新宿夏目坂通り探偵社〜虚(うつろ)の階〜

兒嶌柳大郎

第1話 鉄の匂い

新宿・夏目坂通り。

雑居ビルの三階にある探偵社の扉が、静かに開いた。

午後の光が差し込む中、事務机に座っていた四方田美咲は、来客の気配に顔を上げた。


「ご相談ですか?」


男は深く頭を下げた。

スーツの襟は少しよれており、目の下には濃い隈が刻まれている。


「佐野亜紀という女性の婚約者です。彼女が……消えました。西早稲田のビルで、深夜残業のあと……」


美咲は、差し出された写真を受け取った。

そこには、笑顔の女性が写っていた。

だが、美咲の指先は、写真に触れた瞬間に震えた。


「……鉄の匂いがします」


男が怪訝そうに顔を上げる。


「え?」


美咲は写真をそっと机に置いた。


「そのビルには、もう近づかないほうがいいと思います。何か……普通じゃない」


男は、言葉を失ったように黙り込んだ。


その時、奥の扉が開いた。

白髪混じりのスーツ姿の男が、静かに現れる。


「夏目剛です。所長をしております」


男――佐野浩二は、すがるような目で夏目を見た。


「警察は、彼女が自ら姿を消した可能性が高いと言って、捜査を打ち切ろうとしているんです。でも、そんなはずはない。彼女は、そんな人じゃない」


夏目は、机の上の写真を手に取った。

その目が、わずかに細められる。


「西早稲田の雑居ビル。7階からエレベーターに乗ったのが最後の記録。1階で降りた映像はない。出入り口は施錠済み。階段の利用もなし……」


彼は、低く呟いた。


「密室での消失……“神隠し”か」


美咲が息を呑む。

夏目の声が、どこか遠くを見ているようだった。


「5年前、私の息子も……同じように消えました。自宅近くの路地で。監視カメラには、空間が歪んだような映像が残っていた。植物が、一瞬で季節を変えたように枯れていた」


浩二が驚いたように顔を上げる。


「それって……」


夏目は頷いた。


「科学では説明できない“ズレ”が、そこにはあった。私は、警察を辞めてから、そういう事件を専門に扱っている」


彼は、写真を机に戻し、静かに言った。


「依頼、引き受けましょう。佐野亜紀さんの失踪は、私たちにとっても……意味のある事件です」


美咲は、そっと立ち上がり、奥の資料室へ向かった。

そこには、情報分析担当の蓮見怜がいた。


「蓮くん、西早稲田の雑居ビル。過去に何か、変な噂とかない?」


蓮は、無言でキーボードを叩き始めた。

モニターに映し出されたのは、古い掲示板の書き込み。


〈あのビル、夜中にエレベーター乗ると、階数表示が消える〉

〈B1より下に行ったって言ってる人がいた。ありえないけど〉

〈鉄の匂いがするって、みんな言う〉


蓮は、静かに言った。


「“虚の階”って呼ばれてるみたいですね。正式な図面にはないけど、昔の修繕記録に“B2・機械室”って記述が一瞬だけ出てくる」


美咲は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「鉄の匂い……やっぱり、あの写真から感じたのは、間違いじゃなかった」


蓮は、モニターを見つめながら呟いた。


「この事件、普通じゃないですよ。何かが、動いてる」

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