こてつのへや

小河彰護

第一回 ケツァルコアトル 第一話

 凪白虎徹なぎしろこてつがおのれの部屋のドアを開けると、一面の花畑であった。

 椎名林檎しいなりんごの「幸福論」の序奏イントロが高らかに鳴り渡る中、まばゆい陽の光がなだらかな丘いっぱいに降りそそぎ、心地よいそよ風が、無数の黄色い花々をでていた。

 虎徹は十五秒後にドアを閉めた。

 それから激しく混乱し、その場に立ち尽くし、一瞬、自分はこの際死んでしまって、ドアの向こうはいわゆる天国なのではないかと考えた。しかし、高校からの帰り道にトラックにかれたりとか、トラックに轢かれたりとか、……彼はいろんな場面シチュエーションを思い浮かべられるほど想像力が豊かではなかったけれども、とにかく、不慮の事故に巻き込まれた記憶は毛頭なく、ついさっき、キッチンで夕食の支度をしている母親にただいまを告げ、普通に階段を上りきり、いつものように二階のおのれの部屋に舞い戻ろうと、ドアを開けただけなのである。階下からは、母親が動き回る物音と、テレビが流す夕方の地元情報ローカルワイド番組の音声が漏れ聞こえてくる。

(脳がバグったんだ、きっと)

 気を取り直してドアノブを握ると、彼は、だいぶ慎重にドアを引き……正味数センチメートルの隙間から、祈るような気持ちで、向こうを垣間見た。

 一面の花畑であった。

 椎名林檎の「幸福論」の序奏イントロが再びはじまった。

 虎徹は気が遠くなる思いがした。にわかには信じられなかったし、信じたくもなかったが、結論として、彼の目に映り、耳に届き、頬をかすめ、鼻に香る光景は、彼にとっては疑いようのない現実であった。

 自分がいかれてしまったのか、それとも世界がいかれたのか、彼にはてんで見当もつかなかった。けれども、なんとなく、このことは、という気がした。

 椎名林檎が歌いだしてすぐ、「幸福論」の演奏が突然ぷつりと止んだ。

 静寂の中を、そよ風がさらさらと花々をくすぐる音が吹き抜けていく。

 とそこへ、

「おい、」

 出し抜けに、虎徹の足元、のだいぶ下の方から、男のものとも女のものともつかない、中性的な呼び声がした。驚いた彼がそちらに顔を向けると、花畑への入り口からゆるやかに伸びている飛び石の下り階段の先に、広い長方形のウッドデッキがあって、声の主が、掃き掃除の手を止めて彼のことを見上げていた。

「入んのか、入んないのか、どっちかにしろよ。何回も曲が鳴ってやかましい」

 声の主は、伸ばした黒髪を後ろでひとつに束ね、男とも女ともつかない、整った顔立ちをしていた。地味な作務衣さむえ姿だから、なおさら性別が分かりにくい。結構な細身に長身である。

 虎徹は思わず、数秒見とれてしまった。

 せっかちな声の主はしびれを切らして、

「入んの? 入んないの? どっち!」

 と若干語気を強めて迫った。虎徹は慌てて、

「っは、入ります、すみません」

 ドアをすっかり開けて、そそくさと、リュックサックをしょったまま、靴下のままで、花畑の飛び石へ一歩踏み出した。それから後ろ手で、ほんの少し隙間を残してドアを閉めた。ような気がしたからだ。

「……、失礼、しまぁす」

「どうぞ」声の主が素っ気なく応じる。

 虎徹はおそるおそる、飛び石をひとつひとつ降りていった。その度に、名も知らない可憐かれんな花々のかぐわしい香りがぐんと深まっていく。ウッドデッキまでたどり着いて、舞台に上がるように小さな階段を三段踏みしめ、ようやく声の主と同じ場に立った。そよ風が二人の間を吹き抜ける。

 声の主は、虎徹の学生学生した詰め襟姿をざっと眺めたあと、

「おまえ、『お客様』?」と問うてきた。

「おきゃ、おきゃくさま?」虎徹は意味が分からず、おうむ返しした。

「ここにのか、って聞いてんの」声の主は慣れた様子で、やや投げやり気味に説明した。「もしそうなら、悪いけど、ここはよ。『司会』がいないから。……ま、せっかくたどり着いたんだろうから、飲み物のひとつぐらいは出してやるよ。何がいい?」

「あっ、あの、えっと、」

「あ?」

「おれ、あの、」

 なんとか虎徹は、今の自分の不条理な状況を説明しようとしたけれども、なかなか言葉にできずに苦労した。「おれは、その、学校から、家に帰ってきた、んです。確かに、帰ってきました。そこまでは良くて、……おれの部屋、に、入ろうとしたら、ここ、だったんです」

「……何が言いたい?」

 向こうが眉をひそめる。「話をしに来たんじゃねえのかよ。じゃあ、たまたま、だけじゃねえの。ここには何もないし、俺にも用はねえよ。さっさと帰んな」

「帰る、って言われても、えっと、ここが、おれの部屋で……」

「知ったことかよ」声の主は突き放した。「たまたまだけなら、そのうち元に戻るだろうさ。おまえんでしばらく待ってな」

「しばらく、って、どれ、どれくらい……」

「知らん。一分か、一日か、一年か、十年か……。おまえの寿命になっても戻んないかも」

「っそ、それは、困る……」

「とりあえず、早くここから出なよ」声の主は冷ややかに笑って、虎徹を急き立てた。「あそこのドアとこの『セット』のが切れちまったら、おまえ、に帰れなくなるぜ」

「えっ、あっ、かっ、……帰ります」

「そうしな。もう二度と来んなよ。じゃあな」

「はっ、はい、」

 虎徹はすごすご一礼し、声の主はそれを軽く払いのける仕草で返した。もう一度頭を下げたあと、彼はきびすを返してウッドデッキを降り、言われるがまま、速やかに退散すべく、元来た石段をとんとん登りはじめた。

 そのときだった。

 虎徹の中にひとつ、何気ない疑問がぷかり、と浮かび上がった。

 ここから出たら、もう二度と聞く機会がないと思った。それで、丘の中程で、本当に何気なく振り返って、声の主へ、「あのう、」と呼びかけた。

「あ?」めんどくさそうな返事。

「あの、その、――なんで、椎名林檎の曲を使ってるんですか?」

「……!」

 声の主は、虎徹の問いに、にわかに血相を変え、衝撃をあらわにした。

「今、なんつった?」

「えっ、いや、……」

 急におっかない顔をされたので、何かしゃくに障ったのかと思って、「なんでもないです、すみません」と虎徹が話を打ち消し、再びウッドデッキに背を向けると、その背後の低い位置からきゅいいん、というかすかな通電音が耳に届いて、次の瞬間、ぼう、という低い噴射音とともに、いきなり気配が突風になって襲いかかり、彼の襟首をぐいとつかんだ。

「ぐえ」アヒルみたいな声が出た。

「今、っつった?」

 声の主は、

 靴底からごうごうと青い光を吹かして、何もない空中、虎徹より少しだけ高い位置で、飛び上がった体勢のままぴたりと静止しながら、彼の体を、詰め襟をつまんで片手ひとつで持ち上げていたのだった。

ぐびぐび、」地に着くか着かないかの足をじたばたさせる虎徹。「まる……」

「あ、わりぃ」

 いかにも悪気なさそうにぱっとあっさり解放されたので、心底安堵あんどのため息をついた虎徹は、いったい何事かと後ろを向いた結果、すぐ目と鼻の先に、声の主の目鼻があったせいでしこたまたまげて、「ひい!」と悲鳴をあげた。

って言ったな?」

 声の主が空中から彼を見下ろして、答えを迫る。「そう言ったんだな?」

「はっはい、言いました、言いました」虎徹はすっかり気圧されて、ただがくがくとうなずいた。

の、なんていう曲だ?」

「えっと、っこ、……『幸福論』」

「マジか!」声の主が、驚愕きょうがくを通り越して、歓喜をあらわにした。「マジかあ! のかあ!」

 そして、すとんと虎徹の一段下の石に着地すると、その勢いで、がしりと彼の両肩を掴んだ。

「ぶえっ」

 身をすくませた虎徹に、声の主は、同じ高さの目線で瞳を煌々こうこうと輝かせ、力強くこう告げた。

「おまえがここの『司会』だ!」

「っし、しかい?」

「そうだ! おまえはこの『セット』で、『お客様』を相手にとしてやって来たんだ」

「たいだ、たいだん、って何……」

んだよ!」声の主の熱は冷めない。「いろんな世界から、時空を超えてやって来る『お客様』と、差しで、向こうの魅力を引き出して、良い気分で帰ってもらう。おまえにはその才能があるんだ」

「やっ、そっ、そういう才能は、ない……」

「あん?」

「おれ、おれは、話す才能は、ない、全然ないので、」虎徹は精一杯、眼鏡の奥の目を伏せてそらして、声を絞り出すように言った。「たぶん、人違いだと、思い……」

「俺に仕込まれた筋書スクリプトが目覚めたんだ! 運命はおまえを指名した!」

 声の主は全く聞く耳を持たなかった。「筋書スクリプトはこうだ。【『セット』の来場音をの『幸福論』と知る者きたるとき、なんじ、その者を『セット』の『司会』として迎え、『番組』の始まりに備えるべし】。――俺はこのときを、ずっと待っていた! そうだなあ、正味八千年くらいは待っていた!」

「あの、だから、おれは、お呼びでない……」

「おまえの気持ちは知らん!」たじろぐ虎徹のことを一蹴して、「けど、俺は動きだすからな。とにかくおまえに、『司会』、やってもらうぜ!」

 ぽんと彼の両肩をたたいたあと、声の主は彼の右手首を握り、有無を言わさない剛力でその手を引いて、彼を丘のふもとへ引き返させた。

「やっ、やりません。やり、やりたくないです」

 虎徹が顔をこわばらせながら、拒否の意思表示をしても、声の主はお構いなしで、ほとんど引きずるようにウッドデッキに彼を連れてきて、リュックサックを引っぺがしてデッキの外に放ると、デッキ中央にあるソファとガラステーブルの応接セットの、一人掛けのソファの前に立たせた。そして、テーブルの上に置かれていた小さなトランシーバーのようなものを二つ、手際よく彼のベルトに取り付け、そこから細いケーブルで伸びたイヤホンを彼の右耳にはめ、ピンマイクを詰め襟に挟み、自分もヘッドセットを装着したあと、「よし!」とひとり勝手に満足そうに笑んでみせた。それから、終始困惑している虎徹へようやく、

「その席に座んな」と指示した。

「あの、おれ、できないです」虎徹はおずおずと腰かけ、改めて訴えた。「無理、無理です」

「とか言いつつ、座ったじゃん」

「あっじゃあ座らないです」虎徹は速攻立ち上がった。

「ビビりのくせに頑固だなあ」

 声の主は腰に手を当てて、仁王立ちで虎徹へ向かって言った。

「――俺の名は、オリオン。この『セット』の管理者だ。おまえの名は?」

「っこ、虎徹」彼は反射的に答えてしまった。「凪白虎徹」

か。よし分かった」

 オリオンと名乗った声の主は頷くと、くるりと後ろに翻り、ウッドデッキの外へ、大声で、

「はい! 『司会』のさん入りましたあ!」

 と呼びかけた。

 すると、草花の茂みの深みの中から、うぃーん、という駆動音とともに、一台、テレビ局のスタジオにありそうな、黒い大型ビデオカメラが浮上してきた。三脚をひたすら伸ばしてマイペースに上昇し、ちょうど、デッキの上に立つ虎徹の背と同じくらいに達したところでようやく止まった。結果、三脚は異様な高さになってしまい、明らかにカメラ本体とバランスが不釣り合いである。何故か、スケッチブックがカメラ本体にひもでくくりつけられ、【ビデオカメラです】と、言われなくても分かるようなことが大きく走り書きされていた。

 誰に操作されるでもなく、顔面より大きなレンズが虎徹に向けられると、カメラ本体上部の赤いランプが短く二回、点滅した。そして、スケッチブックがひとりでに一枚破れ落ち、【大歓迎】と書かれた面をあらわにした途端、どこからともなく、拍手の洪水が湧きあがった。

「ビデオカメラもおまえを、『司会』だって認めたよ。これで決まりだ」

 動揺して辺りを見回す虎徹の方へ向き直って、オリオンはにやりとして問うた。

「どうする? そこの椅子に縛り付けてやろうか? それとも自分の意志で座るか?」

 虎徹は答えられなかった。

 このとき、彼はまだ知らなかった——このビデオカメラの赤いランプが、これから彼の時間を三十分単位で区切り続けることになることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る