石玉

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

せきぎょく

   石玉: 八坂卯野(せきぎょく:やさか うの)


 咥えた煙草にそっとマッチの火が添えられる。

 裸体の女の指先が赤々と燃えている、それは先ほどまで貪り合っていた肉体の熱を、洋一の心と肉体の一部を揺さぶった。

 火を受け入れながら、そっと、その形の良い乳房に触れると、女は少し困った顔をしながら、ちらりと時計に目をやった。

 行為の初めから4時間が過ぎようとしている。

 無論、彼氏・彼女などではない、行きずりの男女でもない、ただの夜慰みの男女だった。

「する?」

「どちらでも」

「同じね」

 洋子と呼ばれた女は、乳房に触れている手に自らの手を添える、柔らかな温かみと、女の熱が洋一の心身に男を沸かせる、咥えた煙草の吸い口を自らの唇より、洋子の唇へと差し出せば、戸惑うことなく咥えた洋子が、紫煙を吐き出すと、少しばかり満足そうに、洋一を見つめる。

 そして洋子はすっと考える、この男に幾度呼ばれ、そして呼んだのだろうと。

 フレームのない眼鏡と、細面で整った精悍な顔、慣れ親しんでしまった顎のラインに手を伸ばす、ざらざらとした髭の触りがひどく心地よく、指先を這わせてsweetpointを愛撫するようになぞる。

 よもや、こんな関係に陥ることになるとは、考えてもいなかった。

 理想的な家庭で育ち、理想的な就職と結婚をしたものの、最後は泥沼の破局で終わった人生より、3年の月日が過ぎたというのに。

 離婚直後は男女の関係など、もう二度と考えまいと決意したのだが、いつのまにか、その考えはどこかへと消え去っていて、今はただ、洋一に呼ばれること、洋一を呼ぶことが心地よい。

 関係の始まりにしても、多少の縁ほどもない居酒屋での偶然の出会い、酒の勢いがあったにせよ、一夜の情事は、深い結び目になって続いていた。 

 洋一の肌は28歳の若さに溢れていて、男だというのに筋肉の上を覆う皮膚は張りがあった。だが、洋子自らはどうだろう。42歳の女の肌は幾ら慈しんでみたとしても、戻ることなく刻々と失いつつある。不必要なところに幾ら奮闘をしても要らないものが付き、フェイスラインと端々の必要な張りが薄れゆく、鴉の濡れ羽色の長い髪も、化粧も、トリートメントのように気を遣う日々だ。

 それに性的なことが洋子にはなによりも苦手だった。もちろん、気持ちの高揚感も多幸感も性感も人並みにはある、けれど、体はそれを体現することを、表現することを苦手とした。

 拒んでいるわけではない、苦手なのだ。

 動じない女に大抵の男は興味を示さない、それは幼馴染の、元夫との関係で、深く思い知らされたことだった。

 心に深い絆の綱があったとしても、体が追いつかねば、小さな繊維がぽつりぽつりと、やがて縄が断ち切れるようになってしまう。

 いくら普段通りだったとしても、言葉を投げかけたとしても、男としての自信が、それによって瓦解してゆくのだろう、そんな男と世間はいうかもしれない、けれど、相手の満足度、つまり、もっとも自然体で、あけすけな、とでも例えるべき場で、相手の反応がないというのは、きっと苦しいことなのかもしれない。

 だからといって、不倫相手にのめり込み、あまつさえ、泥沼の離婚となったことは許せるものではないけれど。

 仕事に没頭し、帰りに居酒屋で飲み、そして、一人住まいの静かなアパートへ帰り着く、シャワーを浴び、明日の用意を整えて、眠りにつく。

 代り映えのしない毎日に、特段の不満はなかった、いや、なかったと言えば噓になる、破局は故郷と友人の多くを失うこととなった。どこをどう上手く取り繕ったのか、追われたのは洋子だったのだ。

 居酒屋で飲むことが、唯一の気晴らしとなっていた。新しいことを始める気力も、どうにも湧いてこない、仕事は捗る、けれど、私生活は……、考えるだけではなにも変化をもたらさない、だから、結局、尾を追いかけてクルクルと廻り続ける犬のようになったままでいた。

 つまらない事柄に囚われると、酒は深くなってゆく、そんなタイミングで出会ったのが洋一だ。

 カウンター席の端で深酒に染まり、女将に心配りをされた頃合いに、混雑した店内で唯一空いていた隣に腰かけた男。

 ちょうど酒精の微睡みに落とし込まれ揺らいだ洋子が、倒れそうになったのを支えたのが出会いだ。

 微睡みは瞬時に覚め、みっともないとの気恥ずかしさのままに詫びると、細面の精悍な顔が可愛らしく微笑んでくれる。

「気にしないでください、怪我がなくてよかったです」

 バリトンの心地よい声色に、気恥ずかしさが薄れ、お詫びにとばかりに新しい熱燗で酌をすると、遠慮がちに受け入れてくれた。

 あとはそのまま、互いに雰囲気のままに呑まれて、そして身を重ね合う。

 怖さはなかった、けれど、恙なく終われば、哀しみに身が染まる。

 演技でもすればよかったのだろうか、と落ち着いた故の後悔にベッドの中で囚われ時のことだ。

「すみません、反応、薄かったですよね」

「え?」

 最初は自らのことを指摘されたのだと洋子は考えたが、洋一の冴えない表情が、自身のことを指しているのだとやがて気がついた。

「私だってそうだったでしょ」

「いや、変な意味で捉えてほしくないけど、静かで心地よかったです」

「そ、そう?」

「ええ、僕は無表情だったと思うのですけど……」

「それは……どうかしら……」

 正直、気持ちは高ぶっていたし、若い力強さに余裕がなかったけれど、思い起こせば、確かに表情には乏しかったかもしれない。

「こんな話をここでするのもなんですけど、僕は反応が薄いらしいです、前の彼女にもそれが原因で別れることになってしまって、もし、傷つけたなら謝ります……」

 洋子を見つめる精悍な顔が悲壮に歪んでいる、そっと手を伸ばしてスッと顎のラインを、右手の四本の指を這わせて、一指一指を顎先より放してゆく。

「私も同じ、反応が薄かったでしょ?」

「そんなことないです」

「え?そうかな……」

 力強い否定だった。そう、意思をしっかりと秘めた拒絶を許さぬような否定が、耳障りよく響く。

「静かに、でも、深く、感じていましたよね、すごく嬉しかったな」

「そんなの、嘘よ」

 思わず口走るが、洋一の目が逃れを許さぬようにしっかりと洋子の瞳を見つめて、そして首を振った。

「嘘じゃない」

 腕が背後に回りしっかりと抱きしめられる、心が溶けそうなほどの温かさを秘めたぬくもりが、皮膚を突き抜けて、心にまで熱を伝えてゆく。

「嘘、うそよ……」

「嘘じゃないです」

 髪を撫でられ、胸元に抱かれる、優しい抱擁はさらに心身を温めながら包みこまれてしまうと、奥底でわだかまりのままに固まっていたものが、ゆっくりと、だが、着実に解きほぐされてゆく。

「私だって、同じ、幼馴染の夫に、これが原因で捨てられたのよ」

 洋一は何も口にしなかった、けれど、抱く力が幾分か増してゆく。

 誰かが聞いていたのなら、たかだかそんなことでと嘲笑ったかもしれない、些細なことだと馬鹿にしたかもしれないだろう。

 でも、互いの一番の苦しい胸の内を明かし合った二人にとって、負った傷の深さを計り知ることは造作もないことだった。

 そっと洋子は手を回して、洋一の身を抱きしめた、指先の爪が食い込むほどに強く、強く、抱くと、同じように背に柔らかな痛みがあった。

 小一時間ほど、そのままに解くことなく抱きしめ合い、やがて、連れ立ってシャワーを済ませ、身支度を整え、別れる。

 連絡先は聞かなかった。これで終わりなら、終わりでも良い、でも、通じ合ったものが確かなら、再び出会うことは間違いないと根拠のない確信が確かにあったのだ。

「洋子?」

 旅立っていた洋子の意識が現実世界のバリトンの声に呼び戻される。

「なに?」

「考え事?」

「ううん、ぼんやりとしていただけ」

「そっか、ならいいや」

 乳房を離れた洋一の手が、洋子の咥え煙草を取り上げて、灰皿へと押し付けられて役目を終えた。

 続きということなのだろうか、それとも眠るのだろうか。

 そもそも、どこまで続いていくのかは分からない。

 洋一との会話で洋子は言葉の端々に、期待を抱かせるようなニュアンスがあることには気がついているし、同じ思いを分不相応だと考えながらも抱いている。

 けれど、互いに一歩を踏み出すことができずにいることも、確かだった。

 互いが石玉なのだ。

 玉石ではない、宝石か、ただの石か、ではないのだ。

 互いが路傍の石のようなものでありながら、深い傷を持つ、それは人が見ればただの傷だ、けれど、洋子と洋一には、その傷の、切り口が玉のように輝いていることを知っている。

 傷や痛みで人は輝くことを、知っているのだ。

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石玉 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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