【短編】EYES NEVER LIE 〜月の見える街で〜
Maya Estiva
EYES NEVER LIE 〜月の見える街で〜
雨上がりの夜。
地下鉄の吐き出す熱気が歩道に漂い、街は濡れたガラスのように光る。
駅前の広場。
ミラ・レインは屋根のある柱にもたれ、古いギターを抱えた。
指先は覚えたばかりのコードをたどり、低い声が立ち上る。
涙の理由がわからない夜もある、と彼女は歌に紛らせる。
彼の姿を思うだけで、胸の奥がきしむことがある、と。
彼女の視界の端を、急ぐ靴音が切り裂いていく。
落ちた新聞を誰かが踏んだ。
世界の見出しは毎日変わるのに、彼女の歌う理由だけは変わらない。
ありのままでいたい。
たとえ今という時代に見捨てられても。
そのとき、レンズの気配がした。
ミラが顔を上げると、黒い傘の向こうに男が立っていた。
シャツの襟はきちんと整えられ、淡いグレーの瞳は静かだった。
カメラを提げた男は、丁寧に頭を下げる。
「君の歌を、聴かせていただいても?」
ミラは肩をすくめる。
「わざわざモノ好きだね。好きに聞いてきゃいいのに」
「ありがとうございます。君の歌声には、嘘がない」
ミラは笑ってみせた。
「何それ。カメラマンはそういう褒め方するの? あんた、名前は?」
「レオ・サリヴァン。レオと呼んでください。君は?」
「ミラ」
彼はそのカメラで、ミラの写真を撮ることはなかった。
ただ立ち尽くし、彼女の声が濡れた石畳に響くのを聴いた。
ミラは歌いながら、彼の瞳に映る自分を見た。
そこには飾り気のない彼女がいた。
作り笑いも、虚勢も映っていない。
そんな自分を、彼女は初めて知った。
-----
歌い終えると、レオは小さく拍手をした。
「とても素晴らしかった。君の歌は、とてもシンプルですね。何も足さず、何も引かない」
「……一応褒め言葉として受け取っとくけど」
「褒め言葉ですよ。お礼に温かい飲み物をご馳走させてください」
紙コップから立つ湯気が彼女の頬に触れる。
ミラはコーヒーをひと口飲み、鼻から息を吐いた。
雨の匂いと混じって、街の苦味が舌の奥に残った。
「レオ。あんた、ずっとこの街にいるの?」
「……いえ、以前は戦地に少し。今は週刊誌の写真を撮っていますがね」
「ふうん。じゃあ、たぶん似てるね。戦場と、路上は」
「似ている――ですか?」
「どうやって生き残るか選べって、常に問われるから」
「なるほど……」
そのとき、広場の電光掲示板が微かに点滅した。
誰かの囁きにも似た、無機質な通知音。
ミラは見上げて眉をひそめる。
――記録。
――都市層・レヴィーンシティ・三。
言葉にはならない情報が、雨粒のように頭上を通り過ぎる。
彼女だけが、時々それを感じ取る。
都市のどこかで、誰かが見ている。
見て、記録している。
名前はない。
けれど、心の中で彼女はそれを呼ぶ。
アカシャ、と。
-----
夜の遅い時間、二人は地上を歩いた。
雲は薄く裂け、摩天楼の輪郭に沿って月光が流れる。
ビルの屋上への非常階段を上り、ミラはフェンスに背を預ける。
下の通りでは、タクシーの黄色が雨の路面に滲んでいた。
「ミラ」
レオが並んで空を見上げた。
「月が綺麗ですね」
ミラは瞬きをした。
「え、それ、どういう意味?」
「難しいですね……この街は言葉をすぐに奪ってしまうんです。意味を説明した途端、その言葉がどこか遠くへ逃げてしまう気がして」
レオの横顔に月光が落ちた。
ミラは胸の内に小さな疼きを覚えた。
泣きたい理由があるとすれば、たぶんそれは、目の前の人が本物だからだ。
彼の瞳は、嘘を映さない。
巧妙に隠している彼女の弱ささえも、そのまま暴き出してしまいそうな目だった。
「連絡先を、交換しても?」
レオの提案に、ミラは少しだけ迷い、頷いた。
「いいよ」
-----
次の日、街はいつもの速度を取り戻した。
駅前の広場で、ミラはまた歌う。
行き先の違う乗客たちが通り過ぎ、誰かが足元にコインを落とした。
新聞が風に煽られ、見出しが滑っていく。
急ぐ靴音の向こうに、彼女はレオを探した。
来なくても、探してしまう。
探してしまう自分が、哀れで愛おしい。
けれど、それが生きている証拠だと思った。
昼過ぎ、スマートスクリーンが一斉に瞬く。
メディア王の名と、巨大ネットワークの新しい広告。
顔の表情を読み取って、最適な商品を勧める仕組み。
笑えば幸福度が上がり、ため息で購買意欲が計測される。
ミラは画面から目を逸らした。
この街は顔で人を分類し、顔で人を操る。
だからこそ、嘘を映さない瞳を、彼女は信じたかった。
夕方、スマートフォンにメッセージが届いた。
レオからの、ギャラリーの案内。
彼の写真展の初日だった。
ミラは指で文章をなぞる。
丁寧な言葉の端々に、彼の息遣いが見えた気がした。
行くよ、とだけ返して、彼女はギターを抱えた。
---
ギャラリーの白い壁に、戦場の写真が並ぶ。
瓦礫、空、泣き顔、笑い顔。
どの写真も、加工の匂いがなかった。
ミラは一枚の写真の前で立ち止まる。
遠い砂漠の街角で、誰かが空を見上げている。
その目は、彼女が知っている目だった。
嘘を映さない目。
写真のキャプションには、撮影者の名。
レオ・サリヴァン。
「来てくださって、ありがとうございます」
背後から声がして、ミラは振り向いた。
レオが静かな笑みを浮かべていた。
「今日は、僕の写真を君に見てほしかったんです」
「見たよ。レオの目は、ずっと昔から嘘をつかなかったんだね」
「……どうでしょうか。僕は、たぶん迷い続けています。君がいると、迷いが少し静かになる」
「…………」
ミラは顔をそむけた。
胸の奥の疼きが、少し強くなった。
---
その時。
ギャラリーの照明が一度だけ瞬き、空調の音が途切れる。
白い壁に映る写真が、かすかに揺らいだ。
耳の奥を、あの囁きが通り過ぎる。
――記録更新。
――都市層・レヴィーンシティ・一。
赤い文字がスクリーンを走る。
警報。
誰かが、この都市の中枢ネットワークに侵入した、そうアナウンスが流れる。
だがミラは、何か別のものを感じていた。
世界が、ほんの一瞬『息をした』ように思えたのだ。
風もないのに、髪がふわりと揺れる。
隣に立つレオの瞳が、光を宿す。
「……見ている」
ミラの胸の奥で、言葉が零れた。
誰かが、彼女たちを見つめている。
それは恐怖ではなく、確信のような感覚。
この瞬間が、世界に記録される。
「行きましょう」
レオはミラをかばい、出口へと導いた。
彼の掌は温かく、彼女への気遣いだけがそこにあった。
「大丈夫です。こちらへ」
「レオ、写真は?」
「大丈夫。データが残ってます。君が無事であることのほうが大切です」
---
非常口を抜け、屋上へ出る。
夜風が薄く流れた。
サイレンの音は遠く、街はまるで夢の続きのように静かだった。
風は弱く、月は濃い。
レオはフェンスの前で立ち止まり、深く息をついた。
「レオ、さっきのは何なの?」
「詳しくはわかりません。ですが、誰かが見えない場所から、この街のシステムをハッキングしている」
「誰が?」
「それもわかりません。ただ、僕は時々感じます、記録する者の気配を。この街を、もっとずっと遠いところから見ている何者かを」
ミラは月を見上げた。
屋上の端から、白い光がこぼれていた。
胸の中に浮かんだ問いは、言葉にならなかった。
彼と自分の距離。
目に映るものと、映らないものの違い。
なぜか泣きたくなる理由。
それらが、月の輪郭に重なって揺れる。
「ミラ」
レオの声がやわらいだ。
「君の目は、真っ直ぐですね。僕は、うつむいてばかりいる」
「そんなことないよ。うつむくことは、弱さじゃない。顔を上げられるようになるまで、少し待てばいいよ」
ミラは笑い、次の瞬間には、街の呻りに顔を向けた。
下の通りで、人の波が逆流する。
スクリーンの黒はまだ消えず、どこかでサイレンが鳴った。
アカシャ、と彼女は心の中で呼んだ。
誰かが見ているのなら、書き留めて。
この瞬間を。
彼の眼差しが、嘘を映さないことを。
それだけは、消えないように。
その祈りと同時に、世界がわずかに揺れた。
ほんの一瞬、屋上の光がにじみ、月が近づいたように見えた。
ミラは息をのんだ。
胸の疼きが涙に変わる前に、彼女は言った。
「ねぇレオ。今度、あの言葉の意味、教えてよ」
「そうですね。いつか、月の下でお話ししましょう」
彼の答えは静かで、約束の形をしていた。
ミラは頷き、ギターケースを握り直した。
この街は、真実を嫌う。
でも彼の瞳は、嘘を拒む。
その事実を、アカシャが記録している。
そう信じられるだけで、足元は少しだけ軽くなる。
-----
帰り道、地下鉄の入口で彼と別れた。
「おやすみなさい、ミラ」
「おやすみ、レオ」
階段を降りかけたところで、彼女は振り返る。
地上の光の向こう、レオは月を見ていた。
ミラは胸の奥で、まだ言えない言葉を折りたたんだ。
いつか、同じ月の光の下で――
その夜遅く、駅前の広場に戻った彼女は歌う。
なぜ泣きたいのか、歌で理由を探す。
離れていても同じ光を分け合う歌。
壊れそうな心を真っ直ぐ受け止める歌。
眼差しを曇らせないでと願う歌。
それらは全て、彼に向けた歌だった。
歌い終えた後、広場の電光掲示板が微かに点滅した。
誰にも気づかれないほど小さく、確かな合図。
――記録完了。
――都市層・レヴィーンシティ・二。
ミラは目を閉じた。
月は見えない。
それでも、彼の灰色の目を思い出すことはできた。
それで、十分だった。
fin.
【短編】EYES NEVER LIE 〜月の見える街で〜 Maya Estiva @mayaestiva
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます