第10話 Good night, not goodbye──声で渡すもの
1|朝、声の位置を探す
目覚ましの一分前に目が覚めた。
ケトルのコトコトと加湿器の白い息。蜂蜜は少しだけ。
窓を指一本ぶん開けると、冷たい空気が肺の底まで落ちていく。
ノートに今日の見出しを書いた。
「録る。今の私で。
“Good night, not goodbye”。
長くしない/正直に/置いていく」
代替機は今日も元気だ。修理中の本体は、まだ眠っている。
スポンサーの試用マイクが宅配で届いた。箱を開けると、黒い布に包まれたダイナミックが静かに横たわっている。
一本の棒みたいに潔い。
触る前に、ありがとうを言った。口の形だけで。
4で吸って、1止めて、6で吐く。
私の呼吸は、呼吸を確認するための呼吸、みたいな顔をしている。
大丈夫。いける。
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2|スタジオ入り──機械と人間の距離
事務所スタジオのドアを開けると、天音ルナが手を振った。
「おはよ。今日は“泣く準備の水”持ってきた」
「まだ泣かないよ。泣くのは配――」
「はいはい、配信でね」
水城レンは既にセッティングを確認していた。
マイクスタンド、ショックマウント、ポップガード、ケーブルは新しい黒。
プリのゲインは40dBからスタート。
ヘッドホンは片耳外し。耳で世界を半分見て、もう半分を自分で作る。
「ねむちゃん、立ち位置ここ。息はポップガードに当てず、マイクの軸に触れるくらいで。
今日のねむちゃんは“生活の声の延長”でいい。作らなくていい」
「うん。作らない」
胸に手を置いて、ドを軽く鳴らす。
楽器は身体。身体は生活。
生活は、今ここにある。
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3|テイク1──喉の中の砂
ガイドのピアノがポロンと鳴る。
私は歌い出しで、声を少しだけもらした。
喉の中に砂が一粒、転がったみたいなざらつき。
すぐ止める。
ルナが肩に手を置く。レンは何も言わない。
「うん、砂がいた。いないふりしないで、もう一回、砂の存在を連れて歌う」
「いい判断」とレン。
テイク1は、捨てない。
砂の名前を覚えるために、置いておく。
置いて、見つける。
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4|テイク2──マイクと仲直り
私は半歩、前へ。
息だけ先にマイクへ届ける。言葉は、あと。
“おやすみ”の行で、涙が喉の奥に触って、音程が半音ふらいだ。
止める。
レンが穏やかに言う。
「泣いていいよ。泣いたことを声に入れればいい。泣きながら歌うんじゃなくて、泣いたあとで歌う」
「……わかった」
私はルナから紙コップを受け取って、一口だけ飲む。
水が喉の壁を通るのが分かる。
4で吸って、1止めて、6で吐く。
いける。
テイク2は、半分残す。半分で十分。次に続くから。
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5|テイク3──“嫌い”の告白
歌う前に、言葉が勝手に口を出た。
「……私、少し前まで、自分の声が嫌いだったかもしれない」
ルナが目を丸くする。レンは頷く。
「配信のときは平気。でも、録音で固定される瞬間が怖かった。
動かない自分の声って、――なんか、嘘に見える」
自分で言って、胸の中の石が一個、位置を変えた。
声の嫌いは、嫌いの名前を呼ぶと少し小さくなる。
「じゃあ、“置いていく声”として録ろう。固定じゃなくて、置いていって、見つけてもらうための声。
動かないんじゃない。待ってるんだよ、その声は」(レン)
私は笑った。
待ってる声。いい。
テイク3、通しで行く。
……終わってヘッドホンを外した。
悪くない。でも、足りない。
私の足りない、は次へ誘導するための「はい」のサイン。
テイク4。ここから本番。
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6|休憩──コーヒーと小さな悟り
ソファで紙コップのコーヒーを両手で持つ。
蓋の飲み口から、少しずつ、熱いのを確かめるみたいに飲む。
「ねむ、さ。さっきの“嫌い”の話、つよかった」(ルナ)
「うん。言うまで大きかった。言ったら、ちいさくなった」
「言葉は、ナットだね。締めると揺れなくなるやつ」(ルナ)
「ナット、かわいい」(私)
二人で笑う。レンも、口の端だけ笑う。
「ねむちゃん。自分の声を信じるのに理屈が要るなら、こう言って。
“昨日より、今日の方が、ちょっとだけ、好き”。それで十分」(レン)
「うん。今日の方が、ちょっとだけ、好き」
それだけ言えたら、私は立てる。
立てる日は、録れる日だ。
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7|テイク4──Good night, not goodbye(本番)
ライトがすこし落ちる。
私はマイクに軸を合わせる。
言葉の最初を、息に乗せすぎない。
置くように歌う。
♪ Good night, not goodbye
1.
夜の端っこ 息が丸くなる
ことり、と落ちる カップの影
君の窓にも 灯りはあるかな
だいじょうぶを 言えたらいいね
Good night, not goodbye
さよならじゃなくて またねの手前
置いていく声が 朝まで見張る
Good night, not goodbye
眠れない夜も ここにいるから
返事はいらない 見つけてくれたら
2.
斜めの歩幅 スティックの遊び
修正しながら 君に向かう
怒らずに済むなら コーヒーを置こう
守りたい時だけ 怒ればいい
Good night, not goodbye
名前を呼んだら 儀式は終わる
じいじゃない君を 蒼の字で呼ぶ
Good night, not goodbye
波のCメロが 眠気を誘う
置いた手紙には おやすみ一行
3.
砂みたいだった 喉の痛みも
名前で呼んだら 小さくなった
嫌いな自分を 嫌いと呼べたら
好きの余白が ひとます増える
Good night, not goodbye
可愛いお金で 次の夜明ける
プリンの銀紙 丸めて笑う
Good night, not goodbye
置いていくからね 拾ってくれたら
それで十分 それで十分
4.(Bridge)
4で吸い込んで 1で止めて
6で吐き出す 君と同じテンポ
灯台の下に 誰かが座る
同じ方向を 見てるだけでいい
Good night, not goodbye
さよならじゃなくて またねの手前
ここが中間点 灯りは消さない
Good night, not goodbye
返事はいらない 見つけてくれたら
Good night, not goodbye
それで十分 Good night, not goodbye
最後の語尾で、息を置く。
振り返らない。
ヘッドホンの外で、空気が少しだけ揺れた。
拍手じゃない、でも拍手よりも静かに大きい何か。
ルナが両手で顔をおさえて、笑い泣きみたいな音を出す。
レンは、ただ親指を上げた。
録れた。
今の私で、ちゃんと。
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8|編集ブース──音の輪郭を整える
テイク4の波形が画面に並ぶ。
シンが呼ばれて、呼気の位置を一緒に確認する。
息を切りすぎず、残しすぎず。
可動式の壁を少し動かして、部屋鳴りの残響を薄く足す。
コンプはほんの少し。圧が分からない程度に。
レンがヘッドホン越しに頷く。
「ミックスの方向、これで行く。ねむちゃんの“生活の声”が真ん中」
「うん。生活の声、がんばって生きてる」
口に出したら、胸のなかで何かが落ち着いた。
生活の声は、生活してる。今日も。
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9|小配信──ただいまの報告
夜、スマホで短い枠を取る。
歌はまだ流さない。置いていく準備の回。
白露ねむ:「こんばんは。白露ねむです。
今日は録りました。“Good night, not goodbye”。
まだ聴かせない。置いておく。
明日、ちょっとだけ、見つけに来てね」
コメント:報告だけの枠かわいすぎ/見つけに行くよ
EN:Teaser queen / we’ll find it
SuperChat:¥610 毛布「毛布足した」
「ありがとう。無理はしないでね。
スパチャの代わりに、水を飲んで、毛布かぶってください。
ねむは、今からプリン食べて、寝ます。
おやすみ、ちゃんと言ってね?」
タップ。
赤いランプが消える。
配信じゃないほうのランプは、机の上でゆっくり点いたり消えたりしている。
⸻
10|事務所の夜──契約とランプ
帰り際、レンが資料を一枚渡してくれた。
「一次合意から仮契約へ。事務15%/本人**55%**で進行。
字幕・翻訳は“共同制作”として別契約。
“可愛いお金”の使い方、明文化した」
「ありがとう」
「ねむちゃんは、ねむちゃんの言葉を書いて。書面は私が戦う。
今日のテイク、証拠になる。この声に支えられてる人がいるって」
「うん。置いていく。明日、見つけてもらう」
レンが、静かに笑った。音の小さい笑い。
私は、それが信用の音だって、最近はっきり分かる。
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11|帰り道──メッセージと、嫉妬
エレベーター前でスマホが震える。Museの氷室リアから。
氷室リア:「今日録った? ‘not goodbye’ の息の残し方だけ教えて」
白露ねむ:「語尾を置く。消さないで、置く。
4で吸って、1止めて、6で吐く。 ‘bye’の前で一枚、薄い紙を置く」
氷室リア:「わかる。嫉妬する。おやすみ」
白露ねむ:「Good night, not goodbye.」
嫉妬って言葉は、今日二回目だ。
透明に嫉妬されるのは、不思議で、ちょっと嬉しい。
嬉しいを数えない夜にする。
数えると、薄くなる気がするから。
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12|部屋──ノート(長め)
スタンドライトを点ける。
紙の上だけ、やさしい明かり。
「今日:録った。今の私で。
テイク1:砂。“いないふり”しない。
テイク2:泣いたあとで歌う。
テイク3:『嫌い』を名前で呼んだ。小さくなった。
テイク4:置くように歌う。
歌詞:
・焼きたてのありがとう
・斜めの歩幅=修正しながら進む
・コーヒーで怒りをほどく(怒り=守る)
・名前で呼ぶ=存在の儀式(蒼司)
・波のCメロ
・可愛いお金=次の夜が明るくなる
・4-1-6の呼吸
・同じ方向を見る
ミックス:息の位置/部屋鳴り/コンプ浅。生活の声が真ん中。
契約:事務15/本人55 仮契約へ。字幕は共同制作。
置く:明日、見つけに来てもらうために、今夜は置いておく。
透明:嫉妬される透明。照れるけど、ありがたい。
友だち:ルナ=黙る勇気。レン=信用の音。」
少し考えて、もう数行、足す。
「私の声は、固定じゃない。
置いて、待って、見つけてもらうための声。
返事はいらない。見つけてくれたら、それで十分。
Good night, not goodbye.
これは歌のタイトルで、暮らしのやり方。」
ペン先が止まる。
窓を指一本ぶん開ける。
冷たい空気が入ってきて、部屋の匂いを少しだけ入れ替える。
遠くのタイヤの音と、冷蔵庫のコトで、世界が夜になる。
(おやすみ)
口の形だけで言う。
返事はない。
机の上の小さなランプが、点いたり消えたりしている。
配信じゃないほうのランプ。
明日、私はこれを持って、もう一度、歌の部屋へ行く。
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