第16話 再会、敵として

 朝靄が立ちこめる戦場は、死の静寂に包まれていた。

 北境の渓谷――“アズラン峡谷”。狭隘な地形の両側を高い断崖が囲み、霧が濃く漂う。

 そこが、カイルが布陣を敷いた防衛拠点だった。


 魔族軍の陣営には緊張が走る。

 カイルは地図を前に、静かに目を閉じていた。

 手元には、魔力で記録された敵軍の進軍データ。

 その線は、彼が想定していた“最も危険な進路”を正確になぞっていた。


「……やはり来たか。勇者レオンの本隊」


 参謀補佐カイルの声に、側近の魔族将校が頷く。


「しかし、敵の規模は予想以上です。二万はくだらぬかと」

「問題ない。峡谷を抜ける前に、兵を分断すれば、戦力は半減する」

「なるほど……罠の位置は?」

「ここだ」


 カイルは地図上に数本の線を引く。

 霧の濃い地点に合わせて魔法障壁と幻術陣を設置し、敵の進行を“誘導”する。

 やがて混乱した敵が中央へ集まる頃――魔族の奇襲部隊が背後を突く。


「戦わずして勝つ道、か」

 魔族将校が感嘆の声を漏らす。

 カイルは軽く笑った。

「戦とは、命を削り合うものじゃない。可能な限り、犠牲を減らすべきだ」


 その言葉に、将校は一瞬だけ目を見張った。

 ――人間でありながら、魔族の軍を動かす男。

 その思想は、魔族ですら理解できないほど“異質”だった。


「……では、合図を」

「まだだ。あと一手足りない」


 カイルは遠く、霧の向こうを見据えた。

 そこに、見覚えのある魔力反応が――微かに、揺れている。


 柔らかく、清らかな魔力の波。

 祈りにも似たその気配。

 カイルの脳裏に、優しく微笑む少女の顔が浮かんだ。


「……まさか」


* * *


 峡谷の入り口。

 神聖遠征隊の旗を掲げた一団が、霧の中を慎重に進んでいた。


「全軍、進行を止めるな! 魔族どもを一気に叩き潰せ!」

 前線の騎士団長が怒号を飛ばす。

 だが、ミリアは違和感を覚えていた。


 ――静かすぎる。


 あれほどの数の魔族がいるはずなのに、気配が薄い。

 まるで、何かに“誘導”されているようだった。


「……これは罠です。進軍を止めて――」

「なにを言う、僧侶殿! 臆したか!?」

「違います! 地形が不自然すぎる。この霧、ただの自然現象では――」


 その瞬間、霧の中から魔力が弾けた。

 眩い光が炸裂し、地面が震える。

 幻影魔法――敵陣の“偽装部隊”が現れると同時に、本命の伏兵が背後を突いた。


「なっ――!? 包囲された!?」

 悲鳴が上がり、兵たちが混乱する。

 だがミリアだけは、すぐに異変の“意図”を読み取っていた。


 ――これは、全滅を避けるための包囲。

 殺すためではなく、“退路を塞ぐため”の戦術だ。


 そんな戦い方を知っている者は、一人しかいない。


「……カイル……」


 ミリアは杖を握りしめた。

 霧の向こう、ゆっくりと人影が現れる。

 漆黒の軍服に、淡く光る青の徽章。

 その男は、静かに兜を脱いだ。


「久しぶりだね、ミリア」


 声は穏やかだった。

 しかし、その眼差しには、戦場を見据える冷たさが宿っている。


「カイル……本当に、魔族の味方になったの?」

「味方、というより――共存のための選択だよ。人間も魔族も、同じ“生き物”だ」


「そんな理屈……勇者様を裏切った理由にはならない!」

 ミリアの声が震える。

「あなたは、人間を救うために戦っていたはず! なのに、今は人を殺して――!」


「違う」

 カイルは静かに首を振った。

「俺は、誰も殺したくない。だからこそ、“魔族の側”に立ったんだ」


「……どういう意味?」

「人間は、勇者を神の使いと崇める。だがその裏では、戦争で利益を得る貴族たちがいる。

 勇者が勝てば、富と領土が増える。敗れれば、民が死ぬだけだ。

 ――俺は、その構造を壊したい」


 ミリアの目が見開かれる。

 それは、かつて彼が語っていた“理想”そのものだった。

 だが、今の彼はそれを“敵の陣営”で実現しようとしている。


「……それでも、あなたが人を傷つけてるのは事実よ」

「ミリア。俺は戦ってるんじゃない、“止めてる”んだ。勇者レオンの暴走を」


 その名を聞いた瞬間、ミリアの表情が揺れた。

 彼女も薄々感じていた。

 ――レオンが、何かに取り憑かれたように“正義”を叫ぶようになっていたことを。


「……っ、それでも、私はあなたを止めなきゃいけない。勇者様の命令だから!」


 ミリアの杖が光を放つ。

 聖なる結界魔法サンクチュアリが展開され、カイルを包囲する。

 彼女の目には、涙が浮かんでいた。


「ごめんなさい……カイル。でも、これが私の“正義”なの!」


「……そうか」


 カイルは目を閉じ、一瞬だけ微笑んだ。

 その微笑は、どこまでも優しく――哀しかった。


「なら、俺も俺の正義で応えよう」


 次の瞬間、空気が揺れる。

 カイルの周囲に幾つもの魔力解析陣が展開された。

 《分析》――彼の最大の力。

 魔力の流れ、詠唱の癖、構築速度、すべてを“数値化”して先読みする。


 ミリアの攻撃魔法が放たれるたび、カイルは最短軌道で防御を張り、動きを封じる。

 まるで、彼女の“心の揺れ”さえ読んでいるようだった。


「やっぱり……あなたは、強い」

「強くなんてないよ。ただ、君を傷つけたくないだけだ」


 光の嵐が止み、霧が晴れる。

 ミリアの結界が崩れ、彼女の膝が地に落ちた。

 杖が転がり、涙が頬を伝う。


「どうして……殺さなかったの……?」

「殺す理由がない。君は、まだ“敵”じゃない」


 カイルはそう言い残し、静かに背を向けた。

 だが、その背中を見送りながら、ミリアの胸に芽生えたものは――疑念だった。


 勇者レオンの正義は、果たして本物なのか。

 そして、“裏切り者”と呼ばれた男こそ、本当に誰よりも人を救おうとしているのではないか。


 彼女は小さく呟いた。


「……カイル。あなたの言葉、信じたい」


 その声は、誰にも届かない。

 霧の中、遠ざかる背中だけが、静かに消えていった。


* * *


 戦いのあと、魔王城ではカイルの帰還を待つリリアがいた。

 彼の無事を聞いて、胸を撫で下ろす。


「……お帰りなさい、カイル」

「ああ。ただの小競り合いだった。……だが、再会したよ。彼女と」


 リリアの瞳が揺れる。

「ミリアさん、ですね?」

「うん。彼女はまだ、勇者を信じてる。でも、迷い始めていた」


 カイルは窓の外、夜空を見上げた。

 その表情には、勝利でも敗北でもない、複雑な想いが浮かんでいた。


「戦いは、まだ終わらない。だけど――彼女の中に残った“迷い”が、きっとこの戦争を変える」


 リリアは微笑んだ。

「あなたって、本当に……人間らしいですね」

「そうだろうか。俺はもう、“どちらの陣営”の人間でもないのかもしれない」


 その呟きは、夜風に消えた。


 そして、遠く離れた人間領。

 勇者レオンは、報告を聞いて怒りに震えていた。


「ミリアが……奴に敗れただと? 何をしている、あの裏切り者め……!」


 拳を握りしめ、彼は宣告する。


「次は、俺が出る。俺の手で、あの裏切り者を滅ぼす!」


 狂気の光を宿した勇者の瞳が、戦争の炎をさらに燃え上がらせていった。

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