こてつのへや
小河彰護
第一回 ケツァルコアトル 第一話
虎徹は十五秒後にドアを閉めた。
それから激しく混乱し、その場に立ち尽くし、一瞬、自分はこの際死んでしまって、ドアの向こうはいわゆる天国なのではないかと考えた。しかし、高校からの帰り道にトラックに
(脳が
気を取り直してドアノブを握ると、彼は、だいぶ慎重にドアを引き……正味数センチメートルの隙間から、祈るような気持ちで、向こうを垣間見た。
一面の花畑であった。
椎名林檎の「幸福論」の
虎徹は気が遠くなる思いがした。にわかには信じられなかったし、信じたくもなかったが、結論として、彼の目に映り、耳に届き、頬をかすめ、鼻に香る光景は、彼にとっては疑いようのない現実であった。
自分がいかれてしまったのか、それとも世界がいかれたのか、彼にはてんで見当もつかなかった。けれども、なんとなく、このことは、誰にも話してはいけないという気がした。
椎名林檎が歌いだしてすぐ、「幸福論」の演奏が突然ぷつりと止んだ。
静寂の中を、そよ風がさらさらと花々をくすぐる音が吹き抜けていく。
とそこへ、
「おい、」
出し抜けに、虎徹の足元、のだいぶ下の方から、男のものとも女のものともつかない、中性的な呼び声がした。驚いた彼がそちらに顔を向けると、花畑への入り口からゆるやかに伸びている飛び石の下り階段の先に、広い長方形のウッドデッキがあって、声の主が、掃き掃除の手を止めて彼のことを見上げていた。
「入んのか、入んないのか、どっちかにしろよ。何回も曲が鳴ってやかましい」
声の主は、伸ばした黒髪を後ろでひとつに束ね、男とも女ともつかない、整った顔立ちをしていた。地味な
虎徹は思わず、数秒見とれてしまった。
せっかちな声の主はしびれを切らして、
「入んの? 入んないの? どっち!」
と若干語気を強めて迫った。虎徹は慌てて、
「っは、入ります、すみません」
ドアをすっかり開けて、そそくさと、リュックサックをしょったまま、靴下のままで、花畑の飛び石へ一歩踏み出した。それから後ろ手で、ほんの少し隙間を残してドアを閉めた。完全に閉めてしまうと、二度と出られないような気がしたからだ。
「……、失礼、しまぁす」
「どうぞ」声の主が素っ気なく応じる。
虎徹はおそるおそる、飛び石をひとつひとつ降りていった。その度に、名も知らない
声の主は、虎徹の学生学生した詰め襟姿をざっと眺めたあと、
「おまえ、『お客様』?」と問うてきた。
「おきゃ、おきゃくさま?」虎徹は意味が分からず、おうむ返しした。
「ここに話をしに来たのか、って聞いてんの」声の主は慣れた様子で、やや投げやり気味に説明した。「もしそうなら、悪いけど、ここはやってないよ。『司会』がいないから。……ま、せっかくたどり着いたんだろうから、飲み物のひとつぐらいは出してやるよ。何がいい?」
「あっ、あの、えっと、」
「あ?」
「おれ、あの、」
なんとか虎徹は、今の自分の不条理な状況を説明しようとしたけれども、なかなか言葉にできずに苦労した。「おれは、その、学校から、家に帰ってきた、んです。確かに、帰ってきました。そこまでは良くて、……おれの部屋、に、入ろうとしたら、ここ、だったんです」
「……何が言いたい?」
向こうが眉をひそめる。「話をしに来たんじゃねえのかよ。じゃあ、たまたま、おまえの世界と繋がっただけじゃねえの。ここには何もないし、俺にも用はねえよ。さっさと帰んな」
「帰る、って言われても、えっと、ここが、おれの部屋で……」
「知ったことかよ」声の主は突き放した。「たまたま繋がっただけなら、そのうち元に戻るだろうさ。おまえん
「しばらく、って、どれ、どれくらい……」
「知らん。一分か、一日か、一年か、十年か……。おまえの寿命になっても戻んないかも」
「っそ、それは、困る……」
「とりあえず、早くここから出なよ」声の主は冷ややかに笑って、虎徹を急き立てた。「あそこのドアとこの『セット』の繋がりが切れちまったら、おまえ、元の世界に帰れなくなるぜ」
「えっ、あっ、かっ、……帰ります」
「そうしな。もう二度と来んなよ。じゃあな」
「はっ、はい、」
虎徹はすごすご一礼し、声の主はそれを軽く払いのける仕草で返した。もう一度頭を下げたあと、彼はきびすを返してウッドデッキを降り、言われるがまま、速やかに退散すべく、元来た石段をとんとん登りはじめた。
そのときだった。
虎徹の中にひとつ、何気ない疑問がぷかり、と浮かび上がった。
ここから出たら、もう二度と聞く機会がないと思った。それで、丘の中程で、本当に何気なく振り返って、声の主へ、「あのう、」と呼びかけた。
「あ?」めんどくさそうな返事。
「あの、その、――なんで、椎名林檎の曲を使ってるんですか?」
「……!」
声の主は、虎徹の問いに、にわかに血相を変え、衝撃をあらわにした。
「今、なんつった?」
「えっ、いや、……」
急におっかない顔をされたので、何か
「ぐえ」アヒルみたいな声が出た。
「今、誰の曲っつった?」
声の主は、宙に浮いていた。
靴底からごうごうと青い光を吹かして、何もない空中、虎徹より少しだけ高い位置で、飛び上がった体勢のままぴたりと静止しながら、彼の体を、詰め襟をつまんで片手ひとつで持ち上げていたのだった。
「
「あ、
いかにも悪気なさそうにぱっとあっさり解放されたので、心底
「しーな・りんごって言ったな?」
声の主が空中から彼を見下ろして、答えを迫る。「そう言ったんだな?」
「はっはい、言いました、言いました」虎徹はすっかり気圧されて、ただがくがくと
「しーな・りんごの、なんていう曲だ?」
「えっと、っこ、……『幸福論』」
「マジか!」声の主が、
そして、すとんと虎徹の一段下の石に着地すると、その勢いで、がしりと彼の両肩を掴んだ。
「ぶえっ」
身をすくませた虎徹に、声の主は、同じ高さの目線で瞳を
「おまえがここの『司会』だ!」
「っし、しかい?」
「そうだ! おまえはこの『セット』で、『お客様』を相手に話をする、一万年に一人の対談の達人としてやって来たんだ」
「たいだ、たいだん、って何……」
「話をするんだよ!」声の主の熱は冷めない。「いろんな世界から、時空を超えてやって来る『お客様』と、差しで話をして、向こうの魅力を引き出して、良い気分で帰ってもらう。おまえにはその才能があるんだ」
「やっ、そっ、そういう才能は、ない……」
「あん?」
「おれ、おれは、話す才能は、ない、全然ないので、」虎徹は精一杯、眼鏡の奥の目を伏せてそらして、声を絞り出すように言った。「たぶん、人違いだと、思い……」
「俺に仕込まれた
声の主は全く聞く耳を持たなかった。「
「あの、だから、おれは、お呼びでない……」
「おまえの気持ちは知らん!」たじろぐ虎徹のことを一蹴して、「けど、俺は動きだすからな。とにかくおまえに、『司会』、やってもらうぜ!」
ぽんと彼の両肩を
「やっ、やりません。やり、やりたくないです」
虎徹が顔をこわばらせながら、拒否の意思表示をしても、声の主はお構いなしで、ほとんど引きずるようにウッドデッキに彼を連れてきて、リュックサックを引っぺがしてデッキの外に放ると、デッキ中央にあるソファとガラステーブルの応接セットの、一人掛けのソファの前に立たせた。そして、テーブルの上に置かれていた小さなトランシーバーのようなものを二つ、手際よく彼のベルトに取り付け、そこから細いケーブルで伸びたイヤホンを彼の右耳にはめ、ピンマイクを詰め襟に挟み、自分もヘッドセットを装着したあと、「よし!」とひとり勝手に満足そうに笑んでみせた。それから、終始困惑している虎徹へようやく、
「その席に座んな」と指示した。
「あの、おれ、できないです」虎徹はおずおずと腰かけ、改めて訴えた。「無理、無理です」
「とか言いつつ、座ったじゃん」
「あっじゃあ座らないです」虎徹は速攻立ち上がった。
「ビビりのくせに頑固だなあ」
声の主は腰に手を当てて、仁王立ちで虎徹へ向かって言った。
「――俺の名は、オリオン。この『セット』の管理者だ。おまえの名は?」
「っこ、虎徹」彼は反射的に答えてしまった。「凪白虎徹」
「こてつか。よし分かった」
オリオンと名乗った声の主は頷くと、くるりと後ろに翻り、ウッドデッキの外へ、大声で、
「はい! 『司会』のこてつさん入りましたあ!」
と呼びかけた。
すると、草花の茂みの深みの中から、うぃーん、という駆動音とともに、一台、テレビ局のスタジオにありそうな、黒い大型ビデオカメラが浮上してきた。三脚をひたすら伸ばしてマイペースに上昇し、ちょうど、デッキの上に立つ虎徹の背と同じくらいに達したところでようやく止まった。結果、三脚は異様な高さになってしまい、明らかにカメラ本体とバランスが不釣り合いである。何故か、スケッチブックがカメラ本体にひもでくくりつけられ、【ビデオカメラです】と、言われなくても分かるようなことが大きく走り書きされていた。
誰に操作されるでもなく、顔面より大きなレンズが虎徹に向けられると、カメラ本体上部の赤いランプが短く二回、点滅した。そして、スケッチブックがひとりでに一枚破れ落ち、【大歓迎】と書かれた面をあらわにした途端、どこからともなく、拍手の洪水が湧きあがった。
「ビデオカメラもおまえを、『司会』だって認めたよ。これで決まりだ」
動揺して辺りを見回す虎徹の方へ向き直って、オリオンはにやりとして問うた。
「どうする? そこの椅子に縛り付けてやろうか? それとも自分の意志で座るか?」
虎徹は答えられなかった。
このとき、彼はまだ知らなかった——このビデオカメラの赤いランプが、これから彼の時間を三十分単位で区切り続けることになることを。
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