ここはとてもとても大きな階段の踊り場で、わたしたちはそこでずっと話していた

伊藤優作

ここはとてもとても大きな階段の踊り場で、わたしたちはそこでずっと話していた

 ぼくのうちは天国にあったんだけど

 取り壊されちゃった

 外出届をきちんと出して

 ちょっと地上へお使いに行っただけ

 でさ、ぼくのうちは

 取り壊されちゃったんだ

 けっこう気に入ってたのにな


 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★


「2500!2600!2700!2800!2900!3000!3000!ありませんか!では3000で23番さん落札です続いて44ページ『あびびるの哀しみ』5000から」

「6000!6100!6500!7000!7000!はい7000で18番さん落札!」

「95番さん落札続きまして出ました『木村前頭前哉の芯からの怒り』88ページ!100000からです!110000!」

(あーきついな……)

(強ぇっすよねえ『あなたの思いをそのまま聞かせて』。マシンみたいに次々)

(まああれは昔からなあ……それよりほら、今の18番、あれ誰?)

(『敗北は選択肢ではない』らしいっす)

(力強いやつが入ってきたな。お前もうかうかしてられんだろう)

(『元気があればなんでもできる』さんほどじゃないっすよ)

(言うねえ)

 ホールには声があった。大きな声はホールに集まった人々によって練り上げられてきた独特の型があって、そこで使われるフレーズはとても少なかった。意味が形骸化したフレーズもあった。買い手たちは狙い目のブースでそれぞれいまから出品される品物の詳細を記したカタログを貰うのだが、ほとんどの買い手は1ページも開かない。そんなことではこのホールのスピードに追いつけないし、競売人だって読む時間を与えたりはしなかった。

 みんななにが出るか予感していたし、みんな欲しいものはカタログなんか見なくてもなんとなく分かっているのだった。

 そしてそのことをここにいる誰もが知っていた。

 数字について。

 誰も数字がなにを意味しているのか知らなかった。ただ、自分がどんな大きさの数字を言いたいのか、いまどこまで大きな数字なら言えるのか、トータルでいくらまで言えるのか、そしていえないのかをはっきり知っていた。知っていて上限をオーバーしてしまうこともあったのだが、そこまで含めて数字であることもみなが知っていた。

 買い手たちは数字を口にすることはなかった。多くの場合、両手の指で、いろんなかたちを組み合わせてサインを送ると、競売人たちがそれを素早く数字に変換するのだ。もちろん片腕がない買い手や両腕のない買い手、耳の聞こえない買い手もいた。指でサインを送ることのできない人たちや、指でサインを送りたくない人たちは、皆それぞれに独自の振り付けで踊った。たったひとつの数字を伝えるために。耳の聞こえない買い手は寝そべり、床に全身をできるだけぴったりとつけて、目当ての競売人の踏むステップが床に広げていく波紋のなかから、必要な情報、必要な波のかけらだけを正確に判別し、右手や左手を大きく宙に伸ばした。たったひとつの数字を伝えるために。

 そしてステップする競売人たちはそれらのサインをすべて瞬間的に、数字に変換することができるのだった。

 競売人の巨大な声は、音としては白いホールのなかを等質に拡がっていく波紋だった。だが声としては等質に受け取られるわけではなかった。この質の濃淡は発信源と受信元との間に繰り広げられるアンサンブルによって生まれ、そして消えていった。この濃淡の薄いところから買い手たちの密やかな声が生まれ、それもまた薄い曲線として波紋になるのだった。ホールはあまりに広かったので反響がほとんどなかった。それでも必要なところには必要なだけの波が、線が届くようになっていた。

 ホールとは、雨のない水たまりに、見えない雨粒がパラパラ落ちて波の輪がひろがっていく、そんな感じのことを意味しているらしかったが、ホールにとってこの一文は必要なかっただろう。

 競りは終わったことがなかったし、小さな声も止むことがなかった。そのせいか、落札者が落札したものを実際に受け取ったという話はついぞ聞かれたことがなかった。それでもみんなここにいようとしていた。たいていのひとにとって、ずっとそうだった。

『私は諸君を軽蔑している』と『元気があればなんでもできる』が密やかに会話をしていたところへ、ひとりの少年が近づいてきた。

「よお」

『元気があればなんでもできる』がそう声をかけ、『私は諸君を軽蔑している』は柔和な微笑みを浮かべた。

「お疲れ様です」

 少年はきわめて、きわめて礼儀正しくお辞儀をした。

 ふたりとも、少年とは長い付き合いだった。付き合いといってもこうしてホールの一角に集まって、話をするだけだったが。というか話すのはいつも『元気があればなんでもできる』と『私は諸君を軽蔑している』のふたりだけで、少年はいつも少年的な生真面目さを隠しきれない顔をして、ふたりの様子を交互に見ながら、ただただ話を聞いていた。そういったわけで、ふたりは今でも少年の名前を知らなかった。少年も名乗ることはなかった。

 ふたりとも、今日は様子が違うなと思った。

「ぼく、そろそろ降りようと思います」

「アガるんじゃねえのか?」

 少年は苦笑した。

「アガるって、ぼくは一度も落札したことがない。それ以前に、入札したこともないんですよ」

「そんなことは気にしなくていいんじゃない?」

 少年は『私は諸君を軽蔑している』の言葉には答えず、手に手を重ねたような形の、合わせて20本指の両手を静かに合わせた。唇の前で、花の蕾のように凝ったその色はガラスのように薄く、ホールが透けて見えそうだった。

「飽きたか」

「いえ」

 返事をして、少年は目を閉じた。鼻を抜ける安らかな息が蕾の指先にそよいで、すぐに息としてなくなり、小さな小さな空気の流れとなってホールの中をわずかばかりかき混ぜた。

「その気になったらまた戻ってくりゃいいさ」

「戻れるんですか、ここに」

「知らん、俺は出ていったことがないからな」

(160000!165000!168000!) 

 少年はふたたび、きわめて、きわめて丁寧なお辞儀をした。『私は諸君を軽蔑している』が右手を広げてわずかに振り、競売人はそれが入札のサインではないことを即座に判断する。目の見えない『元気があればなんでもできる』は『私は諸君を軽蔑している』の隣で、立ち去っていく少年の背中の方へ正確に顔を向けていた。

 そうして少年は第1ステップ目に右足をかけた。その音は「200000!210000!」という競売人の声にかき消されることなく、しかし受け取る者も少なく、ホール全体に音として広がっていった。ふたりとも少年を見つめることに集中していて、少年を聞いていなかった。わたしは数少ないその音の聞き取り手だったのだと思う。

 ここでの出来事をどういう風に表せばよいのだろうと悩んでいたのだが、こういう言い方ができるのかもしれない。つまり、ここはとてもとても大きな階段の踊り場で、わたしたちはそこでこのようにして、ずっと話をしていたのだ。

 


 



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ここはとてもとても大きな階段の踊り場で、わたしたちはそこでずっと話していた 伊藤優作 @Itou_Cocoon

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