第2話 他の発達障害との初めての出会い
三十七歳、無職、彼氏もなし、十七年ずっと引きこもり。大学も行ったが中退した。
病院帰りの道を八木あかり(ヤギアカリ)はとぼとぼと歩いていた。
「……先生に悪いことした」
泣き喚いて随分長い間慰めてもらった。あとの患者は迷惑に思っただろうか。また診察に行ってもいいのだろうか。
(これからどうしよう……)
ふとショーウィンドウに映った自分の姿を見る。とても太っている。体重計には長い間乗
ってない。確か身長は最後に測った時は十六〇センチだったから中背ではあるが中肉とはとても言えまい。
腰まで伸びた髪は美容室に行くのが嫌だからだ。前髪も伸びすぎていたが自分のニキビだらけの顔を思うと隠しておきたかった。
発達障害だと分かった。ずっとどうして普通になれないのか分からなかったことが分かった。普通にできないのは特別な怠け者なのではなく、自分の人格の問題ではないと分かった。それ自体はほっとした側面がある。
けれどだったらなんなのだろう。三十七歳まで引きこもりだったあかりはもう手遅れではないだろうか。発達障害の診断をしたからといって今更なんになるだろう。
(だからって診断されないまま何か解決したわけじゃないけど……これからどうやって生きていこう)
そもそも障害者ってどうやって生きているのだっけ? 障害者とは自分とは全く違う、テレビの向こうの存在だと思っていた。障害者のことは何も知らない。
(せめて二十代の時に診断されてたら私だって……)
カサリと音が聞こえてあかりははっと足を止めた。
目の前に淡い緑色とオレンジ色のチラシが一枚落ちていた。拾うか迷っていると白い手がそれに伸びた。
「ごめんなさいね、落としちゃったの」
「あ……あ」
情けないが全くの他人に話しかけられてあかりはうまく言葉が出なかった。ずっとネットのチャットだけで現実の人間と話していなかったのだ。
チラシを拾ったのは上品な老婦人だった。絵本に出てくる優しい魔法使いのような柔らかな顔立ちをしている。真っ白な髪を肩まで伸ばし、くるぶしまである長袖の黒いワンピースを着て、赤いチェックの毛織りのショールを羽織っている。
そして花柄の杖をついていて地面のチラシを拾うのに膝を曲げるのが辛そうだ。膝が悪いのだと思うとあかりは自然と声が出た。
「あ、あ……私、拾います」
あかりは屈み、チラシを拾いあげた。そして目を見開いた。そこには「発達障害」という単語が印刷してあった。
「拾ってくれてありがとう」
あかりがハッとするとチラシは老婦人の手の中にあった。しかし発達障害? この優しそうな老女に発達障害になんの関係があるのだ。
「昔みたいにいかないものね、張り紙一つ貼るのも足が悪いと思い通りにいかない」
「あ、あの、あなたは発達障害になにか関係があるんですか?」
「私?」
「えっと、チラシに書いてるあるの見ちゃって……その、最近、て、テレビとかでやってるから」
舌がもつれて子供みたいな喋り方になってしまった。だが現実に発達障害に関係ある存在を見つけたと思うと放っておくことはできなかった。老婦人は微笑むとさらりと言った。
「関係も何も私は発達障害よ〜」
「ええっ!?」
あかりは声をあげてしまった。初対面なのにかなり失礼だ。
しかし老婦人は自分とはかけ離れた優雅な存在に見えた。とても障害者には見えない。いや、障害者がなんなのか真面目に考えたことはないが。
「ええってなに? そんなに驚くことかしら?」
「だ、だって障害者に見えないし……」
老婦人は優雅な空気を纏い、どちらかというと上等な人間に見えた。その発想に自分は無意識に障害者を下に見ていたのだと愕然とした。
「発達障害は見えにくい障害なのよ、テレビでは言ってなかった?」
「っ……私も発達障害なんです!」
気がつくと叫んでいた。初対面の相手にいきなりと思っても止められなかった。
「わ、私、さっき診断されたばかりで……でも、もう三十七歳なんです。今更、診断されたってなんの意味があるんでしょう?」
こんなことを言ってなんになる。あかりの目端には涙が滲んでいた。老婦人は目を丸くしてじっとあかりを見ると口を開いた。
「診断はゴールじゃなくてスタートよ。診断は診断。これからどうするかが大切よ」
「でも、私、し、仕事もしてなくて、それなのに三十七歳で」
「それにごめんなさいね、私から見たらあなたはとても若くしか見えないの。今からできることたくさんあるわ」
「それは……そうかもしれないけど」
老婦人はにこと笑うとすっとさっきのチラシを差し出した。
「これから発達障害のことを知ってみるのはどうかしら?」
チラシには「発達障害の自助グループ」とポップなフォントで書いてあった。日付は二週間後の日曜日。会場と書かれた場所はそう遠くなかった。
「自助グループ……ってなんですか?」
「発達障害の人が集まってお喋りしたり、情報交換する会よ」
よかったらいらっしゃい。歓迎するわ。
そう言って老婦人は優しい魔法使いのような笑みを纏って去っていった。まるでメリーポピンズだとあかりは彼女の背中を見つめた。
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