幽世庵モノガタリ
Yumi
序幕
弱いかわりに、いつまでも降り続きそうな雨だった。
目を覚ました
境内を囲む竹林と、庭に植えた絵具の材となる草花の緑の匂いが、濡れて一層強く立ちこめていた。
思い返してみれば、愁水が
*
気がつくと、愁水は死人のような白装束姿で、汚泥のなかに立ちつくしていた。比喩ではなく、周囲は倒木と瓦礫の山で、巨石に守られたらしい
山間の城下町が一夜にして崩壊し、地図からも人の記憶からも消え去った――と知ったのは、後日のことだ。
「――
愁水は素足で泥を跳ね上げながら、足が傷つくのもかまわず、倒壊した鳥居の足元に走った。自分と同じように白装束を着せられた双子の妹が、うつ伏せに倒れている。
妹は、腕に何か――丸みのある、小さな生き物を大事そうに抱いていた。
狸かと思ったが、違った。
虎模様の太い四肢に、異様に鋭い爪、蛇のようにうねる二又の尾――。
「鵺か……?」
思わず腰にやった手が、虚しく空を掴む。
――何を、握ろうとした?
愁水は、その手を呆然と見つめ――足場が崩れるような感覚に、総毛立った。
自身と妹の名以外、何も思い出せなかった。
脳裏には妹の明るい笑顔が焼きついており、自分にとって大事な存在だということはわかる。
しかし、自分たちがどんな兄妹だったのか――どんな会話を交わしていたのか、まるで思い出せなかった。
それどころか、気を失う前の、己の行動さえも。
鵺という言葉一つとっても、その名をどこで知ったのかと考えると、靄がかかったように記憶が像を結ばない。愁水は、早々に諦めた。
――考えても仕方ねえな。とにかく、化物を引き離さねえと。
愁水は鵺の首根っこを掴んだが、手のなかでぐにゃりと潰れてしまいそうな頼りない感触に怯んで、すぐに手を放した。
こうも弱った姿を見せられると、これは庇護してやるべきモノだと認識してしまう。
――まずは、雨を凌げる場所まで運ぶか。飯は……その辺の野草でいいだろ。
まとめて面倒を見る覚悟を決めたとたん、鵺らしき化物はふっと煙のように掻き消えて、入れ替わるようにして妹が目を覚ました。
「おい、大丈夫か?」
「……愁水?」
愁水に似て切れ長の目が、愁水を認めて細くなる。
――縦長の瞳孔。
それは、獣の目だった。
しかし、浮かべている表情は怜悧で皮肉っぽく、知性を感じさせる。その落差が、愁水の背筋を凍りつかせた。
これは、妹ではない。
「お前は……なんだ? 俺の妹に取り憑いたのか?」
「――なんだ、だと? 私を人間の器に封じたのは、お前たちだろう。それとも、都合の悪いことは〈また〉忘れてしまったか?」
若い娘の姿には似つかわしくない、冷え冷えとした低い声音。
獲物に飛びかかる寸前の、凶暴な獣と対峙しているような緊張感に、肝が冷える。
しかし生来の負けん気が勝り、愁水は反対に食ってかかった。
「都合どころか、何も思い出せねえよ。おまえが何かしたんじゃないのか? ここはどこだ? なんで、何もかも壊れちまってるんだ?」
「……本当に、覚えていないのか」
いくつかの問いかけのあと、鵺は深いため息をつき――懐から筆を取り出して、愁水の手に放り投げた。
そのまま持っていろと告げて、鵺は鋭利な爪で自身の腕の皮膚をすっと切り、筆に血を落とす。
赤黒く、濁った血の色だった。とても人間の血とは思えないような。
その身体を傷つけるな、と愁水が噛みつけば、
「身体を返してほしければ、その筆に化物の力を吸わせることだ。魔の筆として完成させたときには――望みを叶えてやろう」
文字通り、人を喰いかねない剣呑な笑みを浮かべながら、鵺は笑ってそう言った。
筆と妹の身体に、何の関係があるというのか。
浮かんでくる数々の疑問を頭の隅に追いやって、愁水は筆を握りしめた。
もちろん、他に選択肢もなかったのだが。
「……いいぜ、やってやる。約束は守れよ。それで、どうやって化物の力とやらを吸わせるんだ?」
「単純だ。数多の化物を、その筆で描け。絵は得意だろう? その筆からは、お前の匂いがする」
——絵が得意?
それも思い出せなかったが、筆はたしかに、愁水の手に馴染むようだった。
「さあな。だがまあ、下手でもなんでも、やってやるよ。ただし、俺のほうも条件がある」
「度胸があるな。なんだ?」
「他の姿に化けられるなら、そうしてくれ」
「……若い娘のほうが、祓い屋の目を欺きやすくて助かるんだが」
愁水が睨むと、鵺はやれやれと言いたげに嘆息してから、おもむろに袖で顔を隠した。
「器は別として、私が化けられるのはこれだけだ。……文句は言うなよ」
愁水の物言いたげな様子を察して、鵺が釘を刺した。
現れたのは中性的で涼しげな美貌の、総髪の青年だった。異邦人に間違えられる類いではないが、顔立ちも整いすぎると化物じみてくる。
これでは、目立って仕方がない。笠でも被らせようかと思案したところで、追い打ちがきた。
「さて、まずは都を目指そうか」
「都って、江戸か? それとも京? なんで、わざわざ……」
「人が多ければ、どちらでもいい。知っているか? 化物は、人のいないところには現れないんだ」
「どういう意味だ?」
愁水の問いに、鵺は「いずれわかる」とだけ答えて、薄く笑った。
その時、愁水は胡散臭さの正体に気がついた。
諦念を感じさせる、無味乾燥な笑み――面白いことなど何もないのに、無理に笑っているのだ。
――気に食わねえな。
とにかく、そう思った。
それが愁水の覚えているかぎり、最も古い――〈最初の記憶〉というものだった。
*
「――愁水、いつまで寝ているんですか」
庵の外から、己を呼ぶ声がする。愁水が
口調を改め、神主の白装束に紫袴を纏った鵺は、なかなか様になっている。とはいえ、人間離れした端整な容姿で無駄に愛想を振り撒くため、日本橋の辺りでは若い娘を中心に、ちょっとした騒ぎになっている。
無暗に出歩くなと文句を言えば、今度は愁水の目を盗んで、水代の姿で食道楽を謳歌する始末だ。
妹はどちらかといえば童顔なのだが、人間の顔というものは表情一つで印象が変わるらしく、妖艶な笑みを浮かべた〈鬼のように美しい娘〉の噂話が、最近になって一人歩きを始めている。
「そろそろ起きてください。〈お客様〉ですよ」
もっともらしく澄ました声が、余計に憎たらしい。
「とっくに起きてる。ちっと待ってろ」
愁水は濃紺の着流しに袖を通し、黒羽織を無造作に肩にかけて欠伸をした。
こんなふうに、まだ霧深い早朝、あるいは黄昏時に人目を避けるようにして訪れる客は、平凡な絵の依頼者ではないと決まっている。
予想通り、切羽詰まったように「化物を退治してくれ!」と客が訴えかけてくるのを、愁水は凄んで黙らせた。
「――いいか、俺は祓い屋じゃねえ」
客は口ごもりながら、けれど、と恐る恐る反論する。
けれど、貴方は〈化物封じの絵師〉なのでしょう、と。
「封じるんじゃねえ、絵に宿らせるんだ。寄る辺のねえモノに
「さて、それではお話を伺いましょう」
嗣巳がつと手を伸ばして、愁水の口を背後からふさいでしまう。茶番のような毎度のやり取りを、江戸に居を構えてからのこの一ヵ月、飽きもせずに繰り返してきた。
幸い、〈こちら〉の客――化物絡みの依頼には困らなかった。化物が納涼のお遊びとなったいまでも――いや、だからこそ、化物騒動には事欠かないのだ。
江戸に行こう、と言い出した嗣巳は、あの後こうも言った。人の集まる場で怪異の引き起こす騒動を追っていれば、いつか〈目的のモノ〉にたどり着ける、と。
けれど、愁水の目的は、嗣巳の思うそれとは恐らく違う。
「……化物
正式に依頼者となった客が、恨みがましくこっそりと呟いた言葉を聞きつけて、愁水は唇の端に鋭い笑みを刻んだ。
ここ、鵺代神社の一角にある庵は、俗世と切り離されたような佇まいと主の家業の奇体さから、近隣では〈
これは化物が〈隣人〉で在り得た、最後の時代のモノガタリ―—。
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