第12話 数字の向こうにある声
1|午前、ゼロの席が埋まっていく
目覚ましの一分前に目が覚めた。
ケトルがコトコト言いはじめ、加湿器の白い息がゆるく天井へのぼる。
窓を指一本ぶん開けると、薄い冷気が喉の奥まで落ちていく。深呼吸。4で吸って、1止めて、6で吐く。
テーブルに置いてあるノートに、今日の見出しを書いた。
「通帳確認/再投資の内訳を決める。
翻訳チーム/字幕/医療支援。
自分にも可愛いご褒美を。
夜:短い感謝配信。」
スマホを手に取り、銀行アプリを開く。
アプリの青い帯の下に、数字の列が並んでいる。“入金”“振替”“手数料無料”。
いつもは静かな欄なのに、今朝は明るい数字が続いていた。
YouTube広告:+2,196,430
メンバーシップ:+517,980
スーパーチャット:+618,220
音楽配信:+388,110
スポンサー契約金:+702,000
合計で、約4,400,000円。
これは私の“手取り”の箱に入ってくる金額。
もちろん、このあと翻訳や機材や病棟の無償プレイリストやら、置いていく先に分ける予定だ。
「……こんなに」
声が勝手に漏れた。
数字はただの数字、って言い聞かせてきたけど、今日は光に見える。
ゼロが席で、その席に人が座ってくれた証拠。
私の胸の中で、ランプが一段明るくなる。
ディスコードがピロンと鳴って、水城レンの名前が出た。
水城レン:「朝の確認。入金予定どおり。
“置く先”の草案を送るから、ねむちゃんは可愛いご褒美のほうを先に決めて。使う勇気も才能」
白露ねむ:「うん。可愛いのための勇気、出してみる」
⸻
2|再投資の地図をつくる
レンが共有してくれた“置く先”のスプレッドシートを開く。
項目は三つの大きな島に分かれていた。
A. 翻訳・字幕(共同制作)
・固定翻訳チーム(英・韓・西):謝金 45万円/月
・追加臨時翻訳(露・仏・中):15万円/月
・字幕編集&チェック:10万円/月
B. 医療・教育プレイリスト
・病棟・療養施設の夜間配布ライセンス:無償
・セッティング同行(機材貸し出し含む):5万円/月
・“おやすみ”短尺の制作費(新録):8万円/月
C. 機材・制作
・試用マイク以外の本導入(同等機種×2):30万円(単発)
・防音ルーム微改修:20万円(単発)
・バックアップSSD・UPS:12万円(単発)
合計すると、毎月80〜90万円を“置く”ことになる。
“置く”の言葉の通り、投げ捨てじゃなくて、そこにあり続ける形。
私はうなずいて、セルの横に小さくハートを描いた(共有に落書きが反映されてしまい、レンから「かわいい」とだけ返ってきた)。
お金は、怖くない。
ありがとうの形を変えたものだ。
そう思えたら、手が自然に動く。
⸻
3|鏡の前──“画面の中”と“鏡の中”をそろえる
午後、少しだけ外に出ることにした。
Rue du Miel(リュ・デュ・ミエル)という小さな菓子店と、通りの角にあるLunette Cosmé(リュネット・コスメ)という化粧品の店は、私の“可愛い”の目印みたいな場所だ。
玄関の鏡で髪をまとめ、耳の後ろに星のイヤーカフをそっとつける。
画面の中だけじゃなく、鏡の中でも“ねむ”でいたい。
歩きながら、呼吸を合わせる。
4で吸って、1止めて、6で吐く。
信号待ちの間、SNSの通知がぱちぱち光って、胸の内側がわちゃわちゃしかけるけど、呼吸で整える。
⸻
4|可愛いご褒美──食べ物も声みたい
Rue du Mielのショーケースは、小さな色の海だ。
“すみれミルク”“木苺ローズ”“ピスタチオ・ラメール”。
掌サイズのマカロンが、まるい息みたいに並んでいる。
「今日は、どれにします?」
「えっと……“すみれミルク”と“ピスタチオ・ラメール”を、二つずつ。
それから、うさぎクッキーをひと袋」
「うさぎは人気なんですよ。耳が折れやすいので、気をつけてくださいね」
「耳、守ります。可愛いお菓子は、可愛いお金で」
自分で言って、ちょっと照れた。
でも、店員さんは笑って「素敵な言い方」と言ってくれた。
食べ物も、声みたい。ひと口で、幸せが伝わる。
続いてLunette Cosméへ。
目を引いたのは**“ティント・リュミエール 06 しずくピンクベージュ”。
透け感があって、脈拍だけ色づくみたいなやさしさ。
タッチアップの鏡に映る自分が、画面で見るよりも“人間”**で、少し笑ってしまう。
「とてもお似合いです。ナチュラルですが、カメラにも映えます」
「ありがとうございます。……うさぎクッキーにも合いそう」
担当さんが笑い、ついでに**“ミニ香水・アフタヌーンミルクティー”を勧めてくれた。
自分に買う香り。ひさしぶり。
可愛いご褒美は、私を“守るもの”**だ。
⸻
5|午後の事務所──使う勇気
事務所に着くと、レンがホワイトボードの前で待っていた。
ボードには、丸い付箋がいくつも貼られている。
「字幕/翻訳」「病棟」「機材」「予備」。
「ねむちゃん。**“置く”先、これで合意ね」
「うん。置く」
「それから、使う勇気の話」
レンはマーカーで“勇気”の文字を太く塗った。
「数字に飲まれないコツは、意図して“可愛い”に配分すること。
ねむちゃんは、使い方を決めるとき、“可愛い”が生きる道を選べる」
「……うん。可愛いのための勇気、ちゃんと使う」
「いい子。今日はそれで十分。あと、鏡、可愛い」
「見た?」
「見た。本当に可愛い」
顔が熱くなる。
仕事場で褒められるの、まだ慣れない。
でも、嬉しい。
⸻
6|翻訳チーム会議(抜粋)
星野コウ:「英語チーム固定3名/韓国語2名/スペイン語2名で回します。謝金ルール合意」
花咲ユリ:「ボランティア希望は“共同制作”の規約に同意後、抜擢。無償にならないよう最低ラインを設定」
黒瀬ミオ:「字幕スタイルガイド作る。“息”と“間”の表記ルール(♪/……)を統一」
霧原シン:「波形の“呼気”に合わせて字幕の点滅を遅延**+80ms**で同期させる提案」
白露ねむ:「ありがとう。置いた声が、いろんな言葉で“待つ”の、嬉しい」
“待つ字幕”。
いい言葉だ。
字幕もまた、置いて、見つけてもらうもの。
⸻
7|医療支援の電話
夕方、静風こどもクリニック(架空)から電話が入った。
病棟の夜間プレイリストの件で、音量リミットやタイマーの相談。
私は**“Good night, not goodbye”の短尺を無償で提供すること、
看護師さんの手が足りない時間帯は自動再生**で回るようにシンと一緒に設定に行くことを伝えた。
「助かります。ふだん“おやすみ”って言葉を言う余裕がなくて」
「置いておくので、必要なときに見つけてください。返事はいりません」
「ありがとう。……私たちのほうこそ、返事を返したくてかけてます」
電話を切ったあと、胸のあたりが少しだけ熱くなった。
“返事はいらない”って言いながら、返事が返ってくる。
それも、嬉しい。
⸻
8|ちいさな買い物の儀式
帰り道、紙袋のカサが心地よい。
部屋に戻って、テーブルにうさぎクッキーを並べた。
耳の部分は、確かに折れやすい。そっとつまんで、ぱく。
甘さが舌の上でほどける。
“ティント・リュミエール 06”を薄くつける。
鏡の中の自分は、画面の中より少しだけやわらかい。
私は笑って、香りを手首に一滴落とした。
アフタヌーンミルクティー。
食べ物と香りと声が同じ系統になると、心が整う。
ノートに一行だけ書く。
「可愛いのための勇気は、世界をやわらかくする」
⸻
9|夜の短い感謝配信
白露ねむ:「こんばんは。白露ねむです。
今日は、“置いたお金”の話を少しだけ」
同接:10.2万 → 13.7万
コメント:置いたお金w/使い道聞きたい
EN:Tell us how you’ll use it
「字幕と翻訳に、毎月80〜90万円置きます。
病棟の夜に短い“おやすみ”を置きます。
機材と防音は、今日の声を守るために置きます。
それから、私はうさぎクッキーと、しずくピンクベージュを買いました」
コメント:可愛い報告w/最高の使い道
EN:Bunny cookies + pink beige = win
「今日のスパチャは、字幕チームに置きます。
無理はしないで。毛布をかぶるのも、支援です」
SuperChat:¥20,000 翻訳ありがとう
SuperChat:$100 EN_subs「For subs team」
SuperChat:₩50,000 KR_love「자막 고맙습니다」
「ありがとう。置いて使います。
配信、ここで切ります。ちゃんと、押す。
おやすみ、ちゃんと言ってね?」
タップ。
赤いランプが消えて、呼吸がまっすぐになる。
静けさのなかで、ミルクティーの香りがふわりと広がった。
⸻
10|裏・Discord(抜粋)
水城レン:可愛いご褒美、最高。配信内容、数字に触れすぎず正解。
黒瀬ミオ:切り抜き『置いたお金の使い方』作る。
星野コウ:翻訳チーム、初の謝金振込完了。
霧原シン:病棟向け短尺、明日マスタリング。
天音ルナ:ねむのリップ、可愛い。本当に可愛い。
凪野レオ:同意。事務所がざわついている(良い意味)。
天ヶ瀬カイ:ねむリアル、勝てん(嫉妬と尊敬)。
春名ミナト:ネジ回す練習、今日もやりました(報告の才能なし)。
水城レン:最後に連絡。大型コラボ来てます。
白露ねむ:だれと?
水城レン:凪野レオ × 氷室リア × ねむ の三声灯台。歌枠、来週。
全員:うおおおお。
ディスプレイの向こうで、みんなの声が丸く笑っているのが分かる。
私の胸のランプが、少し強くなった。
眩しくない、でも確かな光。
⸻
11|深夜のDM
氷室リア:「三声灯台、やろう。 ‘not goodbye’ の英語ハモ、あなたの“置く”に合わせる」
白露ねむ:「ありがとう。置いておくね。見つけてもらえたら、歌う」
氷室リア:「嫉妬してる。でも一緒に歌う。寝ろ」
白露ねむ:「Good night, not goodbye.」
“嫉妬してる”って、優しい。
嫉妬を言葉にしてくれるの、信頼の音がする。
⸻
12|ノート(長め)
机のスタンドライトを点ける。
紙の上だけ、静かに明るい。
「今日:通帳。約440万手取り。
置く先:翻訳・字幕(80〜90万/月)/病棟短尺/機材・防音(単発)。
お金=ありがとうの形を変えたもの。
使う勇気=可愛いに配分する勇気。
ご褒美:うさぎクッキー/ティント・リュミエール 06/ミルクティーの香り。
画面の中と鏡の中をそろえる。
母音と香りと甘さの系統を揃えると、心が整う。
病棟プレイリスト=看護師さんの“手”の延長。返事はいらないけど、返ってきた。嬉しい。
配信:スパチャは字幕へ置く。
みんな:レン=信用の音。ルナ=“可愛い”に気づく人。レオ=落ち着き。カイ=現実の調整。ミナト=ネジ。シン=呼吸に寄り添う技術。ミオ・コウ・ユリ=言葉の橋。
次:三声灯台。 ‘not goodbye’ の上に英語ハモを置く。」
少し考えて、もう少しだけ書く。
「私の声は、固定じゃない。
置いて、待って、見つけてもらうための声。
お金も、同じ。置いておく。
“可愛い”のための勇気を、毎日、少しずつ使う。
Good night, not goodbye.
これは歌のタイトルで、暮らしのやり方。」
ペン先が止まる。
机の上の小さなランプが、点いたり消えたりしている。
配信じゃないほうのランプ。
私は毛布を肩まで引き上げ、目を閉じる。
ミルクティーの香り、遠くの車の音、冷蔵庫のコト。
全部、生きている音。
(おやすみ)
口の形だけで言って、返事を待たない。
灯台の光は、まぶたの裏で、静かに輪になって広がっていく。
またねの手前で、今夜も、見張りを続ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます