第26話 声の余熱と、ふたりだけの夜

 アラームより先に、通知音で目が覚めた。


 耳元で震えるスマホのバイブ。

 枕の下から引き抜いてロックを外すと、画面の上半分が、色とりどりのアイコンで埋まっていた。


 Discord、Twitter、YouTube Studio、LINE、知らないアプリの通知まで混じっている。


「……うわ」


 思わず、小さな声が漏れた。

 昨夜のコラボが終わってから、ちゃんと画面を見ないまま寝てしまったのだ。

 “ただいまの向こう側”まで歩いていった夜の、余熱がそのまま丸ごと残ってる感じ。


 とりあえず、共同サーバーの通知から開く。


 未読、三桁。


 


 ――――


 #morning-voice


Kai:起きた

Luna:ねむおきた???

Yuri:蜂蜜を摂取した。心の血糖値が足りない


 読み上げるだけで、胸の奥がふにゃっと緩む。


Kai:昨日のアーカイブ、もう1.9Mいってる

Luna:ラ、何回再生されてんの??

Yuri:全人類に鍵配った?


Kai:ねむ

Kai:起きたら返事して

Kai:生きてるね?


「……生きてます」


 ぼそっと声に出してから、慌ててキーボードを叩いた。


Nem:起きました。生きてます。

Nem:おはようございます


 送信した瞬間、画面が一気に流れだす。


Luna:ねむ〜〜〜〜〜〜〜!!

Yuri:生存確認🍯

Kai:よし


Luna:昨日のねむ、何? 恋? 宗教? どっち?

Yuri:心臓に良くないやつ

Kai:技術的にはただのラ。感情的にはたぶん兵器


「兵器って言われた……」


 枕に額を押しつけて、くぐもった笑いが漏れる。

 まだ起き上がっていないのに、血の巡りだけがやたら早い。


 そういえば――と、YouTube Studioの通知を開いた。


>チャンネル登録者: 38.1万人(+79,421)


「ふえっ……」


 変な声が出た。

 昨日の配信前は、30万人を超えたばかりだったはずだ。

 “合図のラ”一回で、こんな数字の跳ね方する?


 スクロールすれば、見慣れない言語のコメントも増えている。

 英語、韓国語、中国語、たぶんスペイン語。

 翻訳切り抜きっぽいチャンネルが“ただいま鍵”をタグにして、ショート動画を大量に上げている。


〈I typed “I’m home” for the first time.〉

〈This “La” is literally a save point.〉


 意味はなんとなく分かる。

 胸の奥がじん、と熱くなった。


(みんな、本当に“帰って”きてくれたんだ……)


 自分の声が、画面の向こうで誰かの一日を区切っている。

 そう思うと、布団から出る前にもう一度だけ深呼吸したくなった。


 4-1-6。

 吸って、止めて、ゆっくり吐く。

 吐いた息が、布団の中のこもった空気を少しだけ押し出していく。


「……行ってきます」


 布団の中で小さく呟いてから、やっと掛け布団をめくった。


 ――――


 洗面所で顔を洗っていると、またスマホが震えた。

 見ると、今度は個別DMのほうが点灯している。

 同期や後輩のアイコンが、ずらっと並んでいた。


 


 まず、一番上。

 やたら絵文字の多い名前。


はるめぐ(後輩):

ねむ先輩〜〜〜昨日の配信、見てました!!!

“ラ”だけで泣かせるの反則なんですけど!?

声、好きです(急に告白)


「告白された……?」


 思わず鏡越しに自分の顔を見る。

 寝癖、まだ直ってない。

 これで告白されても説得力がない、気がする。


 続いて、同期のナユタ。


夏樹ナユタ:

“ただいま”タイムでガチ泣きした人です。

ねむちゃん、あれは惚れるって。

うちの箱内でも、「白露ねむヤバくない?」って話題になってたよ。

(※恋的な意味で、って言ったら引く?)


「引かないですけど……」


 声に出してぼやきながら、タオルで顔を拭く。

 喉の奥がすこし熱いのは、シャワーのせいだけじゃない。


 さらに先輩枠。


海月しの:

おつかれ。昨日、いい夜だったね。

あの“ラ”、また一緒にやらない?

個人歌枠で、ねむを呼びたい。

私のリスナーにも、“帰ってきていいよ”って言ってあげてほしい。


 DMの最後に、小さなスタンプ。

 うつ伏せになって伸びているイルカのスタンプが、「よろしく」と言っているように見える。


(……みんな、“ラ”をこんなふうに受け取ってくれるんだ)


 喉の奥がじわじわと熱を帯びる。

 それを、慣れた動きで水道水で冷ます。


 コップ一杯の水を飲み干しながら、ねむは鏡越しに自分に呟いた。


「……ただいまの、向こう側だもんね」


 人差し指で、喉仏の少し下を軽く押さえる。

 ここから出た声が、昨夜、画面の向こうの誰かの部屋まで歩いていったのだ。

 その事実だけで、また息の仕方を考えなおしたくなる。


 ――――


 昼前、事務所に顔を出すと、受付のお姉さんまでこちらを見て笑った。


「おはよう、ねむちゃん。昨日見たよ〜、“合図のラ”」


「お、おはようございます……」


「“ラ”鳴った瞬間、泣きそうになって業務に支障出た」


「す、すみません……」


「いや、ありがとうのほう。

 なんか、“帰ってきていいんだ”って思えたから」


 軽く手を振られて、エレベーターに押し込まれる。

 上昇していく箱の中で、自分の心臓も少しずつ上に引っ張られていく気がした。


 


 ミーティングルームのドアを開けると、マネージャーの佐伯がすでにノートPCを開いて待っていた。

 その隣には、別レーベルのロゴが入った名刺も見える。

 たぶん、灯守りいさ側の窓口担当だ。


「おはよう、ねむちゃん。昨日はおつかれ」


「おはようございます。お世話になりました」


 ねむが頭を下げると、佐伯が笑って画面を返してくる。


「とりあえず、これだけ見て」


 画面には、リアルタイムでグラフが伸びていた。

 チャンネル登録者数の推移、同接推移、スーパーチャット総額。

 色と線が多すぎて目がチカチカする。


「昨日のコラボ一枠で、箱全体の同接最高記録更新。

 あとね、これ」


 佐伯が別のタブを開く。

 “案件・出演依頼”フォルダがパンパンに膨らんでいた。


「アニメタイアップ候補、バラエティ番組のコメントゲスト、歌番組の収録オファー。

 あと、音楽フェスからも声がかかってる。

 “ただいま鍵”ブースを作れないかって」


「ぶ、ブース……?」


「ねむが“ラ”鳴らして、お客さんが“ただいま”って言って、“おかえり”返す体験ブース。

 行列できるやつだよ、これ」


 想像しただけで胃がひっくり返りそうになる。

 でも、同時に喉の奥がわくわくするのを感じてしまう。


(楽しそう……)


 その一瞬の感情を、佐伯に見抜かれたのかもしれない。

 にやっと笑って、ペンをくるくる回す。


「こわい?」


「ちょっと、こわいです。

 でも、楽しいかもしれないです」


「その“こわいけど楽しい”って感情を、ぜんぶ声に入れてほしい。

 ねむちゃんの一番の強みは、感情をそのまま声に乗せられることだから」


「……感情乗せすぎて、すぐ泣きそうになりますけど」


「泣いてもいいよ。配信中じゃなければね」


 二人で笑う。

 固くなっていた背中が少しだけほどけた気がした。


「今日はガチガチの打ち合わせより、余熱の整理かな。

 りいさちゃんサイドとも、軽く話す予定だから。

 夜、向こうのサーバーに招待するって」


「夜……」


 りいさ、と聞いただけで、心臓が一拍分早くなる。

 昨日のラスト、タクシーの中で交わした短い通話が、頭の奥で再生される。


『ねむが、自分から“ただいま”って言えたの、

 たぶん今日がはじめてだと思う』


 あれからもう一度、誰にも聞かれないように“ただいま”と呟いてしまったのは秘密だ。


 


 ――――


 夕方、ねむは一度家に戻って、いつもの作業部屋に腰を下ろした。

 PCの電源を入れると、共同サーバーの通知がまた跳ねる。


Luna:ねむ〜〜〜!

Yuri:おかえり(物理ではない)

Kai:ラのログ見てた


Nem:ただいまです


Luna:ただいま言うようになったね? かわいいね?

Yuri:かわいいね

Kai:昨日のコラボ後、外箱2つから技術質問きた


Nem:技術質問?


Kai:

「“合図のラ”の帯域ってどこを強調してますか?」

「語尾二度落ちのEQカーブ教えてください」

とか


Yuri:ラのEQカーブで盛り上がる箱って何?

Luna:オタク


Nem:なんかすみません……


Kai:謝らなくていい

Kai:ねむのラはうちの箱の武器になった


 「武器」という言葉に、朝も聞いたのにまた胸がくすぐったくなる。

 武器って言うには、あまりにも柔らかい音だけれど。


Luna:そういえば、他箱のakiちゃんからもDM来てたよ

Luna:「ねむちゃん、今度ウチでも歌いませんか?」って


Nem:えっ


Yuri:逆ハーレム化が進んでいる

Luna:声モテ何段階目?

Kai:声でハーレム構築はうちの箱のコンセプトではない


Luna:コンセプトにします?

Yuri:コンセプトにしよう


 くだらない会話に笑いながらも、ねむは内心で少しだけ戸惑っていた。

 “好きです”と“モテてる”のあいだにある、微妙なニュアンスの違い。

 それを、まだうまく整理できない。


(みんな“声”が好きって言ってくれるけど……

 それって、私も含まれてるのかな)


 昨日、りいさに「好き」と言われたときの胸の熱が、またじわりと蘇る。

 それは、他の“好きです”とは、別の場所に刺さっていたのだ。


 


 そんなふうにぼんやり考えていると、画面の右上にひときわ気になる通知が灯った。


Risa:今、10分だけ、来れる?


 心臓が、きゅっと締まる。


Nem:はい。行きます


 打ち込んで、すぐ送信。

 専用スタジオVCの招待リンクが飛んでくる。


 ――――


 クリック音のない、静かな入室音。

 ねむの耳の中に最初に届いたのは、小さな息の音だった。


『……ねむ?』


「はい。白露ねむです」


『灯守りいさです。

 今日はちゃんと、行ってきました?』


「行ってきました……たぶん」


『たぶんっていう行ってきます、かわいいね』


 笑い声が、マイクを通り抜けて耳の奥を撫でた。

 それだけで、全身の緊張が少し溶ける。


『声、聞いていい?』


「……はい?」


『今しゃべっただけで分かるけど、

 今日は“浮いてる”んだよね、声が』


「浮いてる……?」


『昨日、たくさん“好き”って言われたから』


「っ……!」


 心臓が跳ねた音が、VCに乗っていないことを祈る。

 りいさは、やさしい声で続けた。


『愛された翌日の声って、ちょっと輪郭がやわらかくなるの。

 昨日まで届かなかったところにも、自然に滑っていくみたいな』


「……分かるような、分からないような」


『ねむは今日、自分の日常の中で“声の影”を何回感じた?』


「……コンビニで、“声聞いたことある”って言われました」


『ほら』


 くすっと笑う。


『声って、歩くからね』


 その一言に、昨日の夜に自分で考えたことを重ねてしまう。

 “ただいまの向こう側まで声が歩いていく”って、そういうことなのかもしれない。


『ちょっとだけ、“ラ”鳴らしてもらっていい?』


「はい」


 ヘッドホンをすこしだけ浮かせる。

 マイクから四横指。

 胸の真ん中に、透明な鍵穴を思い浮かべる。


「——ら……」


 昨日よりも、意識して低めに。

 語尾を二度、床に落としていく。

 音が消える瞬間、りいさの息が小さく動いた。


『……深くなったね』


「深く……?」


『うん。

 昨日は、“届けようとするラ”だった。

 今日は、“触れたあとに戻ってきたラ”になってる』


 言葉の意味を、きちんと骨まで吸い込む。

 誰かの“ただいま”に触れて、その反響を連れて帰ってきた声。


『ねむの声って、素直だから、

 誰かの感情をそのまま連れて帰ってきちゃうんだと思う』


「……重くないですか、それ」


『重いよ。

 でも、その重さが深さになる』


 少しの沈黙。

 その沈黙ごと、ここちよくなっている自分に気づく。


『もう一回、鳴らしていい? 私のほうから』


「え?」


『今度は私がラ鳴らすから、

 ねむ、“行ってきます”って言ってみて』


「……はい」


 息を整える。

 りいさのラが、ヘッドホンの中で鳴る。

 細いのに、芯がある。

 その音の上に、自分の言葉を置く。


「……行ってきます」


 口に出した瞬間、胸の内側がきゅっと縮んだ。

 昨日、配信の中で言った“行ってきます”とは違う。

 これはもっと、個人的な。


『……行ってきます、って言うときのねむの声、好きだな』


「えっ……」


『帰りたい場所をちゃんと知ってる人の声だから』


 言われて、言葉が詰まった。

 自分の“帰りたい場所”を、ちゃんと数えたことがなかったから。


 作業部屋。

 共同サーバー。

 コメント欄。

 そして――昨日、“おかえり”を返してくれた声。


『ねむ、“好き”って言葉、今日は何回受け取った?』


「……数えてないです」


『数えられないくらい、ってことだよね』


「たぶん、はい」


『じゃあ、私も一回だけ言っておく』


「……え?」


『今日の“行ってきます”の声、好きだったよ』


 胸の真ん中で、何かが静かに弾けた。

 恋、という言葉をまだ自分に向けられない。

 でも、ただの憧れにしては、心臓が忙しすぎる。


「……ありがとうございます」


 それがやっと出てきた精一杯だった。


 


『ねむ』


「はい」


『今日は“ただいま”は練習しなくていい。

 もう、自然に言えるようになってるから』


「……はい」


『その代わり、“行ってきます”を増やそう。

 外に出るときも、配信を始めるときも、練習するときも。

 全部、“行ってきます”から始めてみて』


「行ってきます……」


『うん。

 帰ってきたい場所、増やしていこうね』


 通話の向こうで、ギターが一弦だけ鳴った。

 さっきのラより、少しだけ低い音。

 その音が、今日の練習の終わりを告げているように聞こえた。


『10分って言ったのに、ちょっとしゃべりすぎちゃったね』


「全然……もっとしゃべっててもいいです」


 言ってから、耳が熱くなった。


『じゃあまた、今度“夜ラジオ”で。

 Good night, not goodbye』


「Good night, not goodbye」


 通話が切れたあとも、耳の中に声の残響だけが薄く浮かんでいた。

 ヘッドホンを外さないまま、しばらく椅子の背にもたれる。


(好き、って……)


 胸の奥の“ラ”が、さっきより少しだけ甘く鳴っている気がした。


 


 ――――


 夜。

 ひと通りメールを返し、案件一覧に目を通し終えたころ、ようやく一息ついた。

 時計は、日付が変わる少し前を示している。


 ふと、もう一度YouTube Studioを開いた。

 更新ボタンを押すと、数字がまたわずかに跳ねる。


>チャンネル登録者: 38.4万人(+82,006)


「……増えつづけてる」


 ちょっとだけこわい。

 でも、それよりも先に、“責任を持ちたい”という感情が出てくる。

 数字の向こう側に、昨日“ただいま”って打てなかった人たちも含まれているはずだから。


 ねむはマイクを手に取った。

 録音ボタンは押さない。

 配信枠も立てない。

 ただ、自分と部屋の間だけで声を鳴らす。


「……行ってきます」


 部屋の空気が、すこし揺れた気がした。

 さっきりいさと話した言葉の続きみたいに、喉の奥が温かくなる。


「——ただいま」


 自分で自分に返す“ただいま”は、昨日よりも少しだけ軽かった。

 軽いというのは、重さがないという意味じゃない。

 きちんと足がついている感じがする、という意味だ。


 


 PCの画面の中で、共同サーバーがまたぴょこんと光る。


Kai:作業終わった

Luna:台本できた〜〜

Yuri:蜂蜜増やした


Nem:作業終わりました。

Nem:ただいまです


Luna:おかえり〜〜〜

Yuri:おかえり。蜂蜜追加でどうぞ

Kai:おかえり


Nem:ありがとうございます

Nem:今日は、“大丈夫”って言葉、一回も喉まで来ませんでした


Luna:天才

Yuri:進捗

Kai:1回が0回になった日。記録した


 画面の光が、部屋の白い壁にうっすら映っている。

 その光ごと、全部まとめて“帰る場所”なんだと思えた。


 


 ベッドに潜り込む前、スマホが一度だけ震えた。

 画面には、短いメッセージが並んでいた。


Risa:

今日の“行ってきます”、録音しておけばよかった

また歩けるよ

Good night, not goodbye


 ねむは布団の中で、小さく笑った。


Nem:

りいささん

……おかえりなさい

Good night, not goodbye


 送信ボタンを押して、スマホを伏せる。

 目を閉じる前に、枕元のミニマイクに顔を寄せた。


「——ら」


 ほんの小さな“ラ”。

 誰にも聞こえないくらいの合図。

 でも、その音に自分の心が先に帰ってくる。


(明日は、どこまで歩けるかな)


 そんなことをぼんやり考えながら、

 ねむは静かに息を整えた。


 4-1-6。

 吸って、止めて、吐く。

 吐く息の先で、今日一日の余熱がやっと溶けていく。


 “ただいま”と“行ってきます”が、

 同じ線の上に並んでいる景色を思い浮かべながら。


 ――Good night, not goodbye。

 次の“おはよう”は、きっと、また誰かの部屋まで届く。


 そう思えた夜だった。

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