1-2 六月下旬。『自己愛』と『普通』

『自己愛』


 友人芥坂砂月(あくたざかさつき)にプレゼントされた、ピカソ風の首の長い僕の絵の裏には、そんな題名が書いてあった。


 隣の秋月桜(あきづきさくら)の席の上を通過して窓に映る自身の顔をじっと眺めている図。なるほど、この絵の題名として『自己愛』は捻りのない、ストレートな表現だろう。


 初めてその絵を目の当たりにした僕は、余りの衝撃に顔を真っ赤にした。まったく、奴がこういう人間だと未だに学習しないから、ああいう過剰反応をしてしまう。


 しかし就寝前、『自己愛』という題名の存在に気づいて、少し冷静になった。冷静になって、そのおかしさに気づいた。そう、僕、諸月草介(もろづきそうすけ)の抽象画としては、ちゃんちゃらおかしいのである。いや間違っている、と言った方が正しいだろうか。具体的には、僕を表した『何か』に『自己愛』と題したことがおかしいのである。間違っているのである。


 なぜなら、僕は自分の事が嫌いだからだ。根暗で自意識過剰なところが、嫌いで、嫌いで、嫌いで、嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで堪らないからだ。そんな僕を表した『何か』が『自己愛』だ。真逆もいいところではないか。醜悪な自分の鏡像を見つめるなんてどんな拷問だよ、って話である。


 ……なお、間違っているのは自分の方だと気づくのは、もう少し後のことである。


 むしろ先に明らかになるのは、奴ことアクタさんこと芥坂砂月が示した一枚目の絵、つまりは遺影という、『自己愛』以上に直接的な意味を孕んだ自画像が、直接的に僕の近い未来を暗示していたということであった。


***


『結局のところ秋月桜は普通に地球人なのでは?』


 ここまで読み進めた方々全員がそう思ったことだろう。語り手である僕自身も語っていてそう思えてならなかったし、もうそういう物語にした方が絶対に面白いだろ、という真っ当な見解にも全面的に同意である。ここまで秋月桜の独り言が全く出てこないどころか、彼女ご本人すら出てこないし。


 ただ現実として、少なくとも僕視点の現実として、秋月桜は確かに宇宙人であった。独り言が多く、それもうかつなことに彼女の星の彼女の国の言語で独り言を漏らしてしまう宇宙人の女子だったのである。


***


 長い黒髪。整った顔立ち。成績優秀。まさに、才色兼備。


 世話好き。聞き上手。何事にも一生懸命。頼れるクラスの委員長。それも二年連続で。


 僕の語彙力表現力のなさ故に凡庸な表現になってしまったが、秋月桜はまさにそういう人間である。何というか、本当に同い年の人間なのかってくらい、人間ができすぎている。普通と『普通』が異なるものであるとはいえ、よくもまあ僕は彼女のことを『普通』などと表したものである。友人に馬鹿にされたって文句も言えまい(地球人と見分けがつかないという意味も含めて『普通』と表したという言い訳は、今更ながらさせて頂きたい)。


 ただ、そんな彼女にも欠点というか、不可解なところがある。独り言が多いのはまあそうなのだけれども、しかしそれ以上に、少なくとも僕からしてみれば不可解なところがいくつかある。


 まず一例として、彼女が今年の学級委員長の相方に諸月草介という陰険で辛気臭い人間を選んだということである。一年生の頃の相方とはクラスが別れたとはいえ、当然候補は僕以外にもそれなりにいたはずだ。一部候補が部活や塾で忙しいと固辞した上での残りからの指名とはいえ、成績上位者やリーダー経験者など、僕より相応しい候補はそれなりに残っていたはず。にもかかわらず、彼女は僕を指名した。クラスの最底辺である僕を、指名した。本当に意味が分からない。


 推薦理由は「真面目だから」と。いやいや、僕以上に真面目で、僕にはないリーダーシップを持つ人間なんて他にいただろうに。


「ほら諸月くん、集中して」


 六月下旬、梅雨の中休みが明け、しとしと雨が続いている。その放課後、僕は秋月桜と教室にいた。来週に控えた期末テストに向けて、彼女が勉強を見てくれているのである。


 そう、これも秋月桜の不可解な行動である。たかだか僕ごときを学級委員長に据えた上に、このように何かと世話を焼いてくれるのだ。…いや、厚意に不可解は失礼か。いやでも、それにしたってたかだか僕相手にやる意味が…。


「も・ろ・づ・き・くん?」


 あ、しまった。いつもの癖で考えに耽ってしまっていた。


「ごめん、すこしぼーっとしてた」


「まだ始めて一時間でしょ。ほらもう少し頑張る」


 なるほど、まだ一時間か。秋月さんに勉強を見てもらっておいてこの体たらくとは、ほとほと自分のことが嫌になってくる。


「E'<=Z$F....」


 彼女は、独り言を言った。彼女の故郷の星の、故郷の国の言語で『いや、普通は…』と言った。


「あ。いや、もう一時間か。少し休憩する?」


 何かに気づいてから一転、彼女は声色を変えて、誤魔化すようにそんなことを提案してくる。


「いや、もう少し頑張る」と、僕は参考書に目を落とす。


「いや、無理しなくていいからね。無理に続けたって、かえって非効率だから」


 止められた。僕は素直に従って顔を上げる。


 秋月さんは参考書に目を落としていた。「あ、諸月くんは休憩してていいいからね」と言って、完全に集中モードに入った。


 僕もまた、完全集中モードでテスト勉強に戻った。今度は雨音さえ聞こえないほどに、集中していた。僕の目線など、今の秋月さんにとっては邪魔でしかないだろうから。


 いや、参考書に目を落としていたのみで、実のところ集中していなかったのかもしれない。なぜなら、集中する秋月さんの独り言が、はっきりともれなく聞こえていたのだから。


『いや、集中しろ私…』『彼の前だからって、何を浮かれているんだ』『学級委員長なんだから、勉強なんてできて普通でしょ』『とにかく集中するんだ私!』『いやそもそも普通は…』『普通の普通が普通で……』『うんうん、普通がいちばんなんだ。いちばんが普通で、普通がいちばんで……』


 などと、彼女の言語でそんな独り言を言っていた。途中で言っていた『彼』が誰のことなのかわからないというか、仮に僕のことだとして浮かれる理由はわかならない。


 ただそんなことよりも、『集中』や『普通』という意味の言葉を、自身に脅迫でもするかなように用いていた方が気になった。


 秋月さんはその両者のうち、後者『普通』という言葉をよく用いる。特に独り言のなかで、よく用いる。


 ただ、秋月さんの考える『普通』は周囲の人間が考える普通とは違う、のだと思う。秋月さんの考える『普通』は周囲からすれば『優秀』である。整った見た目にしても、優秀な成績にしても、本人はこれが地球人、日本人の普通やアベレージなどと考えているのだ。


 ここ最近は『いや普通は…』と薄々ズレに気付きかけているようだが、ズレの程度をどこまで自覚できているかは、正直あやしいところではある。


 一年前、僕は最初は『普通』に可愛いと思っていた。ただ一年間彼女の独り言を聞いていくなかで、彼女が『普通』にいかに拘り、『普通』に向けて努力しているのか、その一端を知ることができた。


 盗み聞きをしているようで、悪いなと思っていた。いや、盗み聞きをしてしまって、申し訳ないと思っていた。


 ただ聞いてしまって、秋月桜という人間の魅力を知ってしまって。不相応にも僕は、彼女のことが…。


 いや、分相応って言っているだろうが。


 それにそもそも彼女はその『普通』というものに苦しんでいる訳で…。


「…よし」


 僕は頬を叩く。


 ともかく僕は、試験勉強に集中することにした。

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