『煉獄 ― 精神科医ソフィと患者エイデン ―』

縞りん

第1話 黒い沼

 ソフィの「愛」はごく普通の愛だった。

「患者にのめり込み過ぎている」——それもそうだった。しかしどうしても捨てられない感情が芽生えた時、人は嫌でも自分の内面と向き合い、理解する。

 精神科医であればある程、本来ならそれを上手く処理する事はできた筈だった。しかしエイデンの優しい態度、柔らかい声、慎重に選ぶ言葉にいつしか彼女は引き返す事ができない煉獄にいた。


彼の言葉は毒のように降り積もる。

優しい笑顔。


彼女は死ぬ間際にメッセージを残していた。



「どうか私達の罪を、炎で焼いてください」と



 エイデンは初めて彼女を見たとき、己が如何に黒い沼の住人かという事がわかった。かれこれ一年、長い時間をかけて彼女とのカウンセリングが行われている。


 彼女は死と灰の降る荒涼とした森を、私の声に導かれて歩く赤頭巾だった。

枯れた花畑に迷い、鬱蒼とした森を抜け、私達は対話の中に不思議な共有世界……共有する居場所を見つけ出した。

視覚的に言うなら、「黒い沼地」だ。


その時から少しずつ、彼女を黒い沼の淵まで誘い込む。

ゆっくりと確実に成功していた。

彼女は儚く光る身体を少しずつ、辺りの枯れた草花を摘んだり、黒い土に触れ、私の一部……降りつもる言葉を受け取りながら、醜い蟾蜍の鳴く、私の棲む沼にやってくる。あと少し。あと少しで。


私の言葉は、

私の——私の一部だ。


彼女がそのきれいな足を踏み入れたなら、温かい泥の沼に引き摺り込んでやる。そして二度と離さない。離してやらない。

沈黙によって。



「エイデン?」

高く透き通った声でエイデンは静かに現実に還っていた。無機質な白い部屋、強固な樹脂ガラスの壁に隔たれて、理知的な彼女の眉間が僅かに曇る。

彼女は静かに録音テープのスイッチをオフにした。


「今日は、ここまでにしましょう」


「すまない……寝不足なんだ」


エイデンは静かに謝罪した。


彼は椅子に固定された手錠を僅かに軋ませる。

拳が強く握り込まれていた。

動かない腕の代わりに視線で、彼は彼女の髪を愛でた。

ソフィは少しだけ微笑む。


「大丈夫。眠れない日もあるわ。……私にも」


人は誰かを救おうとして、同時に溺れる。

その痛みを……愛と呼ぶのかもしれない。

 

その俯いた顔は——儚い天使だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『煉獄 ― 精神科医ソフィと患者エイデン ―』 縞りん @Shima_Rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ