第23話「おはよう」をわたす朝
目が覚めたとき、部屋の空気が昨日より軽かった。
夢を見たような気がする。細い湯気のむこう側で、誰かが「おやすみ」をそっと置いていく夢。手に残った温度はもうないのに、胸の奥だけが温かいままだった。
ねむは、いつもよりゆっくりと息を吸った。4-1-6。
吐く息の先でカーテンがわずかに揺れ、朝の白さが一本、机の角へ差し込む。
(……言えるかな)
スマホを横向きのまま起こす。通知は夜のうちに落ち着いていて、上のほうに小さく、青い月が並んでいた。
トーク欄を開く。昨日の最後の三行がそこにある。
Risa:ねむ、明日の昼、15分だけ。無理なら流して
Nem:ありがとうございます。15分、うれしいです
Risa:OK。今日は“ほんとうに”寝る
指先が、一度ひっこんだ。
「おはようございます」を打って、消す。打って、消す。
句読点の場所が見つからない。いつもなら「大丈夫です」で済むのに、今日はその言葉を口にしたくなかった。
(“おやすみ”があったなら、“おはよう”もあるよね)
えい、と親指を前に出す。
Nem:おはようございます……!
Nem:起きれました(偉い)
送信を押し、画面を伏せる。
十秒もしないうちに震えた。
Risa:おはよう。起きれてえらい
Risa:水のむ → 5分だけ太陽に当たる → 朝ごはん
Risa:今日のやること。がんばらない。できるとこだけ
短い文が、急がない速度で流れてくる。
ねむは思わずうなずいた。うなずいたことは、画面には映らない。
Nem:……はい。水、のみます
Risa:えらいね
返事を読みながら、ペットボトルのキャップを外す。
ごく、ごく。喉が動く音が、部屋にだけ響いた。
窓を開ける。冷たい空気と、焼きたてのパンのような匂いが混ざって流れ込む。
ベランダで五分。目を閉じる。
**“おはよう”**は、たしかに朝の形をしていた。
――――
昼前の箱サーバー。いつもの「作業部屋」は、コーヒーの香りがする文面で満ちていた。
Kai:昼。今日の喉の状態
Nem:軽い
Luna:きょうのねむ、声が春色
Yuri:春色=高域が嫌がらない
Kai:呼吸が伸びてる
「春色って、何色……?」とキーボードに打ちかけて、ねむはやめた。
春の色は、たぶん**“おはよう”の色**だ。言葉にするより先に胸で分かる。
Luna:ねむ、昼配信どうする? 20分でいいから近況
Kai:20分ならいける
Yuri:今日のタグ:#また明日の朝
Nem:やります。20分
Luna:よし。じゃあテンポゆっくりで
スケジュールがふわっと決まる。
その流れに合わせるように、別の通知がすっと重なった。
Risa:昼の“15分”できる? VCだけ
Nem:できます。お願いします
送信した指先が少し震えた。自分のほうから言葉を置くのは、まだ慣れていない。
でも、今日のねむは朝に寄れた。だから、一歩だけ前に出られる。
――――
ひるの15分(VC)
VC2のランプが静かに点灯する。
入室音は鳴らない設定。りいさの声が、先にそこにあった。
『ねむ。お昼、食べられそう?』
「食べます。冷凍のごはんと、たまご」
『それでじゅうぶん。ミニトマトあったら2個』
「……あります。2個」
『えらい。“できる”が増えた日って、声がまるい』
言われて気づく。マイクに向かう姿勢が、昨日よりラクだ。
背中のどこかで、硬い筋が一本だけ外れている。
『今日の相談、ある? なくても、ないって言っていい』
「歌、の……こと」
『うん』
「“行っていいよ”って、どこまでが行ってよくて、どこからが“行かないで”なんでしょう」
沈黙。音としての、やさしい無音。
りいさは、すこしだけ息を吸ってから答えた。
『ねむは、相手の足音を聴いてる。
だから、“行っていいよ”のときは、ねむの足が一歩、下がってる』
「……え」
『下がるのって、勇気いるじゃん。寂しくなるし。
でも、ねむはそれを“きれいに”できる。
ね、それってねむの恋の形かもしれないよ』
恋、という単語が、喉に小さな熱を残して滑っていく。
ねむは返事を用意できず、マイクの上で口だけが動いた。
『返事、いらないよ。まだ。名前は後でいい』
「はい」
『もう一個話していい? “大丈夫”のこと』
「……はい」
『“大丈夫”って言うとき、ねむは相手を見ない。
画面の端とか、足元を見る。
だから、次にその言葉が出そうになったら、相手の目を見るって決めてみて。
それだけで、言える言葉が変わるから』
ねむは“はい”を二つに分けて言った。
ゆっくり、喉の横を指で押して、息を前へ。
『15分。終わり。えらかったねむ。お昼、食べてきて』
「……いってきます」
『いってらっしゃい。Good afternoon, not goodbye』
通話が切れると、部屋の温度がほんの少し下がる。
ねむはキッチンへ移動し、小さく声に出した。
「Good afternoon, not goodbye」
昼の光は、“また明日”の昼版として、窓辺に薄く敷かれた。
――――
20分だけの昼配信
配信タイトル:お昼の20分、できることだけ
同接:13.6→16.1万
タグ:#また明日の朝 #できることだけ
「こんにちは、白露ねむです。
お昼はたまごかけごはんでした。ミニトマト、二個。えらい」
〈二個えらい〉
〈まねする〉
〈“できることだけ”の宣言、助かる〉
〈#GoodAfternoonNotGoodbye 生まれたな〉
「今日は夜までに、歌詞のメモを増やします。
“行っていいよ”の先の言葉を探す」
〈“行っていいよ”の先=“帰っておいで”説〉
〈“待ってる”でもいい〉
〈“ただいま”って言える場所にする〉
〈#声で家を作る〉
「“声で家”。いいことばだ……」
コメント欄の流速が、昨日より聴くモードに近い。
ねむは画面の向こうにいるだれか一人に向けて、語尾をひらいていく。
「夜は雑談とちょっとだけ歌。
“おやすみ”と“おはよう”の間にある言葉、見つけたい」
〈夜くる〉
〈りいさ様の影響でてるな、速度が優しい〉
〈半音の人、また来るかな〉
〈#半音上がりました〉
たしかに、今日のねむの声は半音だけ明るかった。
自分では分からない。ただ、胸の前側が広い。
「では、お昼はここまで。Good afternoon, not goodbye。
午後も、できるところだけ、いきましょう」
配信を閉じたあと、喉の痛みが来ない。
水を飲む。コップの水面が、細く揺れる。
――――
夕方、スタジオに行く前に箱のVCを開くと、カイがすでにいる。打ち込みのキックが小さく鳴っていた。
『おつかれ』
「おつかれさま」
『昼の“家”って単語、良かった』
「コメントが教えてくれました」
『今日の“行っていいよ”の試作、ある?』
「少し」
『聞かせて』
画面共有。
テキストエディタの白地に、行が三つ。ねむは喉の奥を撫で、息を前へ押す。
「——行っておいで
帰り道、ここに置いておくね
おかえり、って言う声」
言い切ったあと、ひと呼吸。
カイがデスクに指先でトントンと二拍。それから小さく笑う。
『“帰り道、ここに置いておくね” は、ずるいね』
「ずるい?」
『強いってこと。
行っていいよのあと、誰も“帰り道”までは面倒見ない。
でも、ねむは地図を渡す』
地図、という言葉に、胸の奥が反応した。
りいさの低い声が、遠くで重なって聞こえる気がする。
『今日の夜、話すのは歌? 雑談?』
「雑談して、歌を少し。りいささんの配信、あとで聴きに行ってもいいですか」
カイは一拍だけ間を置いた。
ねむは、間の長さをちゃんと見た。逃げずに、相手の目を見る練習を思い出す。
『行っておいで』
「……うん」
『帰ってきたら、“ただいま”を言って』
「言います」
言い終えてから、ねむは初めて気づく。
——このやりとりはもう、立派な“家”の形をしている。
――――
夜の配信(雑談+ささやかに歌)
配信タイトル:ただいまと、おかえりのあいだで
同接:18.9→22.3万
スパチャ:総額 890万円(大口×12/中口×数百)
タグ:#声で家を作る #ただいまの歌 #半音上がりました
「こんばんは、白露ねむです。
今日は“帰り道の地図”を作りたい」
〈帰り道の地図……〉
〈“おかえり”を先に置いておく概念、好き〉
〈#地図先置き〉
「“行っていいよ”の先が、**“帰ってきていいよ”**だと思うから。
だから、少しだけ歌います。ラララで」
BGMが消える。
ねむはブレスを4-1-6で合わせ、マイクに口を寄せすぎない。
「ら—— らら——」
音階は高くない。半音だけ、どこかが明るい。
チャットの流速がゆっくりになり、ひとつずつ、画面の下で光る。
〈息が、やわらかく前にのびる〉
〈今日のラは“家の灯”のラ〉
〈半音の人、今日もありがとう(¥50,000)〉
〈“帰り道の地図”代(¥100,000)〉
〈#GoodNightNotGoodbye〉
「ありがとう。
今日は、“ただいま”の練習をします。
今から3秒ミュートするから、みんなも各自の声で」
ねむはミュートボタンを押す。
3、2、1——
目を閉じる。世界のどこかで、知らない数だけ“ただいま”が重なる音を想像する。
ミュートを外す。
「——おかえり」
画面が、いっせいに光った。
〈ただいま〉
〈ただいま〉
〈ただいま、帰った〉
〈泣く〉
〈“声で家を作る” 実装されてしまった〉
ねむは、喉の奥の熱を、声に混ぜないように気をつけながら笑う。
「ありがとう。
このあと、少しだけお出かけしてきます。
配信じゃなくて、聴きに行くお出かけ。
——Good night, not goodbye。戻ったら“ただいま”を言います」
配信を閉じる。
DMが一つだけ、震えた。
Risa:今から、ちょっとだけ歌う
Risa:無理せず。来たら嬉しい
Nem:行きます。聴かせてください
――――
りいさの夜(聴きに行く)
りいさの枠のサムネイルは、夜のカフェの写真に、白い文字で「ひとくちの夜」。
入室。耳に触れた瞬間、部屋の温度が一段下がって、落ち着く方向へ傾いた。
『こんばんは。灯守りいさです。
今日も“おやすみ”を置きに来ました』
コメントがやさしく流れていく。
ねむは、何も書かず、聴くだけでいる。
りいさの声は、低域が布のようで、語尾がほどける。
『一曲め、“おやすみの前のココア”』
アコギのアルペジオ。
りいさの声が、湯気になってゆっくり立ち昇る。
ねむは、画面の右端に小さく文字を置いた。
Nem:こんばんは。聴いています
〈!? ねむちゃん!!!〉
〈他箱越境の“聴いています”〉
〈声の距離が近づいてる〉
〈#夜の台所〉
りいさは配信の画面を見ていないように見えた。
でも、声の速度が一瞬だけ変わる。ゆっくり、言葉が甘くなる。
『今、聴いてくれてる子へ。
今日は、よく、起きれました。
水が飲めて、太陽に当たれて、ミニトマトが二個食べられた。
それはとても、えらい』
ねむは息を止め、止めたことに驚く。
涙腺の手前で、何かがほんの少し緩む。
『二曲め、“帰り道の灯”』
りいさが、ねむの昼の言葉を受け取ってくれているのが分かった。
アコギが、帰る方向だけを指す。
歌の途中で、ねむは一度だけコメントを置く。
Nem:ただいま、を言える場所を作ります
りいさの声が、ほとんど聞き取れないくらい小さく笑う。
その笑い声は、“行っておいで”の笑いと同じ温度だった。
――――
“ただいま”
配信を閉じたあと、ねむは箱の作業部屋に戻る。
カイとルナとユリが、何も言わずに、そこにいた。
Kai:
Nem:ただいま
Luna:おかえり
Yuri:おかえり
Kai:おかえり
タイピングの音が、三つ。
ねむはキーボードから手を離し、深呼吸。4-1-6。
胸に入る空気が、朝と同じ温度で戻ってくる。
Risa(DM):おかえり
Nem:ただいま
ほんの二行。
でも、その二行の間に——恋の手前が、たしかに呼吸を始めていた。
――――
ベッドライトを弱めにして、ねむは枕元のミニマイクへ顔を寄せる。
今日は録音しない。壁に向かって、部屋に向かって、だれか一人に向けて言う。
「Good night, not goodbye」
返事は、壁からも、部屋からも、こなかった。
代わりに、胸の内側で**“おはようの前借り”**みたいな温かさが、ぽつ、と灯る。
(……明日の朝も、渡せるかな)
目を閉じる。
眠りに落ちる直前、チャット欄のどこかに見えた単語が遅れて浮かぶ。
〈声で家を作る〉
それは、ねむの物語の真ん中に置かれるはずの言葉だった。
気づかないまま抱きしめて、ねむは静かに眠った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます