飴玉の月に泳ぐ

鋏池穏美


―――

拝啓

あなたに宛てて筆を取ってみることにしました。

少し前、古本屋で偶然あなたの好きだった詩集を見つけました。

表紙の角が擦れていて、ページをめくるたびに紙の匂いがしました。

あなたはよく、「本の匂いは時間の香りだ」と言っていましたね。

なんて素敵な表現をするのだろうと、ますますあなたが好きになりました。


二人で訪れた海辺のカフェを覚えていますか。

風が強くて、砂糖の袋がテーブルから飛んでいった夏の午後。

あなたはそれを追いかけて、波打ち際まで行ってしまった。

砂まみれになった砂糖を笑いながら拾って戻り、「もったいない」と言ってコーヒーに入れました。

私の舌は、その甘さを今でも覚えています。

あなたが大好き、なんです。


あなたの癖のある字が好きです。

ノートの端に小さく書かれたメモや、途中でインクがかすれた跡。

達筆すぎて読めないことも多いですが、あたたかな文字。

それを見るたび、あなたという人がそこに確かにいた気がして、胸が温かくなりました。

あなたはわたしの文字に、わたしを感じているでしょうか。


今日は少し、蒸し暑い夜。

慣れない手紙を書きながら、筆を持つ手が汗ばんでしまいます。

なんだかこんな日は、夏の夜、縁側で寝転んで見上げた空を思い出します。

私は蚊に刺されて落ち着かず、あなたは黙って本を読んでいました。

ふと顔を上げたあなたが、「月が綺麗ですね」と言いましたね。

その言葉の意味を知らなかった私は、ただ笑って頷きました。

今なら、あの夜の静けさのすべてがその言葉に宿っていたのだと分かります。


ねえ、あなた。

あのときの月、今も覚えていますか。

私は、忘れられそうにありません。

今は遠く離れた空ですが──

またあなたと二人、どこかで。

―――



 便箋を閉じると、手のひらに紙の温度が残った。

 あたたかなようで冷たい、流れた時間の香り。

 それはもうこの世に存在しない人の体温のようで、胸の奥を静かに締めつける。


 窓を開けると、街は静かに輝いていた。

 洗濯物の影が長く伸び、遠くで子どもの声がする。

 世界は相変わらず、何事もなかったように巡っている。

 けれど自分の時間だけが揺らいで、少しだけ取り残されたように思えた。


 便箋の文字は、彼女の癖そのままだ。

 月の字だけ、少し傾いている。

 あの夜、彼女が笑いながら「あなたの言う文学って、難しいですね」と照れた姿がよみがえる。

 ──わたしもいつか紡いでみようかな。

 かさりと、私の手の中で紡がれた世界が揺れた。

 たった一枚の紙の上に、いくつもの季節が封じ込められている。


 ふと、部屋の隅に置かれた青いマグカップが目に入る。

 縁の欠けたその小さな傷が、彼女の笑い声のように見えた。

 もう音はしないのに、確かにここにある。

 ──ごめんなさい。もう好きではないんです。

 一方的に別れを告げたのも、最後の外出に古本屋へ立ち寄ったのも、この手紙をしたためたのも──、最後まで病気だと告げないのも、彼女が一人で苦しんでいた証。

 十年。十年という時を経て、ようやく少しだけ折り合いがついた気がする。


 滲んだ視界のまま、窓の外を見た。

 空は淡く霞み、遠くのビルの輪郭がゆらいでいる。

 青に溶けるような白い月が、昼の残光の中に浮かんでいた。


 昼の月の霞みとは裏腹に、君の輪郭は私の中で濃くなっていく。

 手紙を空に透かすと、君の息遣いがまるで空を泳いでいるようだ。

 紙の白が光を吸いこみ、文字の黒がゆっくりと溶け出す。


 私は君の好きだった言葉を口内で転がす。

 それは飴玉のようにゆっくりと溶け、甘く、痛く、私の一部として巡る。


 ああ、月が綺麗ですね。


 声にした瞬間、世界がほんの少しだけ静まった。

 その静けさのなかに、確かに君がいた。

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飴玉の月に泳ぐ 鋏池穏美 @tukaike

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