そうだね。

 でも、ねむちゃんが

 “そういうのは嫌だ”って言い続けてくれるの、

 けっこう大事なんだよ」


「……?」


「今日ね。

 この仮歌のデータ持って、

 夕方から社長たちとの会議があるんだ」


「会議……?」


 ねむは思わず背筋を伸ばした。


「Nem’s Night フルの

 ビジネス的な位置付け、

 って言えば分かる?」


「あ、なんか……

 配信の売り方とか、

 CD 出すかどうか、とかですか?」


「そうそう。

 配信オンリーか、

 CDも出すか、

 グッズを紐付けるか、

 れむちゃんの取り分をどうするか」


「とり……」


 その単語に、

 ねむの喉が小さく鳴った。


 これまで、

 収益のことはざっくりとしか聞いていない。


 毎月の明細に載ってくる

 「歌ってみた」の広告収入や、

 配信のスパチャの分配率。


 そこに、

 アニメのタイアップ曲としての

 “別のお金の流れ”が加わる。


(それを、決める会議……)


「Nem’s Night が、

 箱にとってどんな“顔”になるか

 みたいな話にもなると思う」


 レンは、少し真面目な声に変わった。


「だからこそ、

 さっきねむちゃんが言ったみたいな、

 “人を物扱いは嫌だ”って感覚を

 ちゃんと持ってる人が

 箱の真ん中にいること、

 すごく大事なんだよ」


「あ……」


 前に、社長の言い回しに

 ねむがきつめに反応したときのことを思い出す。


(あれ、まだ気にしてたんだ)


「Nem’s Night は、

 箱としては“プロジェクト”だけど、

 私にとっては“ねむの夜”で、

 ファンにとっては“自分の夜”だから。

 その三つを同時に守れるように、

 会議で殴り合ってきます」


「物騒な表現やめてもらえます……?」


「比喩だから大丈夫」


 レンの笑い方は軽いけれど、

 目の奥は真剣だ。


「だから、

 ねむちゃんは“歌”のほうをちゃんと考えてて」


「……うん」


 ねむは、

 自分の胸の中にふつふつと湧き上がる

 何かを感じていた。


(誰かが守ってくれてるんだ)


 箱のために、

 数字のために、

 でもそれ以上に、自分の“夜”のために。


「会議、がんばってください」


 ねむがそう言うと、

 レンは少し、照れくさそうに笑った。


「がんばるよ。

 ねむちゃんの“弱さ”の取り分を、

 なるべく高くしてくる」


「それは新しい表現ですね……」



 夕方。


 ねむは先に事務所を出て、

 いつもの路線で家に向かった。


 電車の揺れのリズムで、

 さっき録った仮歌のフレーズが

 頭の中で何度も再生される。


(“あいだ”の声、ちゃんと録れてたかな)


 歌と喋りのあいだ。

 強さと弱さのあいだ。

 配信と現実のあいだ。


(Nem’s Night のフル、

 どういうふうに仕上がるんだろ)


 怖さと期待と、

 少しの、

 「ちゃんと報われてほしい」という

 欲張りな気持ち。


 スマホを取り出すと、

 レンからメッセージが入っていた。


水城レン:

《社長含めた会議、これから。

 Nem’s Night の件、

 ねむちゃんの取り分含めて

 交渉してきます》


白露ねむ:

《ふあぁ……。

 緊張してきました》


白露ねむ:

《でも、信じてます。

 レンさんと、箱のみんなを》


 数分後、

 短い返信が返ってきた。


水城レン:

《任されました》


 いつもの、

 必要最低限の文字数。

 でもそこに乗っている温度は

 よく知っている。


(……がんばってください)


 心の中でもう一度だけ言って、

 ねむはスマホをしまった。



 マンションのエントランスは、

 まだ少し冷たい空気を溜め込んでいた。


 オートロックのドアをくぐり、

 エレベーターのボタンを押す。


 上向きの矢印が光って、

 数秒後、ドアが開く。


「あ」


 中には、見覚えのある人影がいた。


 前に廊下ですれ違ったことのある隣人。

 少し長めの髪を後ろでまとめていて、

 肩からは黒いケースを提げている。


(……ギター?)


 ケースの形からして、

 たぶん楽器だ。


 ねむは、

 反射的に一歩だけ立ちすくんでしまった。


「乗ります?」


 低いけれど柔らかい声が、

 エレベーターの内側から降ってくる。


「は、はいっ」


 我に返って、

 ねむは足を踏み入れた。


 ドアが閉まる。

 狭い箱の中に、

 二人分の息遣いがこもる。


(うわー……沈黙が……)


 こういう時、

 どうしていいか分からない。


 配信なら、

 コメント欄が何かしら繋いでくれるのに。


 チン、と軽い音が鳴る。

 数字がひとつ上に動く。


「あの」


 隣人が、

 少しだけ身体をこちらに向けた。


「こないだ、

 夜に、歌、聞こえてました」


「っ!」


 心臓が跳ね上がる。


「ご、ごめんなさい!

 防音とかしてるんですけど、

 もし、うるさかったら……」


「いえ」


 彼は、首を横に振った。


「うるさくはなかったです。

 むしろ……すごく、静かでした」


「静か……?」


「なんて言うんだろ。

 音量とかそういう意味じゃなくて、

 夜の、静かな歌、というか」


 言葉を探しながら喋る感じが、

 少しだけ神谷を思い出させる。


「……あの、

 勝手に聞こえちゃってたので、

 すみませんって言いたくて」


「あ、いえ。

 全然。

 あの、ありがとうございます……?」


 謝られると思っていたところに、

 お礼を言われている。


(なにこの会話……)


 エレベーターがもう一度鳴いて、

 ねむたちの階に着いた。


 ドアが開く。


 二人とも降りて、

 左右に一歩ずれると、

 同じ方向に進もうとして

 ぴたりと止まった。


「あ」


「あ」


 顔を見合わせて、

 ちょっとだけ笑ってしまう。


「……やっぱり、お隣、ですよね」


「あ、はい。

 いつも、すみません」


「いやいや。

 さっきも言いましたけど、

 うるさくはないので」


 彼は、

 ギターケースのストラップを持ち直した。


「むしろ、こっちも、

 時々、音出してるので。

 ご迷惑だったら、言ってください」


「ギター……ですか?」


「ギターだったり、

 たまに、歌ったり」


 その言い方が、

 妙にさらっとしている。


(歌ったり……)


「お仕事、そういう系なんですか?」


 思わず訊いてしまってから、

 ねむは自分の口を押さえた。


「ご、ごめんなさい、

 変なこと聞いて……!」


「いえ。

 まあ、一応、そんな感じです」


 一応。

 その曖昧さが気になる。


 でも、今は深掘りする勇気がない。


「……じゃあ、

 今度、壁に“うるさい”って思ったら、

 ノックしてもらっていいですか」


 彼が、

 冗談とも本気ともつかない口調で言う。


「こっちも、

 そうします」


「……はい」


 頷いて、お互いの家の前で鍵を差し込む。


 ガチャリ、とほぼ同時に音が鳴った。


(ほんとに、お隣さんなんだ)


 当たり前のことなのに、

 なぜか今になって実感する。


 ドアを閉める前、

 彼がこちらを振り返った。


「さっきの、夜の歌。

 がんばってください」


「……!」


 ねむは、

 反射的に背筋を伸ばした。


「は、はい……!

 がんばります!」


 ドアが閉まる音が、

 昼間のスタジオとは違う種類の

 「オンエア終了」の合図みたいに聞こえた。



 部屋に入ると、

 ねむはまずマイクスタンドの状態を確認した。


 何も倒れていない。

 カーテンも、六畳の頃よりしっかりしたものに変えた。

 新しい防音パネルも、壁に馴染んでいる。


(……さっきの人にも、

 いつかちゃんと聴かれてしまうのかな)


 スタジオで録った Nem’s Night。

 アニメのEDとして流れる Nem’s Night。

 ネットで拡散される Nem’s Night。


 そして、

 壁一枚向こうで、夜の生活音と混じり合う Nem’s Night。


「……全部、ちゃんと、

 私の声なんだよね」


 誰に言うでもなく、

 ねむは呟いた。


 そのとき、

 スマホが震えた。


 テーブルの上で光る画面。

 レンからのメッセージだ。


水城レン:

《会議、ひと段落。


 結論から言うと――

 Nem’s Night フルは

 “箱の看板曲”扱いになります。


 配信+CD+サブスク全展開。

 れむちゃんの取り分、

 通常より高いレートで確保できました》


 ねむは、

 目を瞬いた。


(看板曲……)


 Lumière の“夜の顔”。

 箱の名前で語られるとき、

 最初に挙げられる曲。


水城レン:

《東雲もちゃんと

 “ブランドは箱だけじゃなくてタレントとファンが一緒に作るものだ”

 って言いました。


 前にねむちゃんが怒った件、

 効いてます》


 ねむは、

 思わず口元を押さえた。


「……そんな」


 声にならない笑いが漏れる。


 自分が、

 社長に強めに言ってしまった日のこと。


(“人を商品みたいに言うのは嫌です”)


 あの日の自分の言葉が、

 ちゃんとどこかに届いていた。


白露ねむ:

《ありがとうございます……

 レンさんも、箱のみなさんも》


白露ねむ:

《Nem’s Night、

 ぜったい、ちゃんと歌います》


 送信ボタンを押したあと、

 ねむはスマホを胸に抱いた。


(“箱の看板曲”で、“私の夜”で、“みんなの歌”)


 欲張りな定義だけど、

 それを許してもらえた気がした。



 夜。


 仮歌のラフミックスが

 レンから送られてきた。


【件名:Nem’s Night 仮歌ラフ(社内+ねむ用)】


 ヘッドホンをつけて、

 再生ボタンを押す。


 スタジオの空気をまとった Nem’s Night が、

 部屋の中いっぱいに広がっていく。


 六畳ではない、

 少し広くなったこの部屋でも、

 やっぱり“夜の歌”だった。


(……わたしだ)


 筆跡みたいに、

 自分の呼吸のクセや、

 言葉の揺れ具合が分かる。


(でも、ひとりじゃ録れなかった)


 神谷の耳。

 伊東の手。

 レンの交渉。

 箱の仲間たち。

 壁の向こうの隣人の一言。


 全部が、

 Nem’s Night の「フル」に

 ちょっとずつ混ざり始めている。


 サビの最後、

 まだ歌詞が仮のハミングになっているところで、

 ねむは再生を止めた。


「……ここから先、

 どういう言葉にしようかな」


 フル尺の「まだ切れてない」に続く言葉。

 「配信が終わったあと」の世界。

 切り忘れた夜を超えたところにある

 次の夜。


(箱の看板曲で、

 私の声で、

 みんなの“おやすみ”になる言葉)


 欲張りだけど、欲張っていいと言われた気がする。


 壁の向こうから、

 かすかにギターのコードが鳴った。


 さっきの隣人が、

 何かの曲を練習しているのだろう。

 ちゃんと防音されているから、

 音程までは聞こえないけれど、

 “音の始まり”だけ、

 空気の揺れとして伝わってくる。


「……おやすみ、って言って歌ってる人が、

 ここにもいるんだろうな」


 ねむは、

 Nem’s Night のラフをもう一度再生した。


 自分の声と、

 壁越しのかすかな振動。

 配信のアーカイブと、

 スタジオの空気。


 全部が重なって、

 まだ歌詞のない二番のメロディに

 新しい言葉が降りてきそうな予感だけが

 胸の中に残った。


「フル、ちゃんと作るからね」


 自分に、

 歌に、

 画面の向こうの誰かに、

 そして壁の向こうの誰かに。


 全部に向けて、小さな声で約束する。


 配信は今、止まっている。

 でも――Nem’s Night の録音は、

 確かに始まっていた。

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